100年目のロマンス
- 「もういい」
がつんと頭を殴られたみたいに硬直する私に、二宮くんは目もくれなかった。私はその言葉の後に省略された文言を何パターンも想像してみた。その結果、「お前とは別れる」という言葉が最も適していたような気がした。指先が冷たくなって、みぞおちのあたりに氷の塊が詰まっているみたいにずんと重くなる。じわりと瞳に涙が浮かんだのを皮切りに、私は逃げるように二宮くんの家を出た。
あの時、体裁も何もかも振り捨ててみっともなくすがりついていたら何か変わったのかと諦め悪く思いつつも、二宮くんが「もういい」と言うなら、もう望みはないんだろうと思って自分を無理やり納得させた。
そして、こういうのは時間が開けば開くほど言いづらくなると思って、自分から率先して普段仲良くしている人たちに報告して回った。
「二宮くんと別れちゃった」
本当はあっけらかんと報告したかったのだけど、せいぜい苦笑いが関の山だった。望には、「あなたの人生の中で最もいい選択だと思うわ」と言われた。
周りの人に腫れ物みたいに扱われるような気まずさを感じながら(望と太刀川くんを除く)、支部への転属も検討し始めていた。
「お先に失礼します」
夜勤担当のオペレーターに引き継ぎを済ませ、先輩に会釈をしながら中央管制室を出た。疲労を感じて廊下でふうと息を吐くと、コツコツと革靴の足音が聞こえてきたので顔を上げた。その先には怖い顔をしてこちらに向かってくる二宮くんがいて、私は固まった。
「ひえっ……」
つい後ずさりしそうになったが、二宮くんに腕を掴まれるのが先だった。
人通りの少ない場所に移動すると、二宮くんに「どういうことだ」と詰められた。
「何がでしょう……」
不快そうに顔を顰めた二宮くんは、「俺は別れるなんて言ってない」と言った。
「そう……だね。別れるとは言ってないけど……」
でも実質、同じことじゃ、と思った。だってあれ以来一度も連絡してないし。
「分かったらさっさと訂正をしろ」
……わざわざそう言ってくるということは、二宮くんは私に愛想を尽かしたわけではなかったのだろうか。少しだけホッとしたけど、私はゆるく首を横に振った。
「……じゃあ、私が言うね。二宮くん、別れてください」
すっと頭を下げると、数秒の間を置いて「なんだと?」と二宮くんの低い声が聞こえてきた。
「……何が不満だ」
「……違うの。二宮くんが嫌いになったとか、そういうわけじゃないんだけど……」
それは紛れもない本心だった。私は自分の気持ちを整理しながらたどたどしく言葉を紡いだ。
「……二宮くんと一緒にいると、自分の鈍臭さとか、そういうところばかり気になっちゃって……このままじゃ、私自分のことが嫌いになっちゃう」
私は、二宮くんに釣り合ってない自分のことがずっと恥ずかしかった。少しでも二宮くんにふさわしい人になろうと頑張った時期もあったけど、その努力はいつも空回って、結果はどれも「失敗」と言えた。
「二宮くんのことも、すぐイライラさせちゃうし……」
その結果が先日の喧嘩に繋がったのだ。器用でもないし、愛嬌もない。二宮くんの隣にいる自分に一番納得していないのは、私自身だった。
私は涙をこらえながら、精一杯の笑顔を作った。
「……だから、別れてほしい」
そう伝えると、二宮くんはじっと私のことを見つめたまま黙りこんでしまった。こうやって見つめ合うのもこれが最後なんだと思うと、いつもは恥ずかしくて逸らしてばかりだった二宮くんの目をじっと見つめ返すことができた。記憶に刻みつけるように二宮くんの色素の薄い虹彩を見つめる。もうちょっと、見ておけばよかったな。私なんかが、ずっと二宮くんの隣にいられるはずないんだから。
「……俺が、承諾しないとおまえは困るんだな」
しばらくの間のあとに二宮くんが言ったのは、そんな言葉だった。やっぱり二宮くんは、私には不釣り合いなほど察しもいいし頭の回転が早い。それに、合理的だ。引き止めるでもなく、私の結論から確認する。
「……うん」
「……わかった」
別れには、涙はなかった。私は安堵と落胆を抱えながら、支部への転属を願い出た。支部に移ってからは、二宮くんとの接点といえば大学の研究室くらいだったが、避けようと思えばいくらでも顔を合わせないようにすることはできた。結局ほとんど二宮くんと会話もせずに大学を卒業した私は、一般企業に就職して、平凡な生活を送って平凡な恋をして平凡な家庭を作る……そう、思っていたのに。
