二宮匡貴は間違えない



駅前のカフェで電車を待っていると、ものすごくタイプのイケメンが店に入ってきた。目の保養だな〜と思いながら目で追うと、そのイケメンはずんずんこちらに近づいてくる。うわ目合った。気まずっ。視線をテーブルの上のフラペチーノに移すと、そこに影が落ちる。顔を上げると先程のイケメンが私の隣に立っていた。
「お前のことが好きだ。付き合え」
美人局って、男性バージョンもあるんだなあ、と思った。
「すみません。間に合ってます」
そう無難に返してまた視線を逸らすと、イケメンが「なんだと?」と低い声を出した。
「付き合ってるやつがいるのか」
「そうじゃなくない?」
この人天然なのかな。イケメンで天然とか、『おもしれー男』じゃん。
「普通に会ったばかりの人とお付き合いはできません」
そう言って時計を確認した。あと二十分かぁ。今出たら少し時間持て余しちゃうな。
「わかった」
イケメンはどっかりと私の目の前の席に腰を下ろすと……許可してないんだけどな……携帯を取り出した。
「連絡先を教えろ」
「ええ……」
「友人から初めてやる」と言われて、あまりにも上から目線で逆に愉快になってしまった。
「最近の美人局って面白いんだね」
そう言って笑うと、イケメンは眉をつり上げて「詐欺じゃない」と言った。
「まあそりゃ、詐欺ですって言う詐欺師はいないよねー……」
そろそろ出ようかな、と思って残りのフラペチーノをストローで吸う。携帯を鞄に仕舞おうとしていると、目の前に何かが突き出された。
「三門市立大学学生証」と書かれたカードには、イケメンの写真と「二宮匡貴」という名前が記されていた。イケメンは更に保険証を取り出すと、並べて身元の証明をした。
「不安なら写真にでも取っておけ」
なんか話の流れ変わってきたな。最近の詐欺ってこんなに手が込んでるもの?でもなんで私をカモにするんだろう。ブランド品だって身につけてない、どこにでもいる冴えない大学生なのに。
私がぼんやりしていると、イケメン……二宮さんは、保険証を裏返して住所も提示した。なんでこの人こんなに必死なんだ。その住所を見た私はふと「三門に住んでるんですか」と聞いてしまった。
「……ああ」
「偶然。私も以前三門に住んでたんですよ」
もしかしてどこかで会ったことあるのかな、と思った。でもこんなイケメン、すれ違っただけでも覚えてそうなものだ。ものすごくタイプだし。
うーん、と首を傾げていると、私はあっと声を上げた。
時計に目を落とすと、私はたった今電車が発車したことを悟った。
「やっちゃったー……」
次の電車までたぶん一時間くらい。追加注文するしかないか、と思っていると、二宮さんに「この後予定があるのか」と聞かれた。
「いえ特に……」
「……なら飯に行くぞ」
「え……」
「飯くらいいいだろ。俺の奢りだ。好きなものを選べ」
タイプのイケメンと奢りでご飯。ものすごくそそられるが、怪しすぎる。
「私がお店選んでいいんですか」
「ああ」
「チェーン店でも?」
「好きにしろ」
「……ほんとに奢り?」
二宮さんはふっと息を吐くと机の上に自分のものらしい財布を置いた。
「なら店を出るまでお前が持ってろ」
とことん理解不能で困惑する。
「何が目的なんですか……」
「お前と付き合うことだ」
「なんで?」
「お前のことが好きだからだ」
なんか最初に戻ったな。
怪しい。怪しすぎるけど、この真に迫る感じは、騙そうとしているのとは違うような……
「…………ご飯だけなら……」
誘惑に負けてそう言うと、二宮さんがホッと顔を和らげた。……そんなかわいい顔もできるんだ!?
