インソムニア



 深夜二時の街は静まり返っている。草木も眠る丑三つ時、とどこかで聞いた文句を呟いても、それを聞く人はいない。あくびをしても一人。
 今日はどこに行こうかな。昨日は神社(肝試しの人が来た)、その前は公園(酔っ払った大学生が来た)、その前は学校(職員室に電気がついていて怖かった)、その前は住宅街をひたすら歩き回った。今日は、少し足を伸ばして玉狛地区にでも行ってみようかな。あそこは、川の真ん中に建物があって面白い。
 夜の街をブラブラと歩いていると、前方から、同じようにブラブラと歩いてくる男の子がいた。私より幼くて、髪の毛が真っ白なその子を見つめると、その子は「どうも」と頭を下げた。幽霊が挨拶をするという話は聞いたことがないから、幽霊ではないのだろう。
「こんな時間に、こんなところで何を?」
「眠れないから散歩してるんだ」
 そう言って気安く笑った男の子は、「そちらこそこんな時間にこんなところで何を?」と首を傾げた。
「私も眠れなくて散歩」
「気が合いますな」
「ね」
 それからお互いなんとなく自己紹介して、並んで歩き始めた。旅は道連れ、とどこかで聞いた文句を呟くと、男の子が「ふむ」と返事をした。
「ここの川は、面白いよ。この間は亀が泳いでた」
「ほう。おれは最近暇なときここで釣りをしてる」
「釣れるの?」
「釣りの道はなかなか険しいとおれに釣りを教えてくれた人が言ってた」
「なるほど」
 墨汁のように真っ黒い水面をぼんやりと見つめる。吸い込まれそうでちょっと怖い。
「このへんはあんまり街灯がないんだね」
「そういえば、そうかもしれない」
「危なくない?」
「全然。人が来ないしな」
「きみ……遊真くんは、何歳?」
「15歳」
「もっと下かと……」
「よく言われる」
「私は17歳……まあどっちにしろ、こんな時間に歩いてるのがバレたらお互い補導だね」
「ホドー?」
「おまわりさんに捕まっちゃう」
「悪いことをしてないのにか?」
「うん。子どもが夜歩くのは悪いことみたい」
「なるほど」
 だからこんな人気のないところに来たんだな、と遊真くんは頷いた。
「遊真くんはどこに行こうとしてたの?」
「適当にブラブラしようとしてた」
「そっか。じゃあ私はもう少し下流まで歩こうかな」
「うむ」
 私とは違う方向に行こうとする遊真くんは小さく手を振ると「またな」と言った。私も微笑んで「またね」と言った。



「お」
「あ」
 それから三日後、またもバッタリと出会ってしまって、私たちは会釈をした。
「今日は街に来たんだね」
「うん、ミ……かど市は、夜も明るくておもしろい」
「遊真くんはどこか別のところから来たの」
「ああ」
「てことは、もしかしてボーダー関係者かな」
「ご明察」
「ふふ、この街を離れる人は多くても、この街にわざわざ越してくるのは珍しいから」
 人通りのない裏路地をゆっくりと歩きながら、私は遊真くんに「高いところ、へいき?」と聞いた。
「ああ。なんで?」
「じゃあ、私のとっておきの場所教えてあげるね」
 私は遊真くんを廃ビルの屋上に案内した。
「ここ、幽霊が出るって噂が流れてヤンキーたちが鍵壊しちゃったから、入り放題なんだ」
「ふーん。怖くないのか?」
「私は、幽霊がいるなら会ってみたいかな」
 屋上からは繁華街の夜景が見える。そんなに綺麗じゃないけど、普段暗い河川敷にいる遊真くんにとっては新鮮な景色だったらしい。
「上から見るとまた景色が違うな」
「第一次侵攻の時は、この光全部消えてたんだよ。それが今じゃこんなに明るくて、不思議だよね」
 私は手すりにもたれると、小さくあくびをした。
「眠れないんじゃないのか?」
「私は、眠気はあるんだけどいざ寝ようとしたら眠れないタイプなの」
 遊真くんは? と聞くと、遊真くんは眠気もあまりないタイプらしい。羨ましい。
「みんなに寝ろ寝ろって言われるから、眠らなきゃなーとは思うんだけど……こんなの、良くないよね……」
 寝た方がいい、親にも医者にも先生にもそう言われたけど、そんなの自分が一番よく分かってる。
「? みんなに寝ろって言われるから寝るのか?」
「うーん、その方が丸く収まるんだろうなとは思う」
「なるほど……やっぱりここではそういう考え方が一般的なんだな」
 うんうんと納得したように頷く遊真くんに、遊真くんはどう思うのと聞いた。
「自分がそれでいいなら、無理して眠らなくてもいいと思う。その責任を自分で負うなら」
「……そうだね」
 私は小さく笑うと、街の光を見下ろした。声に嘲りが表れないように注意しながら訊ねた。
「遊真くんの親は、何も言わないの?」
「おれに親はいないよ。死んだ」
 あっさりとそう言う遊真くんに、私は口を噤む。
「……悪いこと聞いちゃったかな……」
「いや、全然」
 そう言う遊真くんはけろりとしていて、それが強がりじゃないということがわかる。
 途端に私は居心地が悪くなって、遊真くんに「そろそろ帰る」と告げた。
「そうか。いいところを教えてくれてありがとう」
 ぺこりとお辞儀をする遊真くんに急かされるように、私は慌ただしくその場を後にした。



