ブルーチーズのほぐし方
- 手から滑り落ちたスマホが机に落下し、ごとん、という重い音を講義室に響かせた。近くに座っている受講生がちらりとこちらを見るが、正直それどころではない。
開きっぱなしの画面は変わらず、「会いたい」という簡単なメッセージの受信を知らせていた。
講義が終わったと同時に、五分前から片付けていたカバンを引っつかみ、友達に声をかけられる前に「ごめん急用」とだけ言い捨てて私は矢のように走りだした。
私の足は何があろうと止まらない。たとえ氾濫する川が目の前にあったって、山賊に囲まれたって、私は足を止めるわけにはいかないのだ。走れ!私。
私の顔に浮かんでいたのは、恋人の無事への不安心ではなく、恋人の変事への好奇心だった。私はどうしても二宮がどんな顔をしてこのメッセージを送ってきたのかを知らなければならなかった。
二宮の家に着いて、少し迷って呼び鈴を鳴らす。合鍵も持っているけど、二宮にも見られたくないところの一つや二つや百個くらいあるだろう。思慮深い恋人に感謝してほしい。
黙ってドアを開けた二宮は、表情こそいつも通りだったが、顔色が真っ青だった。可愛げのない。
「会いに来たよ!」
仰々しく両手を広げて二宮を待つも、「入れ」とだけ言われて私はしょうがなく二宮の代わりに無視された自分自身を抱きしめてあげた。
部屋に入る前にキッチンを借りてお湯を沸かす。二宮のカップを用意すると、すぐにケトルが沸騰を知らせてくれる。
「飲みな〜」
ソファにぐったりもたれている二宮に差し出すと、「……コーヒーか」と聞かれた。
「いや? 白湯」
二宮はちょっと眉を寄せたけど、大人しくカップを受け取った。私は真っ直ぐ窓際に近寄って、カーテンを開けた。暗い室内に陽光が差し込む。ついでに少し窓を開けて換気も。このままだとカビとか生えそう。まあ二宮だったら、カビが生えてもブルーチーズみたいに価値が出るんだろうけど。
バカなことを考えながら背後から近づいて二宮の頭をぽんぽん叩くと、やっと二宮が白湯を飲んだ。
自分のぶんも飲み物を用意しようと思って再びキッチンに向かうと、背後のソファがぎしっと軋んだ。振り返ると二宮が私の背後を取っていた。二宮が後ろにいるとどうしても「ついてきている」というより「背後を取ろうとしている」と感じてしまう。ドラクエのキャラクターなんか? というほど背後についてくるので、レベル50の勇者がレベル100の魔王を引き連れているような気持ちになった。自分用に紅茶を煎れると、再び二宮を伴ってソファに戻った。私が座ると、二宮も隣に座る。本当に、不器用というか甘ったれというか。私はやれやれと息を吐くと、わざとらしく呟いた。
「素直に『甘えたい』って言ったら甘やかしてあげるのにな〜」
これで二宮がいつものように憎まれ口を叩いたら儲けものだ。あくまでも私は、そのくらいのつもりだったのに。二宮は頭を私の肩に預けると、小さく呟いた。
「……甘えたい」
「……あらー」
調子を狂わされ、毒気も抜かれて、私は自分の言葉に責任をもつためにも、今日は目いっぱい二宮を甘やかすことに決めた。
「ベッド行こうか」
二宮の手を引いて二宮をベッドに寝かせると、私は黙って二宮の頭を撫でた。喃語であやしていたら「うるさい」と言われたので。時々キスをしたり、手を繋いだりしていると、次第に二宮の瞼が落ちていく。
「……寝ていいよ。ずっとここにいるし、30分で起こしてあげるから」
優しく胸元を叩いていると、やがて穏やかな寝息が聞こえてきた。二宮の安眠を守るため、私は二宮に寄り添った。少しでも温もりや一人じゃない安心感が伝わればいい、と思ってのことだったが、私は大事なことを一つ忘れていた。つまり、私は前日、夜遅くまでレポートをしていて、寝不足だったのだ。
ぱち、と目を開けると、目の前の胸板に擦り寄ってぎゅっと抱きしめた。
「何が30分で起こすだ」
その言葉にふやけた顔で笑うと、「私も寝てたあ」とふにゃふにゃ言った。今何時だろう。
「見りゃわかる」
二宮のほっぺをうにうにと指先でつつく。顔色は少しだけ良くなっている気がする。
「お腹すいたでしょ。この私が直々にウーバー頼んであげよう。何が食べたい? なんでも言うがいいよ」
「お前は何もしてないだろが」
もういつもの調子をそっくり取り戻した二宮に、私は喜色満面の笑みを浮かべた。
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