融解



待っているだけというのは落ち着かないものだ。家を出る前から、なんなら今日起きたときから、もっと言えば二宮くんを誘ったときからずっと、私は緊張でドキドキしている。私にできる限りの準備はしたつもりだ。落ち着け。
さっき確認したばかりなのにリップが落ちてないか、髪が崩れていないかが気になる。手鏡を取り出そうかと迷っていると、横合いから「早いな」と声をかけられた。ピシッと背筋を伸ばすと、二宮くんの姿を目に入れるより先に「来てくれて、ありがとう!」と声のした方向に頭を下げた。二宮くんの呆れたような声が上から降ってきたので頭を上げると、急に頭を振ったから目眩がした。でも一向に治まらないからこのチカチカキラキラしたものは二宮くんから醸されているものだと悟る。なんだか、いつも以上に輝いて見えるのは、やっぱり私が二宮くんのことを好きだからだろう。
「二宮くんこそ、まだ待ち合わせ時間じゃないのに」
「ミーティングが早く終わった」
そうか、と頷くと、私は予約したお店の方向を指した。
「じゃあ、少し早いけど行こうか」
二宮くんに手際が悪いとか、面倒だと思われたくなくてキビキビと歩く。今日ばかりはボロを出すことは許されない。

居酒屋の個室に向かい合わせで座り、すぐに運ばれてきたドリンクで乾杯をして、昨日の夜から用意していた話題を提供しつつ、食事をした。
食べ物を粗方食べ終え、おかわりのドリンクもたった今運ばれて来たばかり。しばらく店員さんがやって来ないようにシチュエーションを整え、私は二宮くんの名前を呼んだ。あ、掠れたし上擦った。最悪。
何回も頭の中でシミュレーションしたのに、やっぱり緊張で練習したことはほとんど思い出せなかった。
「なんだ」
真っ直ぐ私を見つめる二宮くんに、私は勢いのまま告白をした。
「すっ……、好きです!!」
きっと今顔は真っ赤で新しくおろしたチークも意味を無くしている。
「わ、私に二宮くんのサポートをさせてください!」
そうして私は自分のセールスポイントをつっかえながら列挙した。
「家事は一通りできるし、お仕事で抜けた講義のサポートもできるし、記念日とか全然気にしない、デートだって面倒だったらしなくていい、もちろん付き合ってることを言いふらしたりもしないし……」
準備してきた手持ちのカードを惜しみなく開示する。友人に聞かれたら「恋人じゃなくて家政婦じゃん」って呆れられそうだけど、私はそれで良かった。
二宮くんが好きだ。二宮くんの尊大で傲慢で強くてクールなところが好きだ。だから、私が二宮くんに求めるのは、私だけ特別な甘い恋人関係ではなく、いつもの、いつもの二宮くんだ。でもできればそれを一番近くで見ていたい。そんなわがままと慎みが綯い交ぜになった提案をする。二宮くんに好きな人や恋人がいないというのは調査済みだし、普段の彼を見ているとどちらかといえばそういう関係を面倒がるタイプの性格だと思う。だから、私は「都合のいいやつ」でいいのだ。二宮くんのサポートをする代わりに近くでかっこいい二宮くんのことを見ることができたら、恋人らしいことなんかできなくてもいい。そのためには、二宮くんに私と付き合うメリットを感じてもらわなければならない。だから私は二宮くんと付き合うためにできることをした。二宮くんの前ではできる女を装ったし、勉学にも励む努力家だという印象をもたせたし、二人でご飯にも誘って好意をほのめかした。そういう、「面倒じゃない」私を見せて、二宮くんに選んでもらえるように自分なりに努力をした、つもりだ。
「……わかった」
聞こえてきた言葉に弾かれたように顔を上げる。信じられない気持ちで二宮くんを見つめ返す。
「……つ、付き合って……くれますか」
呆然としながらそう訊くと頷かれたので、張り詰めていた気持ちがぷつりと切れて、そこから喜びがあふれ出てきた。
「よかった……」
少し泣きそうになりながらそう言うと、「大袈裟だ」と言われたけど、二宮くんはもう少し自分の価値を理解したほうがいい。全然大袈裟なんかじゃない。
「……よろしく、お願いします」
深く頭を下げると、私たちのお付き合いが始まった。