私の平凡を打ち壊したのは、一通のメールだった。
「……望!」
ソワソワしながら待ち合わせ場所で待っていたら、昔のようにどこか子どものような無邪気さをまとう望がやって来て、私はホッと顔をほころばせた。
「久しぶりね。元気だった?」
「元気だよ〜。望は?」
「積もる話は向かいながらしましょ。遅れちゃうわ」
いたずらっぽく笑った笑顔がどこか大人の色気を感じさせる。つい見とれてドキッとしてしまった。私たちは近況や思い出話をしながら会場である居酒屋に向かった。
……今日は、久しぶりにボーダーの人との飲み会に出席する。私が支部に転属したり、ボーダーを辞めたりしたあとも何度かお誘いはされていたけど、二宮くんに会うのも気まずいし、仲の良かった子とは個別に遊んでいたしで、今までは断り続けていた。
しかし今回は、お世話になった東さんが本部長補佐になったお祝いの席だと言うのだから、一言お祝いくらいは伝えようと思って重い腰を上げてやってきたのだ。……結局、一人で行く勇気はなかったから望を誘ったのだけど。
「ボーダー、今じゃ昔と比べものにならないくらい規模が大きくなってるもんね」
「そう。支部も肩書きも増えて大変よ」
「貸切ってことは、すごい人数が集まってるんだよね」
「そうね。でも、あなたの知ってる人も多いわよ」
「わあ〜、緊張してきた〜〜。みんな、私のこと覚えてるかな」
望は一瞬苦々しく顔をしかめて、「……覚えてるわよ」と呟いた。
「ここね」
居酒屋に到着し、敷居をまたぐと、会場はすでに盛り上がっていた。あのころの面影を残し、それぞれ成長した顔が口々に「お久しぶりです」と声をかけてくれる。一人ひとりとゆっくり話すのは後回しにして、東さんに挨拶と、お祝いを伝える。
「忙しいのにわざわざ来てくれてありがとうな」
「東さんのご栄転ですから。何があっても来ますよ」
「……あいつと再会することになっても、な」
東さんがちらっと視線を向けた先には、二宮くんがいた。
「……ええ。今じゃもう、いい思い出ですから」
「そうか。まあ、またあとでゆっくり話そう。乾杯だ」
久しぶりに会うかつての仲間とそれぞれの近況報告をし、お酒を飲む。楽しくてついいつもより速いペースでお酒を飲んでしまった。少しクールダウンしようと思ってお水を持ってカウンター席のほうに逃げると、隣に犬飼くんがやってきた。
「みんな元気だね〜」
「まあ、ボーダー忙しいんで、理由をつけて騒ぎたいんですよ」
「犬飼くんって今何してるんだっけ」
「おれはもうボーダー辞めてて、普通に勤めてますね」
「そっか。じゃあ仲間だ」
「今日はおれも久しぶりにボーダー飲み参加します」
「そうなんだ」
「二次会参加するんですか?」
「うん、そのつもり」
「てことは、今彼氏いないんですね」
「……何の話?」
「いやー、彼氏いるなら早く帰んなきゃいけないかなって」
「変わんないねぇそうやってすぐ誘導尋問しようとするところ。しかも昔より大雑把になってるのがタチ悪い」
「誘導尋問なんて、ひどいな〜。あたり?」
「独り身のアラサーつかまえて恋人の話なんかするんじゃありません」
「作らないんですか?」
「最近やっと仕事が楽しくなってきたところなんだ。そんな悠長なこと言ってちゃいけないのかもしれないけど……」
「いや、そのままでいいと思いますよ」
意味深にそう微笑んだ犬飼くんと顔を見合わせていると、私たちの背後に誰かが立った。
「……犬飼」
鼓膜を震わす低い声に、ハッと体が強ばった。
「そういうのはやめろ」
「えー? いいじゃないですか、せっかく面白くなってきたところなのに」
ため息をついている二宮くんを振り返って、私は微笑んだ。
「久しぶりだね、二宮くん」
「……ああ」
きっと私の笑顔は自然なものだろう。当たり前だ。今までどれだけ眠れない夜にこの顔を頭に思い浮かべてきたと思っている。今さら緊張や動揺なんてしない。
「やっぱり二宮隊は仲いいね。今日、鳩原さんは?」
「……夜勤中だ。あいつ、まだ引きずっててこういう席のときは率先して任務を引き受けやがる……」
