好きを止めないで



 村上くんと両思いだということが発覚して、お付き合いを始めてから二週間ほどが経過した。二週間といえば半月で、その期間は長いようで短く、私たちはまだデートをしたことがない。村上くんがボーダーに行かない日に何回か一緒に帰ったことはある。メッセージのやりとりは毎日している。だけど、「付き合っている」という実感はまだ全然湧かない。そのくらい、私たちの間には周りと違う「特別」がなかった。
 例えば、呼び方。私は「村上くん」と呼んでいるけど、村上くんと仲のいい人たちはみんな村上くんのことを「鋼」と呼んでいる。
「いいなあ」
「なんで俺に言うん」
「そこに居たから」
「そんくらい、おまえも呼んだらええやんけ。あいつが嫌がるわけないやろうし」
「それ誓える?」
「ああ」
「何に誓う?」
「やよい軒の漬物」
「一気に不安になったよ〜〜」
「なんでやねん、美味いやろ」
「こういうときはせめて無料じゃないものに誓おう」
「タダより高いもんはないって言うやろ」
 水上くんのおかげというわけでは決してないが、こうやって一人でウダウダと悩んでいてもどうにもならないし、いつかは言わなければしょうがないことなので、次に二人きりで会うときに名前呼びしていいか聞くぞ、と決意した。握り拳を作っていると、落ち着いた声が私の名前を呼ぶ。パッと振り返ると村上くんが柔らかく微笑んで立っていた。
「今いいか?」
 うん大丈夫だよ、と答えてちらりと水上くんの方を見たらいつの間にか居なくなっていた。
「今日、一緒に帰らないか?」
「! うん!」
 委員会がなくなったからと言う村上くん。それで、わざわざ私を誘いに来てくれたんだ。なぜなら、私は村上くんの彼女だから。「村上くんの彼女」って響き、素晴らしい。じーんと感動していると、つまり今日言わなければならないってことか、と気づいた。
「ちょうど良かった、村上くんに言いたいことがあったんだ」
 自分への退路を断つようにそう宣言しておくと、村上くんが不思議そうに首を傾げた。か、かわいい……
 村上くんと話すたびに思う。本当に、村上くんと付き合えてよかった。同じ学校で良かった。村上くんが生きててくれてよかった。
「生まれてきてくれてありがとう……」
 両手を合わせてそう拝むと、村上くんは「えっ」と困惑したような声を上げた。

 ホームルームが終わると、村上くんが私の席まで迎えに来てくれて、友達がニヤニヤしながら見送ってくれる。幸せを噛み締めながら帰り道を歩いて、今日起こった面白かったこととか、クラスメイトの噂話をする。
 そうしているとあっという間に分かれ道まで来てしまって、名残惜しく「じゃあまた明日」と言うと、村上くんは「ん?」と首を傾げた。
「?」
「オレに言うことがあるって言ってなかったか?」
「……ああっ! 忘れてた! 村上くんとのおしゃべりが楽しすぎて……」
 そう言うと、村上くんは「ありがとう」とはにかんだ。
「それで、話って?」
「えっとね」
 ローファーの靴底でざりざりとアスファルトを擦る。私は前髪をくしくしと整えると、顔を上げた。
「鋼くんって呼んでいい?」
 村上くんの目を見てそう聞くと、村上くんは驚いたように、でも躊躇なく「ああ」と言った。
「良かったあ。嬉しい」
「そんなにか?」
 好きに呼んでくれたらいいのに、と笑う村上くんに、「だって……」と目を伏せる。
「ずっと今ちゃんたちが羨ましかったの」
 ボーダーに所属している人たちは、他の同級生たちとはまた違った仲の良さというか、絆のようなものがあるように思える。
「……そうだったのか」
 村上くんは少しだけ眉を寄せた。
「そ、その表情はなに……?」
 もしかしてダルかったかな、と一気に不安になってそっと村上くんの顔を窺った。
「あ……いや、可愛いなと思って」
 ニヤケそうだったから、と言って口元を手で覆った村上くんにぽぽぽと顔が赤くなっていく。
「す、好き……」
「オレも……」
 二人して真っ赤になりながらもじもじと自分の爪先を見つめる。
「こ、こうくん……」
 呼び慣れない名前は、なんだか言葉として纏まっていないようで、ぎこちなく上滑りしていく。
「いっぱい呼ぶ練習しなきゃ」
 そう言って笑う。
「その練習、オレも付き合いたいな」
 今日の夜電話していいか? 鋼くんはなんて魅力的な提案をしてくれるんだろう。今日は家に帰ってからも鋼くんとおしゃべりができるのだ。
「でもそれだと練習じゃなくて本番かも〜」
 頬に手を当ててため息を零すと、鋼くんは確かにと呟いた。
「……たくさん呼んでほしい」
 そう言った鋼くんの微笑みが温かく柔らかい夕日に照らされている。三門市は早急に今日を「村上鋼スマイルデー」とかの名称で祝日にするべきだ。そんな感じの微笑みだった。
「つ……漬物にお礼しなきゃ……」
 あまりにも素敵な笑顔に混乱しつつもそう呟くと、鋼くんが「漬物?」と不思議そうな声を出した。