「何が食いたい」
「あ。えーと、うーん、お魚かなあ」
「……魚が、好きなのか」
「お肉よりお魚派なんです」
私は席を立つと、二宮さんの財布を握りしめて再びレジに向かった。二宮さんのお金でテイクアウト用のベーグルを買うと、二宮さんに押しつけた。
「お店使わせてもらったんならなんか買わなきゃ」
家に帰って食べてください、と言ってお店を出ると、隣に並んだ二宮さんは「気が回らなかった」と呟いた。
「おまえのその周りをよく見て気が利くところが好きだ」
「そっ……ういうこと言うタイプの人なんですね!?」
「俺は同じ間違いはしない。それだけだ」
それってどういう、と聞く前に二宮さんが「寿司でいいか」と言ったから、私は慌てて頷いた。



駅前で待っていると、すぐに二宮がやって来たのに気づいた。二宮はとても目立つから。
二宮に初めて会って告白されてからもう三ヶ月経つ。自分でも正気の沙汰じゃないと思うが、私はこんなに怪しい男と付き合っていた。ほとんど二宮の圧に流されるような感じだったけど、この顔に口を開けば付き合えと言われ贈り物を贈られて抵抗できる女がいるなら会ってみたい。
二宮はデートの時もわざわざ電車を乗り継いで私に会いに来るし、連絡もマメだし、今のところ運気が上がる壺の話とか絶対にみんなが儲かる話になったこともない。
「待たせたか」
「んーん。大学寄ってから来たから、バスの都合で早く着いちゃっただけ」
二宮は私の手を自然に取ると、「前に行きたがってたカフェを予約してる」と歩き出した。
二宮は私が「デートの時は手を繋ぎたい」と言ったら毎回律儀に手を繋ぐし、いつもエスコートするように私を引っ張ってくれる。
正直言って二宮とのデートはとても居心地が良い。
二宮は言葉の端々からプライドが高く少し他人を見下している性格なのが透けて見えるが、私には機嫌を伺うようなことをするし、素直に「好きだ」とか伝えてくれるし、私のわがままもだいたいのことは聞いてくれるし、私を尊重してくれる。それに加えてこの顔とスタイル。
「ほんとに私たちって付き合ってる?」
「おまえ、まだ疑ってたのか」
呆れたようにそう言われるけど、そう簡単に信じられるわけがない。
「だって考えてもみてよ。初対面の人にいきなり付き合ってって言われたら、二宮どうする?」
「通報する」
「寛大な私に感謝してよね」
「でもおまえはシンデレラストーリーが好きだっただろ」
二宮の口からシンデレラストーリーって出てくるのおもしろっ……てか私、二宮にシンデレラ好きって話したことあったっけ?
二宮は時々十年来の友人のように私のことを見透かすような言動をすることがある。
「ねえもうすぐハロウィンじゃん。ディズニー行きたい」
ダメもとで誘ってみたら、二宮は呆気なく頷いた。
「え、ほんとに?ほんとにほんと?」
「なぜ疑う」
「二宮、ディズニーとか興味ないでしょ?」
「ない」
「付き合ってくれるのか〜って思って……」
「おまえは行きたいんだろ」
私は繋いでいた二宮の手に力を込めた。
「私、二宮のそういうとこ好きだよ」
二宮は自分が興味ないものを一蹴しそうに見えて、実はちゃんと向き合ってくれる人なのだ。
「自分の好きなものを『そんなもの』って切り捨てられるのって悲しいじゃん?だから、興味なくても付き合ってくれるのってうれしい」
「…………そうだな」
カフェに着いてからランチプレートを頼むと、私は二宮に手を合わせた。
「もういっこワガママ言っていい?ディズニーの時着ていく服私に選ばせて!」
おねがい!と拝むと、二宮は「好きにしろ」と言った。これも受け入れるんだ。
「ほんとに!?えー嘘、めちゃくちゃ楽しみ!Dハロでバウンドコーデするのずっと憧れだったんだよね……!」
二宮はきっと「Dハロ」も「バウンドコーデ」もそれが何かよくわかっていないだろうけど、「そうか」と頷いた。
「ねえこの後、服見にいかない?」
どんなコーデにしようか考えながらそう提案すると、これまた二つ返事で承諾される。私は嬉しくなって思わず二宮の手を握った。



「いらっしゃい!」
