村上くんの恋(したごころ)



目の前に迫るサッカーボールをただ見つめることしかできなかった。避けようにも、この勢いのボールを避けるのはとろい私には至難の業だということは自分がよくわかっていた。顔面直撃コースかな、嫌だな。友達の悲鳴が鼓膜を揺らした。
と、思ったら、目の前に学校指定ジャージの紺色が躍った。今は夏場だから、みんな白いシャツに紺色のハーフパンツを着ている。だから、紺色がなんで私の目の前にあるんだろう、と思った。紺色に包まれた筋肉のついた足がサッカーボールを蹴飛ばす。その足はそのままくるりと回って、本来あるべき位置と向きに戻る、それと同時に上半身が起き上がってきて、村上くんのスンとした顔が視界に入った。トン、と軽やかに着地した村上くんはすぐに背筋を伸ばすと「大丈夫か?」と聞いてくれた。
私が何も答えられずにいると、周囲の喧騒がわっと押し寄せてきた。
「なまえ大丈夫!?」
「いま村上飛んだ!?」
「おいボール、気をつけろよ!!」
「ヤバ!」
当事者の私がいつまで経っても何も言わないから、村上くんが打って変わって心配そうに、どこか情けなく見えるほど眉を下げた。
「一応保健室に行こう」
先生に伝えといてくれ、とクラスメイトに言った村上くんは私の手首を引くと校舎へと歩き出した。
呆然としたまま保健室に連れていかれ、養護の先生に軽く問診され、少し休んでいく?と聞かれても私が何も言わなかったから、なんだかあれよあれよと次の時間は保健室で休むことになっていた。それじゃあ、と保健室を出ていった村上くんの背中を見て私はハッと正気を取り戻した。
「あ、の!!」
廊下に飛び出て村上くんを呼び止める。ゆっくりと振り返った村上くんは驚いたように少し目を開いていた。
「ありがとう!!」
ふ、と顔を綻ばせ、「気にしなくていい」と言った村上くんに、エフェクトがかかっている。キラキラ、ぽわぽわ、パチパチ、チカチカ。何の変哲もない、毎日見ている学校の廊下が。そう見えるということは。世界が、村上くんが、変わったということは。自分ながらチョロいと思うけど、私は村上くんのことを好きになってしまったようだ。

保健室に戻った私に養護の先生は「元気じゃない」と呆れたように言ったけど、ヨロヨロ覚束無い私の足取りを見て「あら」と慌ててベッドまで支えてくれた。それは先生が心配するような体調不良によるものじゃなくて、嵐のように駆け抜けて私を変えてしまった恋の衝撃によるものだったけど、私は自分が関与しないうちに決定していた療養時間を有難く思いながらベッドの中で丸まってその後一時間村上くんのことを考えていた。今まで村上くんとの接点は、同じクラスという以外特になかったし、村上くんの印象は、「かっこいい」より「かわいい」というものだった。特に村上くんはガタイのいい穂刈くんや荒っぽい影浦くんとよく一緒にいるから、それと比べると、余計「かわいい」人だと分類してしまう。よく天然気味なところを女子たちに半ばからかわれるように「かわいい」と言われているし、私も同じような認識だったのだ。
でも、さっきのは。ボールを蹴った瞬間のあの瞳。私の手首を難なく一周してまだ有り余る手の大きさ。手のひらの硬さ。頭ひとつ分の身長差。がっしりした肩。筋張った顔の輪郭。喉仏。すべてが「かわいい」なんかじゃない、男の子だった。ドキドキと痛むくらい打ちつけている心臓に、私はどう太刀打ちすることもできずに体操服の胸元を握りしめているしかなかった。

その翌日、村上くんは日直だった。けど、ペアの女の子が欠席で、これ幸いと私は村上くんのお手伝いを申し出た。といっても、当番の仕事なんてたかが知れているけど。
「日誌は私がやっとくから、先に帰って大丈夫だよ!!」
放課後、ボーダーで忙しいだろう村上くんにそう告げると、村上くんは困ったように笑って「そういうわけには」と言った。
「今日は日直だから、防衛任務は入れてないんだ。だから大丈夫」
「ま、真面目……」
たかだか日直なのに、と考えてしまう私とは人間としてのステージが違いすぎる。
「でも、本当に大丈夫だよ。すぐ終わるし。昨日のお礼もしたいし……」
「……あれは、本当に気にしないでくれ。みょうじのためにやったわけじゃないんだ」
「『情けは人の為ならず』って言うもんね……!!」
人間が出来すぎている。やっぱり村上くんと私では同じ土俵にも立てない気がする。えらい人に恋してしまった。
「うーん……、まあそういう……こと……か……?」
なんとなく煮え切らない様子の村上くんに首を傾げると、「悪い」と村上くんが笑った。う゛。フラッシュ焚いた?眩しい。
「単純に、好きな子がああなってたら助けるだろ」
ぽと、と開いた日誌の上に私が握っていたシャーペンが落ちて、ころころと二回回って止まった。
「あとは、好きな子の前でかっこつけたいっていう下心だから、気にしないでいい」と村上くんは言う。あの時。私の後ろには誰がいただろうか。村上くんの好きな子。って、誰だろう。村上くんしか見えてなかったから、周りに誰がいたかなんて覚えてない。
「む、村上くんの好きな子って、誰……?」
聞くのが怖いけど。でも村上くんのステージに少しでも近づくために、私は私ができることをするんだ。
「村上くんの恋、協力する……!」
こんなに素敵な人が幸せじゃないなんて、そんなことあっちゃいけない。それがたとえ、自分じゃない人とだったとしても。まあ、自覚したばかりの恋を手放すのは、少し、寂しいけど。ううん。むしろ自覚したばかりだったから、良かったのかな。
村上くんは目を見開くと、突然日誌の上に上体を突っ伏した。いきなり近い。慌てて身を引くと村上くんが長く息を吐くのが聞こえた。
「悪い、やっぱかっこつけた」
起き上がった村上くんはバツが悪そうに笑って、頬を指でかいた。
村上くんが椅子から立ち上がったのに合わせて、木の背もたれがぎし、と軋む。律儀に真っ直ぐ姿勢よく立った村上くんの目が。サッカーボールに狙いを定めるような目が。私を貫いて、今度は私に熱と震えのエフェクトを付加した。
「……みょうじのことが、好きだ」
見つめ合う私たちの間を、開け放しの窓から入ってきた生ぬるい空気と部活動に勤しむ生徒たちの声が駆け抜けた。



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