 高校3年生の私にとって今一番大事なことといえば、テストのことでも部活のことでも進路のことでもなく、初デートに何を着ていくかということだった。
 デートの日まで毎日のように鋼くんの友達に入念なリサーチを行い、自分の友人に何枚もコーデの写真を送ってどれがいいと思うかアンケートを取り、最後の方はあまりにも何回も聞きすぎて邪険に扱われながらも準備をした。
 初めてのデートは、清楚なAラインのワンピースにした。おしゃれ上級者! って感じの服ではないけど、逆に言えば大ハズレすることもない。面白みがなくたっていい。それくらい今日のデートは私にとって「外せない」ものなのだ。それに今日は目標もあるし、と意気込んだところで声をかけられた。
「待たせたか?」
「ううん、全然!」
 鋼くんが苦笑する。だってまだ待ち合わせ時間の15分前だし。居住まいを整えて鋼くんに向き直ると、鋼くんが微笑んだ。
「服、可愛いな。いや、そのワンピースを着てるおまえが可愛い、だな。似合ってる」
 立て板に水を流すように出てくる褒め言葉に嬉しくなりながらも、「……もしかして、誰かになにか聞いた?」と訝った。
「……ごめん」
 鋼くんは苦笑する。
「デートのたびに付き合わされたら困るからって、おまえの服を褒めちぎるように言われた、5人から」
「ほぼ全員じゃん!」
 裏切らなかった逆ユダはたぶん今ちゃんだろう。顔を手で覆うと、鋼くんは慌てたように言った。
「でも、さっきのは全部本心だ。似合ってるし、可愛い」
「……ありがとう」
 さっきまでとは違う意味で顔が上げられなくなってしまった。チラと指の隙間から鋼くんを見る。
「鋼くんも素敵……! その色すごく似合ってる。制服と印象変わるね」
 あとこれは鋼くんには言えないけど、鋼くんの少し逞しい体つきが布越しに分かってドキドキしてしまう。
「ありがとう」
 ホッとしたように微笑む鋼くんに、空気が緩んだ。私はこの流れで、と手を挙げた。
「……はい!」
「なんだ?」
「今日、あの、もし良かったら、なんだけど、今日の目標があって」
「うん」
 優しい声に促されるようにして息を吸う。
「今日中に、手を繋ぎたいです!」
 初デートで焦りすぎてるかもと思わないでもないが、友人たちからは「純情すぎる」と総ツッコミを食らった。
 デキる女ならサラッと流れで繋げるんだろうけど、それをしようとしたら私はきっと手を繋ぐことが気になりすぎてデートに集中できなくなるだろうし、結局繋げなくて落ち込みそうだ。要領が良くない自分に落ち込みたくなる。
 こんな色気のない提案したら嫌われるかな!? と相談をしたら、それまでに散々相談に付き合わされていた友人たちは皆投げやりに「大丈夫大丈夫」としか言ってくれなかった。
 鋼くんの答えを待っていると、鋼くんはすっと手を差し出した。
「じゃあ、今繋ごう。どうせならたくさん繋げたほうがいい」
「好き……」
「ありがとう。オレも好きだよ」
 嫌われるかも〜と思っていたところにこの神対応である。更に好きになるのも仕方ない。
 差し出された右手に右手を差し出してしまって、握手の形になる。
「……あれ?」
 慌てて左手を差し出したら鋼くんも左手を差し出そうとしていて、手が繋げない。
「手を握るのって難しい……!」
 二人して噴き出しながら、再び鋼くんが差し出してくれた右手を、今度はしっかりと左手で握った。
 「恋人らしいこと」一つめと二つめを一気にやり遂げてなんだか今日はすごいぞ! と心が浮き立つ。私たちは手を繋いで目的地のショッピングモールに向かった。
「……そういえば、この前観たいって言ってた映画、今やってるんじゃないか? 観に行くか?」
「うーん……」
 私はゆっくりと言葉を選びながら、自分の気持ちを伝えた。
「鋼くんと映画観て感想を語り合うのもすごく楽しそうなんだけど、映画は観てる間おしゃべりできないし、鋼くんのこと見れないから……」
 今日は映画以外がいいな、と言った。
「分かった。じゃあ映画はやめておこう」
「わがまま言ってごめんね」
「こんな可愛いわがままなら大歓迎だ」
 ぽぽぽ、と頬が赤くなる。鋼くんの手をギュッと握ると鋼くんも握り返してくれる。
「えっとね、アクセサリーが欲しいんだけど、それを鋼くんに選んでほしくて」
「え、オレそういうのよく分からないぞ」
「おしゃれなのじゃなくて鋼くんが選んだやつが欲しいの」
「責任重大だな」
 そう笑って背筋を伸ばした鋼くんは、優しく笑った。まずい、今日もまた「村上鋼スマイルデー」になってしまう。このまま鋼くんと付き合ってたらいつか毎日が「村上鋼スマイルデー」になってしまうんじゃないだろうか。
 そうしたら村上鋼王国を建国しよう。国王は鋼くんで、王妃は私。そんな馬鹿げた空想に耽ってしまうくらいの笑顔だった。



