一夜のランガージュ



「……は?」
 それは、朝起きたら自分が巨大な毒虫になっていた時とか、空に太陽が二つ昇っていた時に発する時の声だった。つまりは、有り得ないことが起こった時、という意味だが。
 頭に鈍痛を感じながら目を覚ますと、そこは見知らぬホテルの一室で、隣には男がいた。それだけならお酒の失敗をしてしまったと頭を抱えるだけなのだけど、問題は私の隣に寝ている男だった。何回目を瞑っても、頬を引っ張っても、そこに居るのは二宮匡貴だった。
 私の体にも二宮の体にも様々な痕が残っているし、ゴミ箱には使用済みのゴムが捨ててあるし、何より体の感覚が昨日私たちの間に起こったことを明確に物語っていた。
 酔って吐いて服を汚してしまったから仕方なく二人でホテルに一泊しただけ……という線はないようだ。
「……意味わかんない」
 掠れた声でそう呟くと、私は静かにベッドから降りて服を身につけた。自分でも思ったより取り乱さないなと思ったけど、危うくお金を置いていくところだったので、やっぱり混乱しているなと思ってそのまま部屋を出た。どう考えても酔っ払った女をホテルに連れ込んだ男が全額払うべきだ。
 朝のホテル街を足早に歩きながら、忘れよう、と思った。
 私は二宮が嫌いだ。そして二宮も私のことを嫌っている。だから何があったらあんなことになるのかは分からないけど、もう忘れてしまおう、それが一番だ、と。
 きっと二宮も無かったことにするだろう。

 二宮は馬鹿だ。馬鹿というか詰めが甘いというか自分に向けられる感情に対して無頓着というかそれらを全部引っ括めて「馬鹿」と言うしかないというか。大学でもボーダーでも二宮はいい意味でも悪い意味でも目立つ。それなのにどうしてそこまで無自覚でいられるのだろう。
 見えている。シャツの襟首から首筋についた歯型やキスマークが。昨日の飲み会の時にはなかったからまず間違いなく私がつけたものだ。隠していないのかそもそも気づいていないのか。タチが悪いことに丸出しなのではなくシャツの襟からチラチラとなまじっか除くのが逆に妖しいというか気になるというか。
 それでみんながあの二宮さんがご乱行かとか彼女は誰だとかザワザワと噂しているのに、当の二宮はまったく頓着せずに私に「おい」と声をかけてくるものだから本当にやめてほしい。体についている種々の痕を隠すために、朝からずっとトリオン体でいる私の涙ながらの努力を台無しにしないでほしい。私は二宮を無視して歩き始めた。それが最も「怪しまれない」、つまり「普段通り」の対応だったから。
「私の名前は『おい』でも『お前』でもない」
 そう突っぱねて足早に廊下へと向かうと、二宮が舌打ちをして、私の名前を呼んだ。ごつ、とドアの枠に額をぶつける。名前、というのはつまり、名字のことを指すのではなく、私のファーストネームだ。私は「頼むからもうやめてくれ」と二宮にすがりつきそうになるのをグッとこらえた。
 ……マジ? こいつ、一回寝た女のこと彼女と思うタイプの男だったん?
 知りたくなかったというかエピソードトークとして知りたかったというか。
 幸いにして今の発言は誰にも聞かれていなかったようで、私は「後で連絡する」とだけ言い置いてその場を離れた。
 ここまで拗れたんなら一度話し合って誤解を解かなければならない。でも、気が重い。重すぎる。こんなに気が重いのは、かつて親友に「最近生理が来ないの」と相談された時以来だ。

 警戒区域の巡回ルートを避けて二人で歩いていた。一番人目につかなそうなとこがここだった。普段ボーダー関係者が警戒区域内外を行き来するときは連絡通路を使うのだが、そこは目立つ。だからわざわざボーダーの帰り道、警戒区域を突っ切って二宮と帰路を共にしているのである。
「記憶あるよね?」
「ああ」
 私は重い息を吐くと、「じゃあ忘れて、今すぐに」と言った。
「断る」
「はあ〜〜〜〜? じゃああんたはどうしたいの」
「……まさか、覚えていないのか?」
 二宮が足を止めた。振り返ると、東さんに言われて不承不承太刀川に貸したレジュメを太刀川が無くしたときの顔をしていた。
「まったく。かろうじて二次会の途中で太刀川があさりの殻を食べたとこまでの記憶はある」
「なんだと」
「睨んだって覚えてないものはどうしようもないでしょ」
 二宮は深々と息を吐くと「俺の時間を返せ」と恨み言を吐いた。
「しつこい。とにかく、私はあのとき正気じゃなかったから、昨日のことはもう忘れて。責任も取らなくていい」
 ちょうど警戒区域の境目である有刺鉄線と看板が見えてきたので、話はここまでだと自宅方面へと足を向けると、手首を掴まれた。
「っだから……!」
「来い。昨日と同じことをしてやる」
「えっ!? それ普通に犯罪だよ!?」
「違う。泥酔しろ。自分が何を言ったか覚えてないならもう一度言わせてやる」
「え。まって、私が何か言ったの?」
「ああ」
「なんて……」
 二宮は鼻を鳴らすと、「自分で思い出せ」と言った。
「ていうか人目につく……」
 その呟きは無視され、二宮はスタスタと歩いていく。二宮は道沿いに現れたスーパーに入ると、カゴを手に取るために私の手を離した。ずんずんとスーパーの奥まで入っていくその背中を数秒見つめると、私はゆっくりと踵を返してスーパーを出た。空には既に星が輝いている。だいぶ涼しくなったなあ。とぼとぼ歩いていると、コンビニが見えたので特に買うべきものはなかったが立ち寄った。スイーツの棚の前でしばし物色する。季節のフルーツを使ったミニパフェに心惹かれるが、値段とカロリーを見て伸ばしかけた手を下ろした。最近はコンビニスイーツといえどもいいお値段のものが増えた気がする。アイスコーナーに移動したところで、ポケットの携帯がブルブルと震えているのに気づいた。先程から何回か着信があったようで、それは全部二宮からだった。面倒の臭いしかしないのでそっと見て見ぬふりをした。