緊張しながらインターホンを押すと、すぐに二宮くんが顔を出した。私は手土産のどら焼きを差し出すと、キビキビと部屋の中に入った。
二宮くんは多忙だ。大学でもボーダーの人たちが入る研究室に所属していて難しい勉強をしているようだし、ボーダーの防衛任務でよく授業も抜けている。舌打ちをしながらお友達の課題に付き合っているところもたまに見かける。だから、私は二宮くんの部屋を掃除することを願い出たのだ。今は試験期間で、二宮くんほど多忙じゃない私は一足先に勉強やレポートを終わらせ、二宮くんのサポートに回ろうとしているのである。きっと二宮くんは私がゴソゴソしていても私の存在なんか無いものとして課題を進めるだろう。
初めて来る二宮くんの家に、付き合ってなおまったく慣れない二宮くんの隣。二宮くんは私の存在なんかきっと何ひとつ意識していないだろうに、私の緊張はマックスだった。でもそんなことは欠片も感じさせてはいけない。二宮くんの部屋をじっくり見てみたい気持ちを押し殺しながら、私は控えめに声をかけた。
「台所、お借りしていいかな。お茶淹れるから二宮くんは座ってて」
自宅から持ってきた茶葉は地元のいいとこのお茶だ。特別な日にしか飲まないそれを飲むのに、今日ほど適した日はない。淹れたばかりのお茶を二宮くんに差し出すと、私は早速掃除をしようと意気込んだ。
「二宮くん、触ってほしくないものとか、場所があったら教えて」
「ない」
それはよかった、と胸を撫で下ろすも、二宮くんの部屋は充分片付いていて綺麗だった。私が下手に触らないほうがいいような……。どこまで完璧な人なんだ。
「お洗濯物とかあるかな?あと、水周りの掃除とか──」
立ち上がりかけた私の手を二宮くんが掴む。
「おまえは、何をしに来たんだ」
呆れたようにそう言う二宮くんに、私はうろたえながら「そ、掃除……」と返した。もともとそういう話だったのでは……
二宮くんはため息をついて私の腕を引いた。二宮くんの隣に腰を下ろすどころか勢い余って二宮くんの胸に額をぶつける。
咄嗟に謝罪を口走りながら引こうとした私の腰に、二宮くんの腕がまきつく。ち、近い。未だかつてない距離に二宮くんの顔がある。私はみっともなく赤面してしまったのを自覚して、慌てて俯いた。
「……謝る必要はない。さっきも言ったがおまえに触られて困る場所はない」
ば、場所とか触るってそういう意味じゃ。二宮くんのその言葉になけなしの余裕の仮面はあっけなく引っペがされてしまって、ああ、こんなとこ見られたくないな、と思った。私は「都合のいいやつ」でいるために、余裕があって気が利いて、多くを望まない女でいなければならないのに。
「に、二宮くん、レポートとか、あるんじゃないの……?」
「もう済ませた」
「もう!?」
「おまえだって終わってるんだろ」
だって二宮くんは、昨日も一昨日も午後からボーダーのお仕事で講義にいなかったし、そもそも試験期間が始まってまだ三日しか経ってない。ボーダーのお仕事や研究室と課題を並行するのはとても大変だろうに、どれだけ要領がいいのか、この人は。
そこで私は気づいてしまった。私って二宮くんに全然必要ない。私の動機が「二宮くんの役に立ちたい」という綺麗なものだったら別れてあげることができるけど、私の動機は「二宮くんの一番近くにいたい」というとても利己的なものだ。こんな自己中心的で付き合うメリットのない女、このままじゃすぐ振られるんじゃ……二宮くんになにか別の価値を示さなきゃ……と頭を働かせていると、二宮くんに無理矢理顎を上げさせられる。
「っ……!」
気づけば二宮くんの顔が目前にあって、唇に柔らかい感触がした。私は目を見開いて二宮くんの瞼と睫毛を見ていた。するり、と手の甲を指で撫でられ、ギュッと手を握りしめてしまう。二宮くんは開かせるように私の指を引っ張った。恐る恐る手を開くと、二宮くんの指が、私の指と絡んで、結ばれる。私は頬が焼けるように熱くなったのを感じてきつく目を瞑った。ああ、全然だめ。こんなの平静でいられるわけがない。それからようやく手汗が、と思った。ゆっくりと二宮くんの唇が離れていって、私はやっと息を吸うことができた。目を開くと視界は涙で潤んでいて、私が作り上げたかった余裕のある女像は二宮くんのキスひとつで粉々に砕け散った。
「告白の時も泣きそうになってたな」
二宮くんは私の腰を抱いていた手を上に滑らせて肩にかけると、私の頬を指の背で撫でた。かっこ悪い。面倒って思われたかな。
「その顔は嫌いじゃない」
私は驚きで息を飲んだ。もちろんセリフにもだけど、何その声!?そんな優しい声、聞いたことない。
「に、のみやくんっ……」
耐えられなくなった私がそっと二宮くんの胸を手のひらで押し返すと、二宮くんは「何か不満か?」と言った。
「不満なんて……」
ただ、心臓がはち切れそうだから手加減してほしいだけだ。
二宮くんは私の肩を引き寄せるとじっと私を見つめた。その瞳は、まるで愛しいものを見るような熱っぽいもので。
「なら問題ないだろう。付き合ってるんだ」
私はもう少しで「待って!!」と叫んでしまいそうだった。だってこんなの、想像と全然違う。二宮くんはいつもクールで、冷静で、特定の誰かと仲良くしたりしない。それを裏打ちする彼の強さが好きで、私は二宮くんに告白したのに。二宮くんは私なんかと付き合ったとしても、恋人らしいことをしないと思っていたし、それでいいと思っていたのに。それなのに、どうだ。二宮くんは(いつもの彼と比べれば、だが)甘ったるい声で私を呼ぶし、愛しいと言うように私を見つめるし、ずっと手を繋いでいるし私の肩を抱いているし。こんなの、まるで、まるで恋人だ。
「ドキドキしすぎて、死ぬ……」
私はもう一度二宮くんの胸を突っぱねている手に力を込めた。
「……可愛いことを言うんだな」
確認するようにそう言われ、一秒くらい心臓が止まった。
……ああ、私は二宮くんのクールなところが好きで、だから二宮くんに都合のいい家政婦以上の関係を求めようなんて思ってなかったのに。
このままじゃ私、二宮くんにでろでろに溶かされて、もっと欲張りにさせられてしまいそうだ。



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