「この前のデートの時の鋼くんがめちゃくちゃかっこよかった話を聞いてほしい」
「なんで俺」
「そこに居たから。あと友達には話しすぎてもう誰も聞いてくれないから」
「聞き流してええんなら」
「ええわけなくない?」
 ていうか最初のセリフで話終わってへんか、という水上くんを無視して二人でスポーツ施設に行った時のことを語り始める。
「えっとね、私が鋼くんの運動してるとこ見たいって言ったら連れてってくれたんだけどね」
 両頬に手を添えてそう言うと、水上くんは「ああ」と呟いた。
「荒船が下調べに付き合わされた言うてたやつか」
「でたアラフネ!」
 「アラフネ」とは鋼くんとその親しい人たちの話の中にたびたび出てくる鋼くんのお友達のことだ。鋼くんはアラフネくんのことをとても慕っていてなんなら尊敬までしてるみたいだから、少し気になるというか妬けるというか。
「……ん? 下調べ?」
「おまえにかっこええとこ見せたいからおまえと行く前に荒船と行ったんやって」
「好き……」
 机に突っ伏してじたばたと足を暴れさせる。今すぐ校庭の真ん中で叫びたいくらい好き。
「え。ねえ……鋼くん、めろすぎない……?」
 「良かったな」と現代文の教科書をペラペラと捲りながら言う水上くん。その仕草は最上級に話に興味が無いときの仕草だけど、私はもうそんなことに構っていられなかった。
「スポーティーな恰好の鋼くんがまずすっごくかっこよかったんだけど、ボルダリングしてる鋼くんがもう本当に……最高で……」
「へえ」
「私はちょっとしか登れなかったし途中で降りられなくなっちゃったんだけど、鋼くんは簡単そうに頂上まで登ってて……」
 その時の様子を思い出して両手を胸の前で組んではうっとりする。
「腕の筋肉とかすごく逞しくて……あと頂上から颯爽と飛び降りる鋼くんがかっこよすぎて……もう……ほんと……もう!」
 ぺしぺしと水上くんの肩を叩いていると、迷惑そうに振り払われた。
「どう考えても世界で一番かっこよかった……なんで私鋼くんと付き合えてるんだろ〜〜」
 頬杖をついてほうとため息を吐くと、水上くんは「良かったやん」と話を打ち切るように素っ気なく言った。本当はまだまだ語りたいけど、あんまりやりすぎると話を聞いてもらえなくなってしまう。長い目で見て今日はこのへんで止めておくべきだ。そんな計算を頭の中でめぐらせて私は渋々口を閉じた。
 後日、水上くんが私のノロケをすべて鋼くんに横流ししていることが発覚したので、水上くんにはもう鋼くんの話ができなくなってしまった。



