漁夫の利



「『こういうのはちゃんと顔見て言いたいから』って言ったくせに」
 静かな水面に言葉を落とす。
「別れるときはメッセージ一つで終わらせようとすんだ」
 私がいくら呪詛を吐いても、水面には波紋ひとつ起こらない。
「よそよそしくなってからもちゃっかりセックスだけはしてたくせに……」
 でも、いいのだ。この恨みはきっと水が吸い取って、そこに泳ぐ魚たちに取り憑くから。
「ヤリ捨てかよクソヤロー!!」
 声を張り上げて叫ぶと、「うお」と背後から声がした。
 振り返ると、そこにはクーラーボックスや竿を持った、いかにも釣り人といった恰好の男の人がいて、目が合ったその人はふっと笑った。
「驚かせてごめんなさい」
「いや、いいよ。海で叫ぶ人、初めて見た」
「お兄さん、ちょっとだけ私に付き合ってくれません?」
「俺でよければ」
「ありがとう!」
 男性は私に折りたたみ椅子を譲ってくれて、釣りの準備を始めた。
「彼氏に振られた」
「まあ……そういう話だろうな」
「でも、ひどいんですよ!! 終わり方に誠意がなさすぎて!!」
 私がワーッと彼氏への恨み言を喋っている間、その人はたまに相槌を打ちながら静かに聞いていてくれた。
「ふう……聞いてくれてありがとうございます。少しスッキリしました」
「まあ、知らない相手の方が話しやすいこともあるよな」
「そう! そうなんですよ! 友達はほとんど彼氏のこと知ってるから、別れた後に悪口吹聴するダサいことはしたくなくて、話せなかったんです!」
「なるほど」
 肩を揺らしながら笑った男性は、まだ一匹も釣っていない。私は手慰みに餌のワームを針につけた。
「虫、平気なんだな」
「……彼氏も好きだったの、釣り」
「……それで海に?」
「そうです。これから毎日この海に彼氏への恨みつらみを吐き続けます。それを聞き続けた魚たちがやがて彼氏に釣り上げられて食べられて、彼氏は体調を崩すんです……」
 私の考えた完全犯罪の計画を聞いた男性は、はははっと声を上げて笑った。
「なんとも壮大な計画だな」
「……あ! でもこんなこと聞いたらお兄さんが釣りづらくなりますよね!? ごめんなさい」
「俺はキャッチアンドリリースだから、平気だよ」
「よかったです。いや、今日は本当にありがとうございました」
「いいよ。今日は釣れない日だな。いい暇つぶしになった」
 お兄さんは、ゆらゆらと釣竿を揺らしながら静かな目で海を見つめていた。

 それから私は、たまに同じ堤防で、東さんと会うようになった。
 待ち合わせをしているわけではなく、私がむしゃくしゃしたときと東さんが釣りに行くタイミングが合ったときに話をするようになったのだ。二人で並んで座っているだけで、話さないことも多かった。私たちには共通の話題はないから。
 それでも、私の話を受け流すように静かに佇む東さんの隣は居心地がよかった。東さんもきっと、ボーッとするために釣りに来ている人なのだろうと思う。
 そして、東さんと初めて会ってから半年ほど経つと、私は東さんに会うために海に行くようになっていた。そのころになると私は東さんのSNSを特定し、東さんが釣りに行くタイミングを把握していたのだ。
 本名でもない、その日の釣果を載せるだけの備忘録的なアカウントだったが、東さんが釣りに行った日や、釣りをしている場所がピッタリ合うので十中八九東さんのものだ。
 こんなことまでして会いに行ってるなんて知ったら、東さんは恐ろしかろうと思うし、毎回一人の時間を邪魔しては悪いなと思いながらも、欲望には勝てずに行ける日は会いに行ってしまう。とはいえ東さんにも生活があるのだから、毎回会いに行ったとしても月に一度会うかどうかという頻度だ。もっと会いたいし東さんのことも知りたいけど、どうやって距離を縮めたらいいか私は考えあぐねていた。
 そんなとき、元彼からメッセージがやってきた。要約すると、「未だに俺と釣りに行っていた海に通ってるって聞いた、やり直そう」ってことらしかった。
 面倒すぎる勘違いに、私はげんなりと顔を歪めた。とりあえずメッセージは無視したけれど、これがいい機会かもしれない。もうあの海には行かない。でも、東さんには会いたい。だから、海以外で、東さんと会えるようになりたい。

 タイミングよく、元彼からメッセージが来た数日後に東さんが釣りに行くとSNSに投稿していたので、私もいつもの堤防に行った。
 先にいたのは東さんで、東さんは私を見ると、軽く頭を下げた。
「なんか久しぶりだな」
「ですね」
 しばらく波の音だけを聞く。いつの間にか、海に聞かせるのは彼氏への恨み言ではなく、東さんとの笑い声になっていた。
「……東さん」
「ん?」
「あのー、迷惑だったら断ってほしいんですけど」
「なんだ、気になるな」
「連絡先を、教えてくれませんか」
 東さんはゆるく笑ったまま私の顔を見た。
「諸事情であんまりここに来れなくなっちゃって」
 断られてもどうせこれで最後だ、と開き直った気持ちで東さんを見つめる。
「でも、できれば、また東さんに会いたいです」
 うん、カンペキ。伝えるべきことは言った。これでもう悔いは……
「あー! やっぱ待ってください! やっぱ断られるのムリです!」
 私はバッと手のひらを突き出して東さんを押し止めた。
「どうにか……どうにかなりませんかね!? そりゃSNSチェックして会いに来るようなやつ気持ち悪いって分かってますけど!! やっぱここで終わるのやです!!」
 そう駄々をこねる私を、東さんはぽかんと見つめた。
「お付き合いとは言いません!! 東さんに面白い時間を提供するって約束するので、それでいつかは好きになってもらうので、これからも会ってくれませんか!? 未来への投資と思って!!」
 その言葉を聞いて、東さんは声を上げて笑った。
「……本当に、面白いな。お前は」
「はい! 面白いです! なのでお友達からどうでしょう!?」
「『お友達』なんて言わなくても、『恋人』だっていいんだぞ、俺は」
 今度ぽかんと惚けたのは私のほうだった。それでも気が変わられちゃ困ると思ってこくこくと頷くのは忘れなかった。
「ほら、連絡先」
 携帯を取り出した東さんに、私はハッと気を取り直した。
「あの、隠すのはフェアじゃないので申告しますが、私東さんの釣りアカウント特定してわざわざ会いに来てたややストーカーですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、それは『撒き餌』だから願ったりだな」
「撒き餌?」
「お前に特定させるために作ったアカウントだ」
 「彼氏の浮気SNSで特定したって言ってたろ」と言った東さんの穏やかな声が海に吸い込まれていく。
「俺も、会いたいと思ってたよ、お前に」
「ひえ……」
 息を飲むことしかできない私を尻目に、東さんは「お」とつんつんと引かれている竿を握った。
「釣れたな」



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