夢の国に行く前日、二宮の家より私の家のほうが近いからという理由で私は二宮を家に呼びつけた。実際は楽しみでソワソワしすぎて一人だと落ち着かなかったからだけど。
ふたりで買いに行った二宮用の白いコートや臙脂色のパンツを取り出させて、皺にならないようにハンガーにかける。私が着る予定の水色のワンピースと並んでいるのを眺めるだけで私はワクワクで堪らなくなった。
「早く明日にならないかなあ」
「ガキか」
二宮は少し呆れの混ざった顔で笑うと、私の頭を撫でた。浮かれている私は二宮の手に擦り寄ると、へらへらと笑った。
「明日は早起きだから、今日は九時に寝る!」
「何時に起きるつもりだ」
「四時!ゴソゴソしちゃうけど二宮は寝ててね」
二宮は何やらじっと私の顔を見つめている。
「どした?」
「いや……こんなに喜ぶなら、もっと早く連れて行っておけばよかった」
珍しく殊勝な態度に私はふふふと肩を揺らした。
「今連れて行ってくれるだけで十分だよ!」
二宮はまた柔らかく私の髪を撫でた。

ゲートをくぐって園内に一歩踏み出すと、私は二宮を振り返った。
「二宮、どうしよう……」
「どうした」
二宮はすぐに私の腰に腕を回して支えると私の顔を覗きこんだ。
「も、もう楽しすぎる……」
そう伝えると二宮はため息をついて手を離した。
「んなこと言ってたら一日もたないぞ」
「私生きて帰れるかなあ〜!?」
「こんなところで死なせてたまるか」
私は二宮の手を引っ張ると、二宮に着けさせるカチューシャを探すために足早に歩き出した。
それからは、抵抗する二宮に無理やりカチューシャを着けさせ(最終的に泣き落としにかかると嫌々着けてくれた)、グリーティングで俺はいいと言う二宮を引き摺って一緒に写真を撮って(せっかくミッキーが腕を組んでくれたのに二宮が棒立ちだったせいでミッキーに誘拐されているみたいだった)、並んでいる時間には二宮にディズニーの知識を叩きこみ(二宮にかかればプーさんは黄色い方のクマだしダッフィーは茶色い方のクマだ)、シューティングゲームで見たことない高得点を叩きだす二宮にちょっと引いた(冗談で「もしかして暗殺業でもやってる?」って聞いたら顔を逸らされた。まさかね)。
気づくと空はもう夕焼け色が侵食していて、私は慌ててシンデレラ城に向かった。
「いい歳してって思われるかもしれないけど、昔からずっとシンデレラに憧れてたの」
だから今日のバウンドコーデで絶対にシンデレラ城の前で写真を撮りたかったのだ。
精一杯腕を伸ばして写真を撮ろうとしたが、私の短い腕は二宮の縮尺とシンデレラ城の縮尺に対応できなかった。自撮りに苦戦していると、通りがかった女性が撮りましょうかと言ってくれて、私は何度も頭を下げながら携帯を渡した。
二宮の隣に戻ると、二宮がすっとその場にしゃがんだ。靴紐でも解けたのかと思ったが、二宮は片膝をつくと私の手を取った。
「え……え!?何!?」
「今日のおまえは姫なんだろ」
驚きすぎて二宮の顔を見つめることしかできなくなっていると、「めっちゃ素敵に撮れましたよ!」と言う女性の声で我に返った。呆然としながら携帯の画面を確認すると、そこには童話の中から抜け出したような二人がいた。
二宮がかっこよくてキマっているのは当たり前だけど、二宮に手を取られている私も、顔を作る余裕なんかひとつもなかったのに、なんだかいつもより可愛い。だって、私、こんな顔してるんだって気づいちゃった。私ってこんな二宮のことが好きだって顔してたんだ。私がぽけっとしていると、「パレード見るんだろ」と二宮が私の手を引いた。人垣の後ろのほうでぼんやりぴかぴか光るフロートを眺めていると、なぜか涙が溢れてきて止まらなかった。ぐすぐすと鼻を鳴らす私の肩を二宮が引き寄せる。パレードを見送った後、余韻を噛み締めながらティッシュで鼻をかんでいると、二宮は私の頬を指で撫でた。
「……今夜ホテルを取っている」
「え」
「行きたくなければ無理しなくていい。行くかどうかはおまえが決めろ」
「せ、せっかく泣き止んだのにぃ〜」
またボロボロ泣きながら私は「行く!!」と叫んだ。