 その時は、前触れもなく急にやってきた。放課後、二人でショッピングデートをしている時だった。
「鋼」
 鋼くんの名前を呼んだのは六頴館の制服を着た男の子で、鋼くんが「荒船」と名前を呼び返したことで私は目を見開いた。
「本物のアラフネ!?!?」
 つい私がそう叫ぶと、アラフネは苦笑いした。
「この子が例の彼女か?」
 そう聞かれて、少し照れたように笑った鋼くんにノックアウトされたものの、私は何とか意識を保って「呼び捨ててごめんなさい」とアラフネくんに頭を下げた。
「鋼くんとか、水上くんとかによくお話は聞いてます。鋼くんと仲良いみたいで……ほんと……」
 これが噂のアラフネ、と思うと値踏みするように彼のことを見てしまう。顔も良いし六頴館ってことは頭も良いんだろうし体格も良いし、私に勝てるところは無さそう。ジェラシーだ。
「気にすんな。俺もおまえの噂はよく聞いてるよ」
「え!!」
 「悪いこと……?」とそろりと鋼くんの顔を窺うと、鋼くんは「違うと思う」と恥ずかしそうに言った。
「鋼がベタ惚れしてるってよくからかわれてる。あとノロケが鬱陶しいって」
「ノロケてはないだろ」
 アラフネくんのその言葉に色々な思いで頭がいっぱいになって、私は返事をすることができなかった。
「彼女の話する時いつもニヤニヤしてるだろ」
「嘘つくなよ。してないだろ」
「今度鏡で見てみろ」
 やいやい言い合っている二人の会話に私はさっきからコンボを決められ続けている。息付く暇もない。
「……あ、ちょっと悪い、荒船。……大丈夫か?」
 アラフネくんとの会話を切って、鋼くんが呼吸が怪しくなっていた私の顔を覗き込んだ。私は何がなんでもこれだけは伝えておかなければならない、と震える口を開いた。
「好きです……」
「ありがとう。オレも」
 アラフネくんは「なるほど」と納得したように頷くと、「大丈夫か?」と言った。
「ああ。オレと話してるとたまになるんだ」
 私は鋼くんに背中を撫でられながら深呼吸してどうにか呼吸を落ち着けた。
「穂刈たちが言ってたことがよく分かった。息をするようにノロケだな」
 肩を竦めたアラフネくんは、「これ以上はごめんだ」と鋼くんに別れを告げた。私にも軽く会釈をすると、アラフネくんはエスカレーターの方向へ歩いていった。
 明日の朝一番で穂刈くんにいつも鋼くんが私のことなんて話してるのか聞かなきゃ、と思いながら、私は鋼くんのシャツの裾を握った。
「ね、鋼くん。私にもアラフネくんと喋る時と同じように喋って」
 「え」と目を丸くした鋼くんは、「そんなに違うか?」と首を傾げた。
「うん! なんか……男の子! って感じの喋り方だった」
 そう言っても、鋼くんはあまりピンときていない様子だ。
「鋼くんは優しいから、女の子と喋る時はきっと無意識に区別してるんだろうねぇ」
「『区別』っていうより、『特別扱い』なんだと思う。おまえだけ」
「ひぇ……」
 死んだ。
 息も絶え絶えになった私を鋼くんが座れるところに連れて行ってくれて、少しだけ休憩した。
「そろそろ行こうか」
 私の情緒が落ち着いたのを見てとって、鋼くんが手を差し出しながら優しくそう言う。
「それを、荒っぽい感じで言ってみて!」
 期待しながらそうお願いをすると、鋼くんは少し悩んでから、「……来い、?」と言った。しかしその言い方や表情は全然荒っぽくなくて、私はつい噴き出してしまう。つられて笑った鋼くんの手を取って、歩き出す。体育祭で履くお揃いの靴下を買うために、私たちは目的のフロアに向かった。

 買い物を終えて帰り道。繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら、遠回りして私の家まで送ってくれている鋼くんとお喋りをしていた。ずっと一緒にいても話すことは尽きなくて、たまに「うるさくないかなあ」と思うけど、鋼くんはいつも優しい顔をしてくれるからそれが嬉しくてまた話してしまう。
「それでね、お母さんが……」
 ふと顔を上げた鋼くんが「あ」と不明瞭な言葉を口の中で発した。それからすぐにぐいっと力強く腰を引き寄せられ、「危ないから、こっち来い」と言われた。
 私の横を自動車が通り抜けていく。
 その車に轢かれた、くらいの衝撃だった。無理。
「死ぬ……」
 へなへなと力が抜けた足でその場にしゃがみこむと、心配そうな顔をした犯人が目の前で同じようにしゃがんで気遣わしげに顔を覗き込んできた。
「大丈夫か?」
「鋼くんかっこよすぎるよ〜……いつか鋼くんに殺されそう……」
「それは、困る」
 笑った鋼くんが優しく私の頭を撫でてくれる。
 私はほとんど習慣のようになってしまった、けれども毎回切実なほど思っていることを、芸がないと思いながらもそれでも言わずにはおられず、口を開いた。
「好き……」
「オレも好きだ」
 私はまぶしさに目を細めながら、頭を撫でてくれている鋼くんの袖を握った。



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