「やがるって……二宮さんだって珍しく参加してるくせに〜」
茶化すようにそう言った犬飼くんを、二宮くんがにらんだ。
「あはは、二宮くん、東さんのこと大好きだもんねぇ」
「ねー、二宮さん」
「……」
ムスッとしている二宮くんは、仕立てのいいスーツにほのかに香水を香らせていた。大学のときにはつけていなかった、甘い匂い。今は前髪を後ろに流していて、大人の余裕というか、色気を感じさせる。望にしたってそうだけど、本当に同い年だろうか。この落ち着きと色気を私もぜひ習得したい。仕事終わり、二年以上着ているオフィスカジュアルにいつも通りのメイク、少し乱れた髪型の自分には蓋をして見ないことにする。
「二宮さんも今恋人いないんですよねー」
「犬飼」
「あれ、わざわざ探したりしなくても相性いい人がここに揃っちゃった」
「犬飼くん……その大雑把なやつ、ほんとタチ悪いからね」
呆れたようにそう忠告するけど、犬飼くんは全然響いてなさそうに「はは」と笑った。
「私はもうなんとも思ってないし」
肩をすくめると、甘いバニラの匂いが濃く香った。二宮くんが私の顔を覗き込むように、カウンターに手を置いて体を屈めている。
「……本当か?」
そう囁かれ、ゾワッと背筋に熱が走った。
「……俺は、おまえに会いたかった」
「もちろん」って完璧な笑顔で答えるはずだった。そんなシュミレートなんて今まで何万回もしてきたし、二宮くんこそ、私のことなんてもう完璧に「過去」にしてると思ってたから。それなのに、いざ二宮くんに見つめられたら、急に声が出なくなった。
「……、…………」
そっと視線を逸らして水の入ったグラスをギュッと握る。
「こんなとこで何してんですか〜、あっちでもっと飲みましょ〜」
その場の沈黙を破ったのはオペの後輩で、酔った彼女は場の雰囲気に気づくこともなく私の腕を引っ張った。私はこれ幸いと彼女に手を引かれるままに騒がしい宴席に戻った。それ以降はずっと賑やかなテーブルについて一人にならなかったし、二宮くんのことを目で探すこともしなかった。
一次会が終わって、居酒屋の前で二次会に行くメンバーで固まっていると、ぐいっと腕を引っ張られた。
「もう、何──」
てっきり後輩だと思って笑いながら振り向いたら、そこにいたのは二宮くんで、私は息を飲んだ。
「俺と抜けてくれないか」
「え……」
ドキッと胸が高鳴る。こんな素敵な男性に口説かれているのだから当然の反応だ。そう自分に言い聞かせる。
「どう、しようかな……」
口走っていたのは迷うような言葉で、すぐに断らなかった自分に驚いた。精一杯取り繕って、動揺なんてしていないように見せるために微笑む。
「でも、今日はせっかくみんなで集まってるんだから、二宮くんも二次会行こうよ」
こんなふうに口説かれるのも、あしらうのも、慣れているのだと思わせたかった。決して「二宮くんだから」じゃないんだと思わせたかった。二宮くんが素敵な男性になったのと同じ年月が私にも平等に流れたのだと思わせたかった。
「……嫌だ」
二宮くんが駄々をこねるようなことを言って、私はびっくりした。昔はもっと、……それこそ、私の別れ話を二つ返事で了承するほど……聞き分けが良かったのに。
「俺には、おまえが嫌がっているようには見えない」
「っ……」
瞼を伏せ、爪先を見つめる。パンプスの先端の傷を数えていると、それを遮るように二宮くんの手が差し出された。
「それが間違ってなければ、俺の手を取ってくれ」
二宮くんが、ずるい人になってしまった。
……昔は、絶対に「してくれ」なんて頼むこと、しなかったのに。私が否定も肯定もせず、ただ突っ立っていると、二宮くんはそっと私の手を握って歩き始めた。
「ん……ふ……」
大学のころよりも広い二宮くんの家の玄関で、二宮くんとキスをしていた。キスをするとき、二宮くんが私に覆い被さるように身をかがめるのが好きだった。二宮くんは、私の頬を優しく手のひらで包み、すり、と頬や耳の輪郭を指で撫でた。この触り方は知らない。こんなことは、されたことない。
アルコールの匂いがする舌を絡めて、唾液と熱を交換していると、ふわっとバニラが香った。
ゆっくりと唇が離され、とろりと溶けた瞳で二宮くんを見つめると、二宮くんが愛しいものに触れるように、優しく私の手を取った。
