プルミエール・ベリー
- いつもの道のり、いつものホーム、いつもの電車。いつも通り、階段近くの三列目の車両に乗り込むと、二駅前から乗っていた犬飼先輩が微笑んで手を振った。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は髪結んでるんだ。可愛いね」
非常にスマートな褒めに恥ずかしくなって、私は「今日体育あるので」と視線を逸らした。
犬飼先輩はそんな私の様子を見てニコニコと笑っている。
お付き合いを初めてから、犬飼先輩と一緒に登校するようになった。学年の違う私たちにとっては、ゆっくり話せるこの時間は貴重だった。特に犬飼先輩はボーダーのお仕事があって忙しいから、わずか十五分のこの時間でも、馬鹿にはできない。
しかし、私の最寄り駅を過ぎ、次の駅に着くと人がどっと増える。ぎゅうぎゅうになりながら小声で犬飼先輩と会話をしていると、私が犬飼先輩と意図的に距離をとっていることを見てとった犬飼先輩が腕を広げた。
「おいで」
微笑みながらそんなことを言われると、少し微妙な気持ちになる。私は犬飼先輩が初めての恋人で、いつも初めてのお付き合いにドキドキしているのに、犬飼先輩はいつだって余裕たっぷりで、経験値の差を露骨に感じる。
「大丈夫です」
ムキになってそう言うと、犬飼先輩は無理強いすることはなく、仕方ないなと言うように笑うと私を壁際に移動させた。犬飼先輩の腕で囲われると、ドギマギして真っ赤になってしまう。ああ、こんなところを見られたらまた……
「顔真っ赤。可愛いね」
犬飼先輩がからかうように私の頬を撫でる。ほらまた、先輩ばっかり余裕で、私だけが必死で。先輩はいったい今まで何人くらいの人に「可愛い」って言ってきたんだろう。
▽
「なんで避けてるの?」
いつものように、登校中の車内で犬飼先輩と落ち合ったところで、「昨日の晩御飯なんだった?」みたいなトーンでそうあっけらかんと訊かれた。
「……避けてないじゃないですか。今こうやって一緒にいるでしょ」
「でも昨日委員会なくなったんだよね? それなのに一人で帰ったし。一昨日は友達と帰るって言ってたけど一人で帰ってるとこ見たって人いたし。もしかしてお昼友達と食べるって言い出したのもそれ?」
淡々と根拠を並べ立てられると、言い訳のしようがなくて黙り込んでしまう。犬飼先輩は困ったように眉を下げた。
「言いたくないなら無理に言わなくていいよ。でもおれに嫌なところがあるなら教えて」
「……せんぱ、」
意を決して口を開いたところでドアが開いて、どっと人が乗り込んできた。駅に着いていたのに気づいていなかった私は、人波に押し潰されて犬飼先輩に抱きつくようにくっついてしまう。
「わ……!ごめ、なさ……」
また真っ赤になってしまった私を見て犬飼先輩は笑った。
「いいよ。もたれてて」
そうして自然に私の背中に手を回し支えてくれる。その仕草にもいやらしさはまったく感じさせない。手馴れている。
「……続きは、お昼に話しましょ」
こそこそとそう囁くと犬飼先輩は頷いた。くっついた犬飼先輩の胸からは、落ち着いた心音が伝わってきた。私は犬飼先輩の傍にいるだけでドキドキするのに、犬飼先輩は私とくっついたってドキドキしないんだな。そう思うと寂しくて私は犬飼先輩のカーディガンをぎゅっと握った。
▽
お昼休みのチャイムが鳴ったあと、お弁当を持って人のいない特別教室で犬飼先輩と落ち合った。犬飼先輩は何事もなかったかのような自然な感じで話を振ってくれる。とりとめのない話をしながらお弁当を食べ終わると、私は先輩の名前を呼んだ。犬飼先輩は少しだけ表情を正すと、「それで、なんで避けてたの?」と首を傾げた。
「犬飼先輩、私のこと、『可愛い』って言うじゃないですか……」
「ん? ……うん」
「先輩は慣れてるのかもしれないですけど、そういう風に『可愛い』って言われるのは、バカにされてるみたいで嬉しくないです」
言葉という形にしてしまうと、自分の気持ちのぶさいくさに嫌気がした。
「……犬飼先輩の『可愛い』は、子供扱いっていうか……慣れてない私をからかって言ってるみたいで」
犬飼先輩の顔が見られなくて、私は自分の手をじっと見つめた。
「そっか……ごめんね。そういう意図はなかったんだけど……」
「……わかってるんです、先輩がそんな人じゃないって。でも……」
私は犬飼先輩と違って慣れていない自分が恥ずかしいのだ。
「あとさ、勘違いしてるみたいだけど、おれもきみが初めての彼女だよ」
「えっ!?」
びっくりして顔を上げると、犬飼先輩がおかしそうに笑った。
「じ、じゃあ何でそんなに余裕あるんですか」
「うーん、性格じゃない?」
私はニコニコ笑っている犬飼先輩の胸にぺたりと手を当てた。
「……やっぱり、ドキドキしてない」
「大胆だね」
楽しそうに笑っている犬飼先輩は、「おれが『可愛い』って言うのはさ」と呟いた。
「小さい頃から女の子にはそうするように姉に叩き込まれてるからなんだけど」
たまに犬飼先輩から話を聞く、お姉さんたちのことだ。私がこくりと頷くと、犬飼先輩は私の髪の毛を掬って指先で弄びだした。
「でもよく『表情と感情が合ってない』って言われるから、最近はちゃんとそう思った時だけ言うようにしてる」
「え……」
「可愛い」
すぐに赤くなってしまう私の頬を指先で撫でると、犬飼先輩は微笑んだ。
「可愛くて仕方ないよ」
犬飼先輩は大物すぎる。そんなことを言っても照れもしないし、結局は『可愛い』って言うように誘導してるし。
「……もう、可愛いって言うの禁止です……」
「えー?」
今度は違う意味で犬飼先輩の『可愛い』を聞いていられなくなった。私は愉快そうに私の髪の毛を撫でている犬飼先輩の手を優しくつねった。
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