国語ドリルだってサボらずやってろ



 詰めていた息を吐くと、心臓がドクドクと拍動をするように胸のあたりがソワソワとした。おかしい。トリオン体だから、呼吸をしなくても大丈夫だし、心臓にあたる機関はないし、胸が苦しくなることだってないはず、なのに。
 そっと廊下の角から顔を覗かせると、太刀川の後ろ姿が遠ざかっていくところだった。よかった。顔を合わせる前に避けることができて。そう思うと同時にまたもや胸が苦しくなる。なんでこうなっちゃったんだろう。私の何がそんなにいけなかったんだろう。どうしたら太刀川は私のことを嫌わずにいてくれたのだろう。

 私は太刀川のことが好きだ。太刀川も、私のことを憎からず思っている、と、思っていた、のは、どうやら私の恥ずかしい勘違いだったようだ。
 一週間前、太刀川は私の性格をハッキリと否定した。私自身は自分のことをそんなふうに思ったことはないのだけど、太刀川にはそう見えているのかと思うとショックだった。自覚がないから直しようもない。それ以来私は太刀川と顔が合わせられずに太刀川のことを避けまくっていた。
 太刀川が去った後の廊下でぼんやり佇んでいると、背後から声をかけられた。そこにいたのは任務終わりの堤くんで、今から食堂で夕食を摂るのだと言う。
「……私も今日は食堂にしようかな」
 今の気分では帰ってご飯を作る気にもならない。私は堤くんと並び立って食堂に向かった。
「それで、太刀川と何があったんだ?」
「……ぅえっ!?」
「言いたくないなら別に言わなくていいけど、わざわざ着いてきたってことは話聞いてほしいってことだろ」
 隊長譲りの気配りを発揮した堤くんは、いつもと同じ顔で「今日の日替わりなんだろうな」と呟いた。
「……、……堤くん、正直に言ってほしいんだけど。太刀川って私のこと嫌ってるよね?」
 思い詰めたような私のセリフに一瞬動きを止めた堤くんは、爪先の向きを変えるとカウンターには向かわずに奥まったところにある席に腰を下ろした。ごはんの注文よりも私の話を優先してくれるつもりだろう。
「……私、最近まで全然気づいてなくて。むしろ仲良いとか思ってて……。太刀川、いつから私のこと嫌いだったんだろう。私のどういうところが嫌とか、聞いたことある? 言いにくいと思うけど、知らない方が嫌なの」
 話してる途中でグッと喉の奥が詰まって、少しだけ声が震えた。トリオン体でも涙は出る。
「……客観的に見て、太刀川がおまえのこと嫌ってるようには思えない。そういう話を聞いたこともない」
 堤くんは慎重に言葉を選びながらも、きっぱりとそう否定した。
「むしろなんでそう思ったんだ?」
「……一週間、前、太刀川に悪口っていうか……嫌味? を、言われた。面と向かって」
 その時のことを思い出して私はきゅっと手を握りしめた。
「それで……ああ、太刀川って私のことこんなに嫌ってたんだって、思っ……」
 私は俯いた。あの時の太刀川の顔。あれは冗談交じりとかじゃなくて、至って真剣で、真剣というより、その顔になんの表情も乗っていなかったことが一番怖かった。まだ怒ったり蔑んだりしてくれていた方がマシだったのかもしれない。そして私はいったい太刀川にどんなことをしてしまったのだろうと思った。どんなことをしたらこんな顔で嫌味を言われるまでになっちゃうんだろう。きっと、その理由になんの心当たりもないところが、私のダメなところなんだろう。
 私はさり気なさを装って手の甲で涙を拭った。話を聞いてもらって少しだけ気持ちが軽くなった。顔を上げて堤くんに愚痴を聞いてもらった謝罪とお礼を言わなきゃ。そう思っていたとき。
「何してんの?」
 この場に最も相応しくない声が最も相応しくないトーンで発せられて、私は驚いて顔を上げた。ヘラヘラと笑った太刀川が私と堤くんが座っているテーブルの横に立っていて、私は言葉を失った。それと同時に、また胸が痛む。こんなふうに何もなかったみたいに接することができるほど、太刀川にとってはどうでもいいことだったんだ……
「今から、二人でご飯行くとこだから」
 私は堤くんの袖を掴むと、太刀川と目を合わせないようにして席を立った。本当はここに「ご飯を食べに来た」のだが、堤くんなら意図を悟って話を合わせてくれるだろう。
「その予定だったんだけど、急用が入ったから太刀川が一緒に行ってやってくれ」
 私はいきなり梯子を外されたような頼りない表情でぽかんと堤くんを見た。「じゃ」と言い置いてとんでもない素早さでその場を後にした堤くんの背中を呆然と見送る。信じてたのに。
「どこ行く? 何食いたい?」
 それで、当たり前のように話しかけてくるこの男は何なのだ。一週間前のことをもう忘れたのか。
「えっと……やっぱ私もやめとこうかな……」
 そう言ってゆっくりと後ずさりをすると、「体調悪いのか?」と太刀川もついてくる。
「そういうわけじゃ……」
「明日何限から? 遅くなっていいなら飲み行かね?」
 角が立たない上手い断り文句を考えていると、私はハッと気づいた。そっか、私のこういうところが太刀川はイラつくんだ。ハッキリ言わなきゃ。
「太刀川とは、ご飯行きたくない!!」
 すう、と息を吸って思い切ってそう言うと、太刀川は驚いた様子もなくノータイムで「なんで?」と打ち返してきた。
「わ……分かるでしょ!?」
「全然」
「た……太刀川、私のこと嫌いでしょ……!! 嫌われてるって分かってるのに、太刀川と今までみたいに接することなんかできない……!!」
「嫌い? 俺が?」
 「は」と口をぽかんと開けて太刀川が私を見つめる。こてんと首を傾げられて、私は顔が真っ赤になった。
「は……八方美人って……私のこと言ったじゃん!!」
「え、八方美人って『どっから見ても美人』って意味じゃねーの?」

 後から聞いた話によると、私はその場で一分くらい固まっていたらしい。
 太刀川は馬鹿だ。しかしその馬鹿を勘定に入れず感情的になった私も同じくらい馬鹿だった。太刀川が四字熟語を持ち出してきた時点で、その意味を正しく理解しているかを疑うべきだったのだ。
 その場で携帯で「八方美人」の意味を調べた太刀川は、「へ〜」と感嘆詞を漏らすと、「わり」と言った。「わり」である、私の一週間は。確かに私も馬鹿だったけど。
「……許さない……」
「そこをなんとか」
 私はすんと鼻を啜ると、はあ〜と長く息を吐いた。
「……四字熟語ドリル一冊やったら許す……あと今日ご飯奢って」
 ぼそぼそとそう言うと、太刀川はぶはっと噴き出した。
「俺お前のこと好きだわ〜」
 その言葉に私はぴしりと体を固まらせた。
「なんっで今言うの〜!? 食事の時に言う流れじゃん! ばか!」
「あ〜そっか、つい」
 私は周りの視線を避けようと太刀川の背中をぐいぐい押してその場を後にした。

 色々なことが起こって気が動転していた私は、この時はまだ太刀川の「どっから見ても美人」という言葉を聞き流していた。それに気づいたのは居酒屋の座席で太刀川と向かい合った時で、真っ赤になった私の顔を見て太刀川は愉快そうに「もう言っていいか?」と言った。



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