一松の猫のいのち



 シロが死んだ。
 面倒を見ている猫との別れはよくあることだった。弱っていくのを見守ったこともあるし、目の前で車に轢かれたのを見たこともある。たいていはふらりとどこかに行ってしまって帰ってこなくなることが多いが、シロは最近一番目をかけていた猫だった。名前の通り真っ白の毛並みで、産まれたばかりの子猫だった。成猫にいじめられていたところを助けてから懐かれてしまい、まだ子猫で不安だったから特別気にかけていた。だからだろう、つい情が移って名前を付けてしまった。名前をつけたらそれだけ別れが悲しくなるということを身をもって知っていたのに。案の定別れは急にやって来た。今日いつものように餌をあげに行くと路地裏に呆気なく横たわって冷たくなっていた。声をかけても温めても、また動き出すことはなかった。昨日まで元気だったのに、でも綺麗な死に方だったな、なんて考えながら公園の植木のそばに穴を掘っていた。ゴミでクズでニートの俺はシロをちゃんと葬ってやることすらできない。
「手伝うよ」
 突然穴を掘っていた俺の腕にふわりと手が添えられた。驚いて見ると黒髪のかわいい女の子が傍に立っていた。彼女は俺の目元を拭うと、「相変わらず優しいんだね、一松は」と旧知の仲のような口ぶりで言った。
「え、あの、だれ?」
 だがしかし知り合いにこんな女の子はいない。俺みたいな燃えないゴミには友達はおろか知り合いの女の子もいないのだ。
「ブチだよ。また、会いに来たよ!」
 晴れやかな笑顔で紡がれた名前には、聞き覚えがあった。



 高校に入って、友人関係に疲れ果てていたころ、俺は猫の友達を手に入れた。たいてい空き地に居て、人懐こい子だった。俺はその猫にブチと名付け可愛がった。白と黒のブチ猫だったからだ。雨の日はブチが濡れないように傘を差し、おこづかいで餌を買って世話を見ていた。こんな俺でも、ブチを世話することで生きる意味があるんじゃないかと思えた。しかしブチは冬に向けてどんどん弱っていった。餌も食べなくなったのでやせ細り歩くこともままならなかった。動物病院に連れていくと、寿命だと言われた。その日は一晩中ブチに語りかけながらブチの身体を温めていた。しかし明け方うとうとしているとブチが振り絞るように一声鳴いた。最後の力でお別れを言ってくれたのだろう、それきりブチは動かなくなった。
「ふ……ざけるな!冗談でもタチ悪いぞ!!」
 不謹慎な台詞に俺は怒鳴っていた。しかし女は気にせず素手で穴を掘り始めた。
「猫に九生ありって言うでしょ。いま何生めか分からないけど、一松と話したいなーって思ってたら人間に生まれ変われたんだ」
 だから、お礼がしたくて、と淡々と穴を掘り続ける。
「一松、昔は真面目なこと気にしてたよね。みんなを白けさせちゃう、って。学校でも、みんなの話に付いていけなくて自信なくしちゃったんだよね。兄弟たちはみんな個性を持ってたから」
「それ……」
 それはブチにしか話したことがない幼き日の悩みだった。それを知っているってことは、本当に?いやでも、有り得ないだろ。
「どうやってそのことを知った?」
 警戒しながらそう言うと、女は悲しそうに笑った。
「……いいの。信じてもらえないのは承知の上だから。でも、一緒にいること、許してくれる?」
 女はシロの身体を優しく抱き抱えると、そっと穴に横たえた。脇に咲いていた花を摘むと、一輪俺に差し出した。
「ちゃんと、お別れしよう」
 俺は穴のそばに蹲るとシロ、と声をかけた。
「最期、一緒に居てやれなくてごめんなぁ。ゴミでクズの俺だけど、おまえの幸せを願ってるよ」
 女はシロの身体を優しく撫でていた。2人で花を手向け、土を被せると手を合わせた。
「あの……ありがとう」
 ボソボソと礼を言うと、女はにこりと笑った。
「きっと、シロちゃんにも届いてるよ。私もね、弱っていって最後まで残ってたのが聴覚だったんだ。私に向かって話してくれてる一松の声、ずっと聞こえてたよ。嬉しかった」
 その言葉に顔を歪める。ブチを名乗られるのは不快だ。でもシロの埋葬を手伝ったくれた恩人でもあるし……と考えていると、その手に血が滲んでいるのが分かった。
「ちょっと……手」
「ん?ああ、大丈夫、大したことないよ」
 素手で土を掘っていたからか、柔らかそうな指から血が滲んでいた。
「大丈夫なわけないでしょ……」
 ため息をついて公園の水道まで引っ張ると、水で手をすすいで土を落としてやる。
「一松は優しいね」
 女は嬉しそうに笑っている。
「……一応、土は落ちたけど、帰ったらちゃんと消毒して絆創膏貼りなよ」
「うん」
 その日はそれで別れた。から、もう会うこともないと思ってた。けどそいつはそれから俺の行く先々に現れた。公園、路地裏、商店街……最初こそストーカーかとゾッとしたが、危害を加える様子もなかったし放っておいた。付いてくるなと言っても意味が無いし、相手をしなくても俺に構ってくれるから、暇つぶしにはいいと思った。
 じりじりと肌を焼く日差しを避けるように路地裏に入ると、そこには既になまえがいた。なまえとは今世での名前らしい。本人はブチと呼んでほしそうだったが目立つからやめた。
「暑いねぇ」
 8月も終わりが近い。だのにまだ暑さはなりを潜める気配がない。無視をしてもなまえは勝手にしゃべり続けるから、口下手な俺には丁度いい。なまえの声にいつものように耳を傾けながら猫じゃらしで猫を構う。
「一松、ちゃんと日焼け止め塗ってる?」
「塗るわけないでしょ、トッティじゃあるまいし」
「じゃ、塗ってあげる」
 真夏だというのに猫の毛並みのような真っ白ななまえの肌を見つめていると、なまえの手が俺の腕にぺたりと触れた。
「な、なななななにしてんの……」
 慌てて手を振り払うと、なまえは日焼け止め塗るって言ったでしょ!とぷんぷん怒っていた。女の子に触れられると中学生のようにドキドキしてしまうからだめだ。なまえを制して自分で塗り広げていると、なまえは暑い暑いと言っていた。
「アイス……かき氷……水……プール……海……」
 ブツブツと呟いていたなまえはパッと立ち上がると俺の手を掴んだ。そのまま走り出したなまえに引っ張られ、つんのめりながら走る。
「ちょ、何……」
「海行こう、一松!」
 そう言って太陽みたいに笑うから、僕は拒否できなかった。
 


