くものいと



背後から呼び止められ、二宮は振り返った。事務職員であるなまえがファイルを手に近づいてくる。
「今少し時間もらってもいいかな」
首肯するとなまえは簡潔に用件を伝え始める。二宮の視線はなまえの首筋に向いた。そこはしっとりと汗ばみ、後れ毛が首に張り付いていた。夏も盛りの暑い季節。トリオン体で過ごす人間が多いボーダー本部基地では節電も兼ねて廊下の空調は最低限に絞られていた。
「ーーじゃあここを二重線で消して、訂正印をもらっていいかな。そんなに急がないから、いつでも大丈夫」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
頭を下げると「いいのいいの」と優しい声が降ってくる。
「私にできることはこれくらいだから任せて」
おどけて力こぶを作って見せるなまえの他人からの評価は大抵が良いものだ。仕事が早い。気が利く。優しい。話しやすい。そんな理由で、事務員ながら防衛隊員にも年齢を問わず慕われている。しかし彼女にはもう一つの噂があった。口さがない学生たちの間でまことしやかに囁かれている噂。二宮は手首までしっかりと袖で覆われているなまえの後ろ姿を見送った。

最初に気づいたのが誰かは知らない。二宮はその噂を、出水と話している米屋から聞いた。
「なまえさんと仲良いっすか?」
「特別仲が良いわけじゃない」
「じゃあ二宮さんも知らないかー」
唇を尖らせつまらなそうにそう言う米屋の後頭部を出水が叩く。
「おまえ誰に聞いてんだよ」
出水は少しだけ気まずそうに、「こいつなまえさんの噂のこと気にしてて」と説明した。
「……噂?」
「なまえさんっていつも長袖だよなって」
トリオン体で過ごす人間がごまんといるボーダー本部基地では、夏場でも長袖の人間を見ることはそこまで珍しいことではない。
「でもなまえさんトリオン量低いから生身だし」
「だから噂になってんですよ。タトゥーが入ってるんだとかDV彼氏がいるんだとか」
その場では根も葉もないくだらない噂に呆れたようにため息をついた二宮だったが、その後なまえと会うとふとそのことを思い出してしまい、シャツに覆われた彼女の腕に視線が行くようになった。一度気にすると途端に気になる。なまえは寒がりだというわけではなく、人並みに暑さを感じているらしかった。事務員の制服はスーツだが、もちろん夏場にはほとんどの人間が衣替えをする。彼女が無理に長袖を着る理由は何もない。しかし事実、二宮が意識してから一度もなまえが腕を露出させることはなかった。

「遅れてごめんね」
騒がしい座敷になまえの申し訳なさそうな声が響く。飲み会の席に仕事終わりに顔を覗かせたなまえは普段のスーツではなく、オフィスカジュアルを身につけていた。しかしそれもまたしっかりとなまえの腕を覆い隠している。
なまえの労働を労い、再び乾杯の音頭がとられる、なまえはそつなく一杯目のビールを飲み干すと微笑んだ。
「二宮くん、ここ、空いてる?」鞄を抱えたなまえが、座敷の端にいた自分に声をかける。頷くと、なまえはほっと二宮の隣に腰を下ろした。二杯目を注文したなまえは、既に出来上がっている場の空気に気後れしたように笑った。
「二宮くん、なんだかこういう場にいるの、珍しいね」
「……まあ」
今日出席したのはなまえが来ると聞いたからだ。思っていた以上に自分はなまえの隠しているものが気になっているらしい。少しでも名前と話す機会ができたら。そう思っていたことは事実だ。
「これ、最初に諏訪さんが取り分けたやつです」
「私の?うれしー。諏訪くんは本当に気配り上手だよねえ」
皿に盛られた料理に箸を伸ばしながら、なまえは大きく笑いながら盛り上がっている諏訪を見つめた。その横顔を、上向きに伸びたまつ毛を、まつ毛の影が落ちる頬を何とはなく見つめていると、振り返った名前と目があった。
「二宮くんも、ありがとう」
嬉しそうに細められた瞳が、自分を見つめる。
「俺は何も」
「ふふ。二宮くんらしいね」
そう笑った彼女の名前が遠くから呼ばれる。なまえは二宮に会釈をするとグラスを持って呼ばれたほうへと移動した。結局彼女はあちこちに引っ張りだこで、お開きになるまで戻ってこなかった。