私はずっと、心のどこかで二宮のことを好きになっちゃだめだと自分に言い聞かせていた。だって、どう考えても釣り合ってないのは私のほうで、私は未だにいつか綺麗な女の人が突然現れて「私のオトコに手を出したわね!」と金銭を要求されるのではないかと疑っている。どう考えても別れた時にダメージが大きいのは私のほうだ。だから、深入りしないように、たとえ騙されていたとしても「やっぱりね」で済むように、境界線を引いていた。でも。
ホテルの部屋に入ると、私は二宮の袖を引っ張った。
「あのね、今日一日すごく楽しくて、本当に二宮と来れて嬉しくて……」
付き合ってくれてありがとう、って言おうとしていたのに、込み上げた気持ちが止まらなくて「好き」と言った。
「私、二宮のことが好き」
二宮は目を見開いてじっと私の顔を見つめると、ゆっくりと私の頬に触れた。
……え。二宮の手、震えてる。
「……おまえがいつもそうやって必死に訴えるのが可愛くて、俺はわざと気づかない振りをしたことがある」
二宮はまるで懺悔するかのようにそう言ったが、私には心当たりがなく、それがいつの話なのかもわからなかった。
「……俺はもう間違えない。おまえのことが好きだ」
二宮はずっと真摯に全身で私への好意を示してくれていたのに。愛しさのこもった熱い視線を受け止めて、私はシーツに沈みこんだ。
愛しさに胸を焦がされて泣きながら「匡貴」と呼ぶと、二宮はまた震える手でそっと私の頬を包むと何度もキスをした。
私はきっと今日のことを一生忘れないのだろう。たとえ二宮と別れる時がやってきたとしても。



匡貴に肩を貸しながら雑誌をめくる。匡貴は大学以外にも何やら色々と忙しいらしいが、その詳細を私に語ることはない。それでもいい、と思った。こうやって私に頭を預けて無防備に寝ているところを見せてくれるなら。雑誌を見ながら次のデートではどんな服を着ようかと考えていると、匡貴が身動ぎした。
「悪い……寝た」
「おはよ」
匡貴の頬を撫でると、私は雑誌を見せた。
「ねえ。クリスマスはイルミネーション見に行こうよ」
「おまえ寒がりだろ。大丈夫か」
「それくらい平気だよ」
「おまえはいつも寒い寒い言うくせに外に出たがる」
匡貴のゆったりとした優しい声には私を非難する色は少しもない。それでもその言葉は私の胸のささくれに引っかかった。
匡貴はたまに十年来の恋人のように私のことを見透かすような言動をすることがある。私と匡貴が出会ったのは初夏のことだから、一緒に過ごす冬はこれが初めてのはずなのに。
匡貴は私越しに誰を見てるんだろう。誰と比べてるんだろう。
名前を呼ばれたので私は慌てて表情を取り繕った。
「年が明けたら、初詣にも行きたいな」
「ああ」
臭いものには蓋をして、気付かないふり。それでいいと自分に言い聞かせた。

三門市には高校生の時まで住んでいて、私が県外の大学に進学する際に家族共々引越した。両親は祖父母宅の近くに、私は大学の近くに。それ以来一度も戻ってきたことがなかったのだが、久しぶりに電車を乗り継いで三門市にやって来ていた。大学進学直前に携帯電話の機種変をして高校時代の友人の連絡先はほとんど残っていなかったし、匡貴と付き合い出してからも匡貴はやんわりと私が三門市に行くのを回避しているように思えた。今日は匡貴の忘れ物を届けるという名目で三門市にやって来たのだ。匡貴は大学にいるかな。とりあえず散策ついでに大学まで行ってみようかな。
近界民の被害により建て直されたばかりの三門市立大のキャンパスは綺麗で、毎日近い場所で近界民の侵攻が起きているなんてとても思えなかった。
正門付近に着いたので匡貴に連絡をしようと携帯を取り出すと、「二宮くん」という声が耳に入った。反射的に顔を上げると、そこには匡貴とスレンダーな金髪美女がいた。絵に描いたようにしっくりくる二人に、私はつい見とれてしまった。いつか私のところにこの美女が可憐な涙を見せながら現れて、「二宮くんを取らないで」と言う場面が頭に浮かぶ。そう言われたらきっと私は匡貴と別れるだろうしお金だって払ってしまうだろうと思った。昔憧れた童話のプリンセスには、きっとこんな人が相応しい。
