Farce



 曲がり角から迅さんが飛び出して来たが、ぶつかることなくするりと避けられたのできっとこの未来は見通されたものだったのだろう。
「悪いな、佐鳥」
 ポン、と肩に手を置かれ、少しだけよろける。ほんの半歩分。そのよろけた先に、角から飛び出してきた女性が突っ込んできたものだから、お互いに驚いて見つめ合う。
「っごめん、佐鳥くん!」
「いや、大丈夫っす」
 ぶつかる寸前でととと、と後ろにステップを踏んだ彼女は、ハッと視線をオレの背後に向けると、「待ちなさい、迅くん!」と叫んだ。迅さんはその隙に素早く走り去っていく。
「迅さんまた何かしたんすか」
「迅くんが、合鍵返してくれないの!」
 そう言ってまた迅さんの背中を追う迅さんの恋人の背中を見つめて、「しゅ、修羅場だ……」と呟いた。



 大ニュースを引っ提げてランク戦のロビーにやってくると、もうそこは迅さんたちの噂で持ち切りだった。「合鍵返して!」「無理〜」と叫びながら追いかけっこをしているらしい二人はもちろん目立つ。オレはむしろだいぶ知るのが遅かったほうらしかった。
 とうとう迅が愛想を尽かされたんじゃないかとか、でもあの迅さんがそんな下手な未来を選ぶかとか、下世話な噂をしている奴はごまんといれど、どうして二人が追いかけっこをするに至ったのかを知っている者は誰もいなかった。
「賢! 丁度良かった、今度の入隊指導のことなんだが……」
「嵐山さん! ちょちょ、大変っすよ! それどころじゃなくて……」
「どうした? 何かあったのか?」
「いや、知らないんですか!? 迅さんたちのこと……」
「ああ、やっぱり廊下を走るのは危険だな。とくに今はみょうじの視野が狭くなってるからな……」
「いやいやいや、その前に、修羅場じゃないんすか!? 破局の危機とか……」
 そう言うと、嵐山さんは爽やかに笑った。
「それは大丈夫だ!」
「あ、嵐山さん二人がなんで追いかけっこしてるか知ってるんですね」
「いや、知らないぞ?」
「え、でも大丈夫って……」
「大丈夫だ。迅と、みょうじだからな」
 余りにも爽やかに、眩しいくらいに、いっそ無垢と呼べるほどに笑う嵐山さんに、オレはとうとう「そっすね……」としか返せなかった。



 迅さん捕獲の現場を見ることができたのは、運が良かった(良かったと言っていいのかはわからないが)のだろうと思う。嵐山さんと入隊指導のことについて話しながら隊室に向かっていると、太刀川さんとみょうじさんに挟まれた迅さんが観念したように肩を落としていた。
「太刀川さん、ありがとうございました。今度迅くんが10本勝負付き合いますので」
 「お〜」と言ってヒラヒラと手を振りながら去っていく太刀川さんに頭を下げたみょうじさんは、迅さんにずいっと手を突き出した。
「鍵! 返して!」
「だから次からは気をつけるって」
「ダメ! 返すの!」
「お前たち、廊下を走ったら危ないだろう」
 ここでその切り口で割り込めるのは嵐山さんが嵐山さんだからなのか、二人と同学年のよしみがあるからか。
「迅さん、とうとう捕まったんすね」
「そもそも何を揉めてるんだ?」
 嵐山さんナイス! と心の中で親指を立てながら渦中の二人に近づく。
「聞いてよ嵐山くん! 迅くんにうちの合鍵渡してたんだけど、迅くんったら私が寝てる早朝か夜中にばっかり来るの!」
 「しかも私を起こさないで!」と憤慨しているみょうじさんに、拍子を抜かれる。
「おまえを起こしちゃ悪いと思ったんだよ」
「起こされないほうが嫌! ……ていうか、気を使うくらいなら私が起きてる時間に来てよ!」
 みょうじさんがじとりと睨みながら「鍵!」と更に手を突き出す。
「実力派エリートは忙しくてな〜」
「もう! 嵐山くんからも何か言ってよ!」
「そうだな。みょうじの言うことはもっともだと思うが」
「悪いって。好きなんだよ。おまえの寝顔見るの」
 頑張れるから、と付け足した迅さんに、みょうじさんがぽっと頬を染めて。
「でも……私だってもっと迅くんと会いたいもん……」
 窒素の代わりに砂糖が含まれているのかと思うくらい甘ったるい空気がオレを取り巻く。
 「ノ……ノロケだ……」という呟きは、迷った末に胸の中に収めておいた。
 ポン、と肩を叩かれたので横を向くと、爽やかに笑った嵐山さんが「大丈夫だっただろ?」と言ったので、オレは「そっすね……」と言うことしかできなかった。



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