マジック・アワー



 秋。文化祭の季節。
 私が所属するクラスでは演劇を担当することになった。ストーリーは森の奥の洋館で暮らしている魔女が森へやってきた王子に恋をして、身分の違いに葛藤する……というもので、ミュージカル仕立てになっていた。
 王子役は満場一致で嵐山くんに決まった。文句を言う人など誰もいなかったし、本人も「みんなが任せてくれるなら頑張るよ」といつものようにさわやかスマイルで言っていた。
 問題は、王子の相手役の魔女である。我がクラスには嵐山くんのファンに目の敵にされる代償を負ってまで主役を務めよう、という自己主張の女子はいなかったらしく、結局押し付けられるように私に決まってしまった。理由は、歌が上手いから、というものだった。確かに私は合唱部だったし、これがミュージカルではなくて普通の演劇だったら私に白羽の矢が立つことはなかっただろうが、今回はそんな取ってつけたような理由で私に主演の座が回ってきたのだった。
 半ば絶望しつつも、半分は浮かれていたのは、何を隠そう私も嵐山くんに思いを寄せている一人だったからだ。ほとんど喋ったこともないし、見つめられるだけで十分、と思っていたところにこんなチャンスがやってきて、緊張でなのか喜びでなのかよく分からない感情で胃がソワソワとした。お芝居でもなければ、嵐山くんの隣に立つことなんて今後きっとない。

 台本が出来上がって、読み合わせをして、いよいよ台本を見ずにお芝居の動きを確認するという段になると、途端に私はダメになってしまった。セリフは覚えていたけど、台本ではなくて嵐山くんと向き合うと言葉が出てこないし、見る人によっては不機嫌だと思われても仕方がないような、不細工な表情をしてしまうのである。困った監督の子が休憩を言い渡してくれて、私は後ろめたさから教室にいられず、廊下に出て窓枠にもたれかかった。
 きっと、嵐山くんにも嫌な思いさせてるよなあ……
 ラッキーだとか思ってた数日前の私が憎くなった。このままじゃ、嵐山くんからの印象が「クラスメート」というものから「愛想の悪いクラスメート」にランクダウンしてしまうだろう。
 はあ、と息を吐くと「お疲れ」と隣から声が降ってきて、見上げるとそこには嵐山くんがいて、あわや窓から転げ落ちるかと思った。
「あっ、あ、あら、嵐山くん」
「悪い、驚かせたな」
 そう言う時も嵐山くんのさわやかさは損なわれないのである。嵐山くんはもしかしたら空気清浄機の化身なのかもしれない、とぼんやり思った。
「演技っていうのは、なかなか難しいな」
「あ、あ、あの……!」
「ん?」
 私は嵐山くんに咎められているような気分で、謝罪を口にした。
「あの、私、足引っ張ってるし……すごく、あの、感じ悪いかもしれないんだけど、あの、緊張、しててっ、直さなきゃって思うんだけど、でも、あの」
 今何を言ってるんだろう。まるで言葉に溺れるようにあっぷあっぷと言い訳をしていると、嵐山くんは不思議そうに首を傾げた。
「感じ悪い……?俺には、真剣に向き合ってるように見えるが」
「え、」
「悪い。みょうじがそこまで気負ってることを理解してやれなくて」
 もしかして空気清浄機の化身じゃなくてガンジーの生まれ変わりかも、と思った。
「休憩の間、いやじゃなかったら少し話さないか?お互いのことがわかったら少しは緊張も解れると思う」
 私は首だけが乳幼児に戻ったかのようにがくがくと何度も頷いた。しかし何を話せばいいのかわからず、黙りこくってしまう。その場に気まずい沈黙が流れて、私がパニックになっていると、唐突に嵐山くんが「わからないな」と呟いた。
「えっ?」
「魔女のことが、俺にはわからないんだ。彼女はどうして王子が好きなのに王子とともに生きる道を選ばないんだろう」
 嵐山くんは、本気でわからないというように眉をひそめていた。
「わ、私はわかる……」
 そう答えると嵐山くんは興味深そうに私を見た。
「きっと、怖かったんだよ。自分より眩しいものや綺麗なものに触れて、その輝きが失われるのが」
 恥ずかしい話だが、私は魔女に相当感情移入していた。だって嵐山くんは勉強もスポーツもできるし人間性もいいし誰もが認めるさわやかイケメン好青年だから。自分なんかが隣にいることが、恥ずかしくて後ろめたくて、そしてもし、その人の隣にいる経験をしてしまったら、もう一人の時には戻れないから。その、一瞬だけを胸に生きるほど、強くはないからだ。
「……なるほど」
「あっ……あっ、へ、変なこと、言っちゃったけど、わかった?」
「ああ。みょうじにも魔女にとっての王子みたいな人がいるんだってことがわかった」
「エッ!?」
 ぶわわ、と一気に顔が赤くなる。顔を隠したいけど、嵐山くんの真意を知りたくてその瞳を見つめる。……わ、すごい、目がきれい……。今まで、こんな距離で見たことなかったから、知らなかった。……じゃなくて、もしかして、私が嵐山くんに一方的な思いを抱えていることに、彼は気づいているのだろうか。
「大切な人のことを喋ってるみょうじは、すごく可愛いと思った。魔女にぴったりだ」
 一切の照れもなく同級生にそれを言える17歳が嵐山准以外にいるのだろうか。
「あ、嵐山くんって、もしかして副業でホストとかしてる……?」
 私が冗談のつもりではなくそう聞くと、嵐山くんはびっくりするほど大きく笑って「あいにく、学業とボーダーで手一杯だ」と言った。



