世界はそれを
- 恋人の話をすると、大抵の友人は「そんなやつとは早く別れな」と言ってくる。
確かに、せっかく作ったご飯を食べてもらえないのも、講義よりも彼との予定を優先させなきゃいけないのも、気分じゃない時にエッチしなきゃいけないのも、「おまえはバカだから」と言われるのも、悲しい気持ちにはなるけど、それを受け入れることを『愛』と呼ぶんじゃないんだろうか。
唯一、加古ちゃんだけは私の恋人の話を聞いても何も言わなかった。いつものように綺麗に笑って、「そう」と言っただけだった。それがすごく心地よくて、私は加古ちゃんのことが大好きになってしまった。いつも加古ちゃんを見つけては絡みにいってしまうから、友人たちには「犬」と評されたっけ。
あれ、私、なんで加古ちゃんのこと考えてるんだっけ。
じんじんと痛む頬と、口の中の鉄の味を思い出してやっと、現実逃避してたんだなあと思った。
今日は彼の機嫌が悪くて、デートの途中で路地裏で無理やり脱がされそうになったから抵抗したら、頬を殴られたのだった。
「おまえがバカだから俺がこんなことしなきゃいけねえんだよ!!」
イライラと髪の毛を掻き回す彼に、そっか、これがこの人の『愛』なんだ、と思った私はほろりと涙を流した。涙が傷口にしみた。『愛』っていつも痛い。
「ごめ……」
「この子はバカじゃないわ」
突然、視界を金糸のカーテンが覆った。私と彼の間に割り込んだのは、加古ちゃんだった。
「馬鹿なのは暴力でしか人を従えられないあなたの方よ」
彼は突然乱入してきた他人の存在に驚いたようだが、もともと頭に血が上っていたところに煽られるようなことを言われて、カッとなったらしい。バン、という破裂音が路地に響いた。
声にならない悲鳴を上げた私は、彼の体に抱きついた。
「やめて、やめて……!!」
彼に頬を張られた加古ちゃんは、ゆっくりと顔を正面に戻すと、ニッコリ笑った。
「手を出したわね」
加古ちゃんはなぜか顔の横で拳を握りしめている。
「あなたが証人よ。正当防衛の」
加古ちゃんはまるでボクシングゲームでもしているように、ストレスでも発散するように、笑いながらその長い腕で彼のことをボコボコにした。それを見ていると、なんだか私の心までスッとして、結局私は、通行人が呼んだ警官がやって来るまで加古ちゃんのことを止めることができなかった。
「本当にごめんなさい」
机の上に封筒を滑らせ、私は深く頭を下げた。結局、私はあのあと警官に「彼に強姦されそうになって手を上げられていたところを庇ってくれた」と必死で説明し、実際に加古ちゃんの顔にも殴られた痕が残っていたので、警官は加古ちゃんに「やりすぎ」と注意をしただけで彼氏を連れていった。
「みんなから散々言われてたのに……加古ちゃんを巻き込んじゃって……あの、これ、少ないんだけど、慰謝料と迷惑料です」
「要らないわ」
スパン、と一刀両断されてしまって、萎縮してしまう。謝罪も受け入れてもらえない。当たり前だけど、加古ちゃんとはもう話すこともできないんだと思うと悲しくなった。彼に殴られた時とは別種の胸の痛みに、私は胸元を握りしめた。
「あなたが謝る必要はないわ。あなたはあの関係に満足してたんでしょう? なら勝手に首を突っ込んだのは私だもの。自業自得よ」
「えっ……」
「でも、どうしても謝りたいと言うならあなたの時間を頂戴」
私はこくこくと頷きながら「いくらでも」と答えた。
「そんなにはかからないわ。あなたを口説くだけの時間があればいいの」
「……へ」
加古ちゃんは身を乗り出すと私の手にするりと手を重ねた。
「私はあなたを泣かせたりしない。あなたを幸せにするために最大限の努力をすると誓うわ。あと……そうね。世界一美味しい炒飯を作ってあげる」
加古ちゃんは「最近堤くんに試食をしてもらったガーリックエビマヨ炒飯の評判が良かったの」とご機嫌そうに言った。
「私はどうかしら?」
綺麗な微笑みで首を傾げる加古ちゃん。
私の笑顔を祈ってくれること。私に幸せを与えようとしてくれること。私に美味しいものを食べさせようとしてくれること。
こんなに痛くなくて、温かい気持ちがあったんだ。
私はふっと湧いてきた考えに自然と納得していた。これがきっと、加古ちゃんの『愛』なんだ。
私が加古ちゃんの手を握り返すと、加古ちゃんは穏やかに笑って、優しい瞳で私を見つめ返した。
▽
「今日もバイト?」
講義後、慌ただしく荷物をまとめる私に、友人が呆れたように声をかける。
「そう。夏までにお金貯めなきゃだから……」
「旅行、だっけ」
「うん! 加古ちゃんと行くの!」
友人はため息をつきながらも、どこか嬉しそうに私を見つめた。
「……あんた、本当に別れて正解だったよ。そこまで付き合う相手に合わせる性格なんだから、下に合わせてちゃもったいない。……ま、加古と一緒なら大丈夫か」
加古ちゃんと一緒に過ごすようになってから、私は少しでも加古ちゃんに見合う人間になれるように、と自分磨きに余念がない。だってみっともない恰好で加古ちゃんの隣に立てない。
それに、私だって少しでも加古ちゃんに幸せをあげたいのだ。だから、最近は大学の講義にバイトに加古ちゃんとのデートにと非常に忙しい日々を過ごしていた。しかし不思議と全く苦ではなくて、むしろ充実感に満ちていた。
「じゃあ、先に帰るね。おつかれ」
「おつかれー」
友人と別れて駐輪場に向かっていると、携帯が震えた。メッセージの通知を見ると、私は頬の裏を噛んでニヤけるのを我慢した。どうやら今日は加古ちゃんが新作の炒飯を作って待ってくれているらしい。バイトをがんばる気力が湧いてきて、私は軽い足取りで一歩を踏み出した。
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