居酒屋の前で二次会だと騒いでいる集団をなまえは遠巻きに眺めていた。
「二次会は、行かないんですか」
「二宮くん。うん。明日もお仕事だし」
「送ります。俺も帰るので」
自分でも驚くくらい自然にそう言っていた。なまえは驚いたように目を見開くと、二宮の家の方向を聞いた。
「うーん……じゃあ途中までお願いしようかな」
ゆっくりと歩き出したなまえは、少し足元がふらついているように思える。
「たくさん飲んだんですか」
「そうでもないよ。え、私そんなに酔っ払い?」
頬に手を当ててショックを受けたようななまえに、二宮はそういうわけではないと首を振った。
「普段はほとんど飲まないし、あんまり強くないんだ」
二宮くんはあんまり顔変わらないねえとなまえが呟く。それからしばらく沈黙が落ちた。煌びやかな電飾が輝く街を二人で並んで歩く。なまえが立ち止まったのはそれからすぐのことだった。
「ごめん……気持ち悪い……」
口元に手を当てるなまえの腕を支え、トイレが借りられそうな店を探す。顔を上げた二宮の目にすぐ飛び込んできたのは、ラブホテルの看板だった。どうやらホテルの目の前だったらしい。タイミングの悪さに顔を顰めるも、更に間の悪いことに他にトイレが借りられそうな店が近くにない。
「もう少し歩けそうですか」
自分が背負って運んでもいいが、その揺れが逆に嘔吐感を誘発しそうだ。少し身をかがめてなまえの顔色を窺う。なまえは弱々しく二宮の袖を摘んだ。
「二宮くん……ごめんね、でも私、文句も後悔も言わない、から」
二宮は血色良くピンク色に染まったなまえの頬を見つめた。

ベッドに座ったなまえに冷蔵庫のミネラルウォーターを差し出す。ありがとう、と微笑んでペットボトルを受け取ったなまえに、気分の悪そうな様子はない。
「体調は」
なまえはふっと笑うと、「本当に真面目だねえ」と言った。
「わかってたから来たんでしょ?」
「わざと気づかせたんですね」
なまえは少し黙り込むと、「じゃなきゃ来てくれないでしょう」と呟く。
「知りませんでした、こんなに悪い人だったなんて」
「幻滅した?」
花がほころぶように笑ったなまえに目が吸い寄せられる。
「いや……」
二宮の体重を受け止め、ベッドがギシリと軋んだ。
「期待してたのは、俺のほうです」
なまえの唇に自分のそれを重ねながら、なまえの後頭部に手を回す。なまえの髪の毛をまとめていたバレッタを取ると、なまえの髪に指を通す。ふわりと香るシャンプーの匂いに、目眩がしそうだった。
なまえの下唇を軽く食んで唇を離すと、ゆっくりと彼女の体を押し倒した。シーツに髪の毛が散らばる。頬にかかった髪の毛を指で払うと、二宮は彼女の服に手をかけた。いよいよ彼女の素肌を、いつも服に隠されているものを見ることができる、そう思うと自然と急くような手つきになってしまった。ブラウスのボタンを外すと、白いキャミソールが現れ。彼女の肌を覆う薄い膜を引き剥がすと、白い腕が露わになった。

その腕には、何もなかった。

傷痕も、タトゥーも、何もない。ただの、女の白い腕。
その腕が突然にゅうっと伸びて、自分の首に絡む。その時二宮の頭に突然「捕まった」という考えが浮かんだ。
「どうして隠すんですか」
「隠されたら暴きたくなるのが人間でしょ?」
釣られてくれてありがとう、そう微笑む女の腕を二宮は強く握った。

背後から呼び止められ、二宮は振り返った。なまえがファイルを手に近づいてくる。
「昨日はごめんね。ありがとう」
一切の隙のない微笑みとともに、なまえは手を振った。
「また連絡するね」
なまえはそれだけを伝えるとするりと二宮の手の中からすり抜けるように歩き去っていった。
二宮は見せつけるように半袖から白い腕を覗かせているなまえの後ろ姿を見送った。



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