 卒業を迎え、私は友人や先生と別れの挨拶やこれまでの感謝を交わしていた。
 校門近くにものすごい人だかりができているのは、嵐山くんだった。彼を取り囲むように後輩や先生や同級生が輪をなしている。
 私はそっと嵐山くんを見つめた。大学は同じだが、学部は違うし、卒業したらきっとほとんど会うこともなくなるだろう。私と嵐山くんの距離感は文化祭の劇で主演をした後も特に変わることはなく、私はこの日まで嵐山くんへの気持ちを大切に抱え込んでいた。
 もしも機会があれば、一言くらい話しかけようかななどと思っていたけど、嵐山くんは常に人に囲まれていてそんな隙なんかあるはずがなかった。今となっては大切な思い出となったあの劇のことを、たまに思い出すくらいでいいのだ。私は。
 夕方になるまで友人とファミレスで別れを惜しみ、帰宅してからも気持ちが落ち着かなかったので、散歩に出た。夕暮れの河川敷をゆっくり歩いて色々と考え事をしていると、突然名前を呼ばれた。
 顔を上げると、そこには犬を連れた嵐山くんが立っていて、私はぽかんと口を開けて惚けた。
「偶然だな。散歩か?」
 そう聞かれて、慌てて私はがくがくと頷いた。嵐山くんが連れている柴犬が人懐っこく私の足に体を擦り付ける。
「わ、わ……」
「こら、だめだろうコロ」
「だ、大丈夫……」
 そっと笑って嵐山くんに「触ってもいい?」と聞くと、嵐山くんは笑って頷いた。コロさんにそっと手を差し出して匂いを嗅いでもらっていると、「もしかして犬飼ってるのか?」と嬉しそうに聞かれた。
「ううん。昔飼いたくて犬の飼育方法とか調べたことがあるの。それで生き物を飼うことの大変さが分かったから結局飼わなかったんだ」
「すごいな」
 感心したようにそう言われて、私は「全然……」と頭を振った。
「……あ、あの、ね、嵐山くん……」
 私はすっと立ち上がると、嵐山くんに向かい合った。
「私、ずっと嵐山くんが好きでした」
 思っていたより、言葉がするんと出てきた。これは告白ではなく、精算だ。
「ごめんね、言われても困るって分かってるけど……あ、返事とかは、別に」
「もうしわけない」
 そう頭を下げられて、分かっていたことなのにがあんと頭を殴られたようにショックを受けた。私は慌てて口角を引き上げて、嵐山くんにこれ以上気を遣わせないようにした。
「みょうじの気持ちに無自覚で、傷付けたんじゃないか?」
 しかし、その謝罪が予想していなかった角度のものだったから、私はぽかんと惚けた。
「い……いや、それは、全然……」
「俺はみょうじのことをまだ全然知らない。でも、みょうじの考え方はとても好ましいと思う」
 真っ直ぐで誠実な言葉に胸を埋め尽くされて、体がはち切れてしまいそうだった。
「それに、みょうじがあんな顔で言ってた『王子』が俺のことだったなら、それはとても嬉しい」
 バチ、と頭に、あの日廊下で話したことが甦る。覚えててくれた。じわ、と瞳に涙が浮かぶ。
「だから、みょうじのことがもっと知りたい。返事はそれからしていいか?」
 手で顔を覆って泣き出してしまった私に、嵐山くんが優しく問いかけた。私がぶんぶんと何度も頷くと、地面にぽたぽたと涙の雫が落ちていって、私のことを心配そうに見上げていたコロさんの体にも落ちてしまった。
「あ、ご、ごめんね、コロさん……」
「なんでさん付けなんだ?」
「お、男の子か、女の子か、分からなかったから……」
「……みょうじのそういう考え方が、好きだな」
 一切の照れもなく同級生にそれを言える18歳が嵐山准以外にいるのだろうか。
 私は赤く染まった顔でぎこちなく笑うと、体に湧いてきた勇気を振り絞って嵐山くんに連絡先を聞いた。



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