「こんばんは」
「こんばんは」
 遊真くんとは、一週間に一回か二回、私が教えた廃ビルの屋上で鉢合わせるようになった。遊真くんもこの場所が気に入ったのかな。やっぱり教えなきゃよかったと思いながら、会った時には話さないのも気まずいので適当に話をする。コンクリートの壁に背中を預けて、最近の釣果なんかを聞いていると、眠気が襲ってきた。眠いなとか、起きてなきゃとか思う前に気づいたら私は寝ていたらしい。ハッと気づくと私は遊真くんの肩にもたれて寝ていた。
「……どれくらい寝てた……!?」
「たぶん30分くらいだな」
「……、……ごめんね、重かった?」
「羽のように軽かった」
「きざだ」
「師匠に女の子にはそう言うように仕込まれておりまして」
「すごい人だね」
 笑おうとしてみたけど、そんな気分にもなれず、ソワソワと落ち着かない。私は立ち上がると、「帰るね」と言った。
「ああ」
 遊真くんは実にあっさりしている。私の挙動は不審だったと思うけど、遊真くんは何も言わない。
 別れのあいさつもそこそこに私は屋上を後にした。



 ここ最近、私の目の下のクマは薄くなった。
 なぜなら、遊真くんと一緒にいる時なら眠れるということに気づいたからだ。遊真くんもそれに気づいてか、最近は毎日あの屋上に来てくれる。
 しかし、私はクマが消えると同時にやつれていった。
 なぜなら、遊真くんにばかり不眠を押し付けているという罪悪感に襲われてご飯が喉を通らないからだ。
 遊真くんは年下なのに、私よりずっと自立している。不眠のことに口を出されるたびに「放っておいて」と思いながらも一方では親や先生に頼って甘えている自分を子どもだと思う。遊真くんはそれとは正反対に、一人で生きて、不眠にも向き合っている。そんな遊真くんの姿を見るたびに焦りと劣等感が刺激された。
 寝ちゃダメだと思っても、遊真くんと肩を並べて話しているとすぐに眠りに落ちてしまう。遊真くんが起きていてくれるから、その代わりに私は眠れる。
「……遊真くんは、私のこと憎くならない? 一人だけすやすや寝て」
「別に。おまえが寝たいなら寝たらいい」
 私の子どもじみた言葉にも返ってくるのは実に大人びた答えだった。面白くない。
「……寝たくないって言ったら……?」
「その時は、ここに来るのをやめる」
「遊真くんは、なんで私に付き合ってくれるの」
「……面倒見の鬼みたいなやつがいるんだ」
 予想外の答えに、黙ってその続きを促す。
「だからおれも誰かの面倒を見たらその気持ちが分かるかと思った」
 その言葉にふふ、と笑う。やっぱり子どもは私のほうだ。
 医者は、強迫性障害だと言った。
 私が眠れなくなったのは第一次侵攻直後のことだった。
 弟がいた。侵攻の時に瓦礫の下敷きになって、集中治療室に入っていた。毎日家族で交代して弟の傍についていた。やつれた父と母を見るのが苦しくて、夜中の見守りを代わったことがあった。その日、弟は死んだ。私が居眠りをしている間に。
 誰も私を責めなかった。それでも私は自分を許せなかったし、自分が寝ると悪いことが起こると思った。
 私が寝たら誰かが死ぬ。
 そこに因果関係はない、こんな不眠は無駄だということは、私が一番よく分かっている。それでも眠ってしまうと、起きた後に私が寝ている間に起こった事件や事故を調べてしまって、やっぱり私が寝たから誰かが死んだ、と思った。
 ぼろりと頬に涙が伝った。隣で何も言わない遊真くんが心底憎らしくなった。
 同じ不眠なのに、私より楽しそうで、元気そうで、さっぱりしてて、誰にも寄りかかってなくて、身内が亡くなってるのに前を向いてて。
 私は遊真くんに、「大丈夫だ」って、言ってほしかった。
 私は唐突に遊真くんを突き飛ばすと、その細い首に両手を絡めた。ギュッと首を絞める。遊真くんの首はすべすべしていた。
「ねえ、おねがい、わたしをゆるして、ゆるし、ゆるすって言って」
 泣きながら指に力を込める。遊真くんは特に感情の籠らない目で私を見つめ返すと、「……言ってもいいけど、」と言った。
「おまえが本当に許されたいのは、おれじゃないだろ」
 ぼた、ぼた、と私の涙が遊真くんの白い頬に落ちる。遊真くんは無表情にそれを見つめる。
 月の光の中で、私の嗚咽がいつまでも響いていた。



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