私はくるりと踵を返すと、そのまま駅に戻った。

「待ったか?」
「ううん、全然」
匡貴は赤くなった私の指先を見て「だから迎えに行くと言ったんだ」と眉を寄せた。
「だって、クリスマスデートなら待ち合わせをしないと」
「なんの根拠があるんだそれに」
匡貴の、私のものよりは温かい、でもひんやりする手を握ると、私は「行こう」と促した。
イルミネーションを眺めていると、ディズニーのパレードを思い出してちょっと泣きそうになった。
「寒いだろ」
「平気だよ」
強がってそう言うと、すべて見透かしたように匡貴は「店を予約してる」と言った。匡貴の予約した席は窓際に並んで座れるシート席で、窓の外にはぴかぴか光るイルミネーションが見えた。きっと私のことを考えてお店を探して予約をしてくれた匡貴に、「良いセンスしてる」と言うと匡貴は当たり前だと言うようにつんと顔を逸らした。
料理を食べ終わると、匡貴が鞄から小箱を取り出した。私はそれを受け取ると「開けてもいいの?」と確認した。
箱の中には大きなビジューの指輪が鎮座していて、私は目を見開いた。プレゼントに定番なブランドの名前が刻印してある箱を見るだけで並大抵の額ではないとわかるのに、こんなに大きな宝石。
「高かったでしょ」
気後れしてしまって眉を下げると、「そんなことを気にするな」と怒られた。
「おまえ、こういう指輪がほしいって言ってただろ」
私はひゅ、と息を吸い込んだ。
その発言に心当たりがなかったからだ。
こんなことよくあることなのに、今日の私は流すことができなかった。
確かに、夢見がちな私がこういう指輪に憧れていたのは確かだけど。
それは、誰の言葉?
誰と間違えたの?
頭の中には、最初からそう誂えられたように匡貴の隣にぴったりくる金髪美女のことが浮かんだ。
「……匡貴って、いつも私じゃない誰かを見てる」
私は小箱の蓋をぱくんと閉じると、匡貴の手に押し付けた。
「──誰のこと考えてるの?」
私はコートと鞄を抱えると、「ごめん、少しだけ時間がほしい」と言って店を出た。匡貴に捕まらないように店を出てすぐに駆け出す。人混みに紛れて、寒さも涙も気付かないふりをして、ただ走っていると、いつの間にか二駅分ほど走っていたみたいだった。こんなに息が続いたことに驚く。無我夢中だったうちは感じていなかった寒さや足の痛みがじんじんと響いた。私は道端でもぞもぞとコートを着ると、ポケットに入れっぱなしだった携帯が震えているのに気づいた。携帯の画面を見ると、匡貴から何十件も着信が来ていて、ため息を吐いた。ポケットに押し込もうとした携帯が、かじかんだ手からするりと抜けて、垂直に地面に激突した。
「あっ……」
かしゃんと音を立てながらヒビが入った画面に触れても反応しない。私は泣きそうな気持ちで携帯を見つめた。
本当は、一日かけて頭を冷やしたらすぐに匡貴に連絡を取るはずだった。そうして謝って、不安とか疑心に蓋をして、匡貴にお願いしてプレゼント交換をもう一度するはずだった。
これだけが、私と匡貴を繋ぐものだったのに。私は匡貴が何学部かも匡貴のバイト先がどこかも匡貴がどこに住んでるのかも知らないのに。
とうとうその場に座り込んでしくしく泣き出した。クリスマスの夜に道端で泣いている女に声をかけられる人間はそうそういないらしく、私はしばらくそうやって後悔を垂れ流していた。

寒い中マラソンをしたのと、その後も野外にいたことで私は風邪を引いてしまった。親に連絡して帰省の予定がずれるかもしれないと伝えると、迎えに来てくれると言うので熱が引くまで実家で過ごさせてもらった。一人で寝ていると嫌なことばかり考えて悪夢を見るから、傍に人がいてくれるのは有難い。親には寝ていないとダメだと言われたが、私はほとんどリビングのソファで毛布を被って、親の傍に引っ付いていた。事情を知らない親は子供返りかと思ったらしく、あんまり強く私を一人にさせなかった。そんな生活をしていたから、私の体調が以前と同じくらいに快復したのは年が明けてからだった。