「……好きだ」
その言葉にじんと頭の中が麻痺する。
「今度はおまえを傷つけない。不安にさせない。言葉と行動で伝える。だから、もう一度、チャンスをくれ」
じわっと視界がにじんだ。
「馬鹿」
「別れたとき、おまえは俺が嫌いになったわけじゃないと言っていたが、その気持ちに変わりはないか?」
確認するように背中を丸めて私の顔を覗き込む二宮くんに、もう一度同じ罵倒をぶつける。
「……バカ……」
こぼれてしまった涙を指で拭うと、「いまさら、なんでそんなこと言うの」と二宮くんをなじった。
「私は、本当はあのときに、『嫌だ』って、止めてほしかった……」
「……あのとき、別れるのも嫌だったが、それ以上に、俺といるせいでおまえが傷つくのが嫌だった」
「そんなの、言われなきゃわかんない……」
私は、二宮くんと違って要領も察しも悪いのだ。当時、二宮くんがそんなことを考えていたなんて思いつきもしなかった。そんな余裕なんか、なかった。
「もっと足掻くべきだったと何度も後悔した。もう一度やり直せるなら……今度は俺にできる限りのすべてでおまえのことを幸せにする」
「ばかぁ〜〜……っ!!」
とうとうこらえきれずに二宮くんの首に腕を回して抱きつくと、私は年甲斐もなく泣きじゃくった。
「私だって、二宮くんの隣にいない自分がやだった……ずっと!」
二宮くんが力強く私を抱きしめる。あの二宮くんが、私のことを求めてくれている。熱い身体を二宮くんに押しつけると、もう一度キスをする。キス以外のことはすべて後回しにして、離れていた時間を取り戻すように、何度も唇を押しつけ合った。息継ぎをするように唇を離して、酸素を取り込む。
「すき……」
合間にそう伝えると、するりと二宮くんの手が腰を撫でた。
「ぁっ……ン、」
「悪い……余裕がない」
二宮くんに熱を込めた視線で見つめられて、私の身体の熱が呼応するようにくすぶる。ゆらゆらと潤む瞳を見つめ返し、「私も……」と呟くと、二宮くんが私の腕を掴んで、部屋の中を進んでいった。寝室に通されて、二宮くんにアウターを脱がせてもらう。二宮くんのコートを脱がせながら、ずっと気になっていたことを訊いた。
「二宮くん、香水つけてる?」
二宮くんは「……ああ」と思い出したように言って、「虫除けだな」と呟いた。
「虫除け?」
「声をかけられるのがわずらわしいから、女物の香水をつけている。唐沢さんに教わった」
ポカンと惚けて、私は噴き出してしまった。
「私も虫だったのね」
「明日からはもうつけない。必要ないだろ」
二宮くんは私のこめかみにキスをすると、私のブラウスのボタンを外しはじめた。
「なんで? つけたらいいよ。私この匂い結構すき」
「……ならおまえにやる」
性急に私の服を脱がせる二宮くんに、くすぐったくなって笑いながらわざと会話を続ける。
「二宮くんがつけてるからいいのに」
「……わかったから、話の続きはあとだ」
私の言葉を奪うようにキスをする二宮くんの背中に手を回して、私は目をつぶった。
翌朝、アラームで起こされた私たちは二人で朝ごはんを食べた。その後私は床に散らばっていた服を拾いながら着た。服のシワでさえ、二宮くんの余裕のなさの表れのようでつい顔がゆるみそうになる。
私はお休みを入れていたから今日は特に用事はないけれど、二宮くんは出勤らしく、手早く身だしなみを整えていた。
ポーチに入っていたお直し用の道具で最低限のメイクを完成させたころ、二宮くんに呼ばれた。小走りで二宮くんのところに向かうと、二宮くんは何の説明もなく左手で私の腰を引き寄せ、右手の手首を私の首筋に擦りつけた。
ふわりと香ったバニラの甘い匂いに、くらりとめまいがする。
「……やっぱり、おまえのほうが似合うな」
ふ、と笑った二宮くんを凝視する。徐々に胸のほうから熱が上ってきて、頭のてっぺんまでじりじりと焦げる。
「……二宮くんが、ずるい人になっちゃった……」
ふにゃふにゃの骨抜きにされてそう唸ると、二宮くんは背中をかがめて顔を寄せた。二宮くんの吐息を間近に感じ、私は瞼を閉じながら、私たちに残された時間のカウントダウンをした。
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