 もう一晩くらい経ったら二宮の頭も冷えるだろうと思ったのだが、翌日も二宮の「もう一度泥酔しろ」攻撃は止まらなかった。昨日よりもドスの効いた声になったぶん悪化している。こいつしつこいしプライド高いから自分の思い通りに進めたがるんだよな……と重くため息を吐いた私は、再戦場所に不承不承自宅を指定した。敵陣である二宮の家よりはマシだろうとの判断である。安全なのは第三者の目がある店なのは分かっているが、普段二人でご飯に行くような仲ではない私たちがそんなところにいるのを誰かに見られたらあっという間に熱愛報道が広まってしまう。それもこれも迂闊にキスマークをチラ見せする二宮が悪い。未だにボーダー内は二宮の相手の話で持ち切りなのだ。
 万が一の対策に、一応武器になりそうなものをベッドの下に忍ばせたり、こっそりとカメラをしかけて録画しておいたりと準備は十全にした。不合意の行為が行われた場合は躊躇せずに警察に行く。
 そんな決意とともに二宮を出迎えて、なんで二宮とサシ飲みしなきゃいけないのかとか、てか何を話せって言うのかとか、無限に溢れてくる愚痴を無視されながら度数の高いお酒を流しこんでいく。
 いちいち言い方が癪に障るが、二宮との会話は案外ストレスがない。研究室のこと、講義のこと、ボーダーのことをぽつぽつ話したり、途中で毎週見ているドラマの時間になったからテレビをつけたりしたことは、覚えている。
「……意味わかんね〜……」
 しかし、その後のことはまったく記憶にない。だから、なんでまた二宮と裸でベッドに寝るようなことになったのか分からなかった。
 確実に増えている体の痕はやはり昨夜私たちの間に起きたことを物語っている。
 私はふと、しかけていたカメラの存在を思い出した。途中でバッテリーが切れたらしく力尽きているカメラから記憶媒体を取り出してパソコンでデータを開く。最初の方の、ただの飲み会シーンを飛ばそうとシークバーを右に動かした。
「にのみやっ、すき、すきっ」
 そこに映っているのはあられもなくよがる自分自身だった。
 何が起こっているのか分からなくてついぼうっとしてしまう。そこにいるのは間違いなく私なのに、どうしても画面に映るのが自分だと思えなかった。
 すると背後からぬっと腕が伸びてきて、私は「ひ、」と息を飲んだ。
「……最初から、ちゃんと見ろ」
 背後に二宮の胸板を感じる。二宮の掠れた声が耳をくすぐる。
 映像は巻き戻され、服を着てローテーブルに向かい合って座っている私と二宮の姿が映される。
「……おまえはなぜ俺を目の敵にする?」
「だって、二宮が私のこと嫌いなんじゃん」
「俺は一度もそんなこと言ったことないだろうが」
「言ったことなくても言動が嫌ってるっぽいもん」
「嫌いじゃない」
「ほら、『嫌いじゃない』でしょ。私は二宮が好きなのに」
 私は信じられないものを見る気持ちで食い入るように画面を見つめた。こんな会話覚えてない。
「私だけ好きで、嫌われてるとか辛すぎるもん。だから私だって二宮のこと好きじゃないフリしなきゃいけないの」
「……それを、素面の時に言え」
「やだよ。言ったら馬鹿にされる……」
「しない」
 画面の中の二宮が私の肩に手を伸ばす。じん、と肩が熱をもった気がした。
「昨日も言ったがもう一度言う。俺もおまえが好きだ」
 画面の中の私が「ほんとお?」と甘ったるい声を出す。頷いた二宮に抱きついた私がキスをして、キスをしながらお互いの服を脱がしていき……とどんどん事が進んでいく。奇しくも目の前の床にその時に脱ぎ捨てられた服たちが散らばっていて、状況証拠としてバッチリ合う。
 フリーズしていると、画面の中で自分が「好き好き」と言い出したので慌てて動画を止めようと手を伸ばしたら、その手を大きい手に掴まれた。
 息を飲み、反射的に振り向くと二宮が獲物を追い詰めるような目で私を見下ろしていた。
 寝起きでも完成されている顔、乱れた髪、裸体に散らばる赤い痕。それらを目にして体が固まる。
「ち……ちがう! うそ!」
 混乱しきった私の声に昨日の私の「だっこして」という甘え声が重なる。
「……何が違う?」
「っ……」
 お酒の勢いだとか合成映像だとか色々な考えが頭を掠めていくが、口に出すまでもなく二宮に一蹴されるだろう荒唐無稽さであることは私が一番よく分かっていた。
 画面の向こうで「キスして」とねだっている自分の声に、血の気が引いていた顔が今度は赤くなっていくのが分かる。
 二宮の指が私の耳を撫でた。
「んっ……」
 小さく漏れた声と同じような嬌声がパソコンからも流れてきて、ああもううっさいな、いい加減黙ってよと昨日の自分に腹が立った。
「俺は昨日、おまえと付き合うためにここに来た」
「は……」
「何度でも言ってやる。俺はおまえが好きだ」
 告白する、じゃなくて付き合う、ってとこが最高に二宮イズムを感じるなと思いながら、朧気な昨夜の二宮と目の前の二宮の顔が重なる。
 「返事は」と言う二宮に昨日の私が「好き」と答える。ああもう、いいから一旦黙って!



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