私は新春特別番組を見ている時も初詣に行った時もお雑煮を食べている時も匡貴のことを考えていた。早く匡貴に会って謝らなきゃいけないと思いながら、今更のこのこ現れたところで匡貴はもう私のことを切り捨てて金髪美女とよろしくやっているかもしれないと思うと踏ん切りがつかなかった。せめてメッセージを送りたいと思ったけど、新しくなった携帯にメッセージアプリを引き継ごうと思ってもパスコードがわからない。前に変えたのは高校生の時だったから、自分の部屋を引っ掻き回してメモを探したり思いつく限りの心当たりを打ち込んでみたりしたけど無駄だった。匡貴の電話番号も覚えていないし、他にSNSも知らない。結局、私にできるのは直接会いに行って当たって砕けることだけだったのに、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。
予定していた帰宅を少しだけ早めて、久しぶりに自分の部屋に帰ってきた。ベッドに荷物を置くと、インターホンの録画ボタンがチカチカと光っているのに気づいた。セキュリティのいいところにしなさいと親に言われて決めたこの部屋は、インターホンを鳴らすと録画が始まり、来訪者の姿を撮影してくれる。なんとはなしに録画を確認すると、ズラッと録画の履歴が並んで息を飲んだ。履歴を遡っても出てくるのは匡貴の姿ばかりで、年末年始もほとんど毎日のように通ってくれていたことがわかる。最後の履歴は昨日の日付で、私はちっぽけな躊躇いを投げ捨てて、財布と携帯とコートを引っ掴んで家を出た。冷静に考えたら、家で待っていることが一番匡貴に会う可能性が高い方法だったのに、私はじっとしていられなくて、三門市まで電車を乗り継いだ。駅前にやってきて、こうなったら三門市立大に行ってそこにいる人に片っ端から声をかけようと決意した。匡貴は目立ちそうだし、一人くらい知り合いがいるはずだ。
「……なまえ!?」
駅前を足早に歩いていると、唐突に名前を呼ばれた。驚いて振り向くと、そこにはいつぞやの金髪美女がいた。腕を掴まれて、つい身を硬くする。
「どうして……」
「あの……どこかでお会いしたことがありますか……?」
そう尋ねると、金髪美女は一瞬悲しそうに目を伏せた。
「……どうして三門に?」
「……あ、あの。匡貴の連絡先知ってますか」
私は三門市にやって来た本来の目的を思い出して美女にすがった。これも冷静に考えてみれば修羅場になってもおかしくない選択だったけど、美女は顔を歪めると、「一応聞くけど、二宮匡貴のことを言ってる?」と言った。私が頷くと金髪美女は額に手を当てて長い息を吐くと、切り替えるように「二宮くんを呼び出してあげるから、それまで一緒にお茶しましょ」と綺麗に笑った。

駅前のカフェに入ると、根掘り葉掘り匡貴とのことを聞かれ、私はしどろもどろになりながら答えた。答えれば答えるほど美女の笑顔が怖くなっていき、「悪いことは言わないから、あんな男とは別れたほうがいいわ」と言われた。これからお金の請求が始まるんだろうかと身を縮めていると、「うわ、マジでいる」と男の人の声がした。顔を上げると、ヒゲ面の少し治安が悪そうな人がいて、ああこれは、お金を払うかサインをするまで帰してもらえないやつだ……と思った。
二人の視線が何かを促すように私に刺さる。私は小さく「はじめまして」と呟くことしかできなかった。
「あー、俺もかよ」
ボーダーの記憶処理こえーと呟く男性の言葉のほとんどに覚えがなく、私は首を傾げた。
「堤くんは任務中みたい。残念ね。来馬くんは今から来るそうよ」
「あ、あの……?」
これ以上人手を増やしてどうするんだ。とっくにオーバーキルだろうに。
「んで、なんで戻ってきた」
「あ、以前どこかでお会いしましたか……?」
やはり記憶になくて、申し訳なく思いながら男性に尋ねる。「戻って」と言うくらいだから三門市に住んでいたころに何らかの関わりがあったのだろう。
「まあ、ちょっとな」
「二宮くんに会いに来たそうよ」
「は?二宮?なんでまた」
「今二人は付き合ってるらしいわ」
すました顔で紅茶を飲む美女に、男性がぽかりと口を開ける。
「オイオイオイ……何があったらそうなんだよ」
そもそもの原因あいつじゃないのか、と呟いた男性を窘めるように美女が「太刀川くん」と言った。
「ねえ、本当に脅されていたりしない?二宮くんの傲慢に嫌気がさしてない?」
美女が私に向き直ってそう尋ねる。私は小さく首を振ると、「むしろとても優しいです」と答えた。タチカワさんが口笛を吹き、美女が苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「加古ちゃん!」
そこで新たな人手……たぶんさっき言ってたクルマさん……が増えて、柔和そうなその男性は「ほんとにみょうじちゃんだ……」と言った。
私が申し訳なく思いながら首を捻ると、カコさんが肩を竦めた。
「二宮が優しいってマジ?」
一人だけ楽しそうなタチカワさんに、匡貴の優しいエピソードを少し紹介すると、タチカワさんは笑いながら「なる」と言った。カコさんは「ほんっと傲慢」と憮然としていて、クルマさんは苦笑いしている。
「最近、私が一方的に連絡を絶っちゃって……」
「それで最近あいつカリカリしてたのか」
「あら、太刀川くんに対してはいつも通りだったわ」
「マ?」
「マよ、マ」
匡貴の話を聞くと、早く会いたくてソワソワしてしまう。もう二週間近く会っていないのだ。
「じゃ、一通り聞き出したことだし二宮くんを呼びましょうか」
「……まだ連絡してなかったんですか!?」
「ええ。でも、どうせすぐ飛んでくるわよ。安心して」
カコさんは携帯のカメラで私を撮ると、優雅に携帯を操作し始めた。
「来馬、何分で来るか賭けようぜ」
「二宮くんの一大事なんだから、賭けるのはよくないよ……」
それからやっと、三人が匡貴と同じ大学に通っている同期だということを教えてもらった。そして三人ともと連絡先の交換を求められたのだが、私は携帯を新しくしたばかりで、メッセージアプリのパスコードがわからないことを正直に話した。
「1027」
「え?」
「試しに打ってみて」
困惑しながらも打ち込んでみると、あっさりとロックは解除された。
「え……!?どうして……」
「……二宮くんの誕生日よ」
美女がまたも憮然とした表情でそう言う。謎は更に深まる。だって、このパスコードを設定したのは、匡貴と会う前なのに。
なんで知っているのか、と聞こうとした瞬間、ドアベルが激しく鳴って私は顔を上げた。そこには久しぶりに会う匡貴がいて、私は反射的に椅子から立ち上がった。
「匡貴っ……」
革靴を鳴らしながら早歩きで近づいてくる匡貴に、まず謝ろうと口を開いたけど、そのまま抱きしめられたたらを踏んだ。
「わ、わ、わ、あ……」
踏ん張ることができなくて元座っていた椅子に尻餅をつくように座っても、匡貴は私を抱きしめたまま離さない。
「ごめんね、携帯壊しちゃって、連絡できなかったの」
匡貴の背中に手を回して撫でる。
「デートの日に風邪引いちゃって、しばらく実家で療養してて……」
「…………体は」
「もう大丈夫。さっき家に帰ったんだけど、毎日来てくれてたんだね。ありがとう。ごめんね」
「また……おまえがいなくなったかと思った」
『また』。
珍しく、いつもと比べたら弱々しい声を出した匡貴がハッと体を硬くした。
「……悪い。おまえはこういうところが嫌だったのに」
また間違えた、とまるで迷子の子どものように途方に暮れたように言う匡貴には悪いけど、小さく笑ってしまう。
「……大丈夫だよ。匡貴が少しくらい間違えても平気なように、私がしっかりするから」
金髪美女よりも匡貴からもらったものを信じられるくらい。
「本当にごめんね。仲直りしてくれる?」
「……俺のほうが」
小さく呟きながら顔を上げて、そこでやっと三人の観客がいたのに気づいたらしい匡貴は、顔を歪めた。
「……加古はともかく、なぜお前らがいる」
「こんなに面白そうなこと一人で独占しちゃ勿体ないわ」
携帯を構えているカコさんはもしかしてずっと録画していたのだろうか。
「良かったな、二宮!」
タチカワさんは祝福してくれただけなのに、匡貴は鋭く舌打ちをした。
「……世話になった。感謝する」
しかしちゃんと頭を下げた匡貴に倣って、私も慌てて頭を下げる。匡貴はこういうところがきちんとしている人だけど、三人が少し驚いた顔をしていたから、同期にはあんまりこういうことしないのかなあ、と思った。
「でも本当に二宮くんはオススメしないわ。別れたくなったらいつでも相談して」
「おい」
「あ、連絡先、交換しようぜ。ふるふるでいいか?」
「ふるふるはもうないのよ、太刀川くん」
「マジ……?」
「今度みんなでご飯でもどうかな。堤も会いたいだろうし」
「あ、私もいていいんですか……?」
「ええ。二宮くんアウトであなたがイン」
「ふざけるな」
新しい連絡先が三つ増えて、次回の約束をしたところでその場はお開きとなった。
匡貴は私の手をとると、「寒くないか」と言った。適当なコートを掴んで来てしまったから、少し肌寒い。
「ちょっと」
「俺の家まで少し我慢しろ」
匡貴の家は本当にそこから近くで、部屋に入ると匡貴はすぐに暖房のスイッチを入れた。
「好きに座れ。コーヒーでいいか」
「あ、ありがとう」
コートを脱いでソファにちょこんと腰を下ろす。マグカップを手に戻ってきた匡貴は、私の隣に腰を下ろした。
「……少し痩せた?」
匡貴の頬を手で包むと、匡貴は瞼を伏せた。
「おまえがいないと、飯を食べる気にもならないし眠れない」
「わあ、責任重大だ」
「だからもう、何も言わずにいなくなるな」
「大丈夫だよ。何も言わずに離れたりしないって約束する」
私は匡貴の頭を抱きしめて髪の毛を撫でた。
「……早く結婚でも何でもしておまえが俺から離れられないように縛りつけてやりたい」
「結婚を縛りつける手段にするのはやめようね……」
私は匡貴の頭を離すと、左手を差し出した。
「匡貴がつけて?」
その言葉の意図を理解した匡貴は、「受け取ってもいいのか」と私に訊いた。
「匡貴こそ、つけるなら覚悟したほうがいいよ」
匡貴は鼻で笑うと、すぐにクリスマスの日ぶりに見る小箱を取って戻ってきた。匡貴のすらりとした指が私の左手を掴み、薬指に指輪を滑らせる。
「ああ、こんなことになるなら私もクリスマスプレゼント持ってくればよかった」
渡せずじまいのプレゼントは、私の部屋の押し入れの中でしょんぼりとリボンを揺らしていることだろう。
「今度会う時に渡すね」
匡貴がくれたぴかぴかの指輪の嵌った左手を見ると、やっぱり泣けてきて私は誤魔化すように笑った。匡貴はそんな私の様子を見て頬を撫でるとゆっくりと顔を近づけた。
久しぶりに触れ合った唇を求め合うように何度も押し付け合って、それでも足りなくて舌を絡め合う。一生懸命匡貴の動きに応えていると、匡貴の手が私の腰を撫でた。ぞくぞくと体が震えて、私は息継ぎの合間に「待って」と呟いた。匡貴は知らんぷりで私の体を徐々にソファに押し倒す。
「ん……匡貴、だめ……」
「何が」
面白くなさそうにそう言う匡貴に、「指輪外さなきゃ」と言った。
「汚しちゃったらだめだし、ビジューで傷つけちゃいそう」
とくに私はいつも最中はへろへろで前後不覚になっているから、指輪を外してローテーブルに置いておく。
「いい。着けてろ」
「私がいやなの」
匡貴の頬を包んで言い聞かせるようにそう言うと、拗ねたように「終わったらすぐ着けろ」と言う。
「ええ、大事にしたいから着けるのは匡貴とデートの時だけにしたいなあ」
「それじゃ意味がない。俺が傍にいない時にも着けろ」
「うーん、じゃあさ、来年のクリスマスはもっと普段使いしやすいペアリング買いに行こうよ」
「それじゃ遅い」
すぐに買いに行くと言う匡貴に、私は笑いながら「わかった」と言った。
「匡貴、好き」
たった二文字では表しきれないほどたくさんの気持ちを込めてそう伝える。
「俺が」
匡貴の視線が真っ直ぐに私だけを貫く。
「俺が好きなのは、おまえだ」
私は「うん」と微笑むと、匡貴の首に腕を回した。
「知ってるよ」



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