「ほんとに来ちゃった……」
 砂浜を前にして立ち尽くす。なまえはもう波打ち際できゃあきゃあはしゃいでいる。そういえば、海に来たのなんていつぶりだろう。目の上に手をかざして、太陽を見上げた。
「一松ぅ〜!」
 突然バシャっと顔に水がかかった。しょっぱさにむせるとなまえがケラケラと笑っていた。
「てんめ……っ、やったなァ!?」
 俺はなまえに仕返しをすべく砂浜を走った。

 どれくらいはしゃいだだろう。俺らしくもなく海を満喫してしまった。砂浜になまえと並んで座って荒くなった息を整えていた。赤く染まる空を見上げ、眩しさが薄まった太陽を見ていると、なまえが楽しかったなぁ、と呟いた。
「付き合わせちゃってごめんね。でも、一松と海に来れて嬉しかったぁ」
 なまえは時々驚くほど大人びた表情を見せる。
「べ、別に……また、来てやらんこともない」
「……また、また、かぁ。……うれし」
「……あんたは、さ。なんで俺に構うの」
 たぶん、ブチだから、とか恩返しとかいう答えが来るんだろうな、と思っていた。しかしなまえはあっけらかんと即答した。
「好きだから。一松のことが、好きだから」
「……え」
 一瞬間を置いて、俺の顔は真っ赤に染まった。慌てて夕陽のせい、と言い訳するとなまえは面白そうに笑って夕陽ってレベルじゃないよ、と言った。
「うるさい、お前だって真っ赤なくせに」
「夕陽のせい」
「夕陽もう沈んでますけど?」
「……じゃあ一松のせい」
「はいはい」
「……」
「……帰るか」
 暗くなってきたからもう帰ろう、と良識ある大人の俺は言った。
「……まだ帰りたくないなぁ」
「何言ってんだ、はよしろ」
「……うん、ごめん」
「……なんでそんな顔してんの」
「今日が楽しかった、から」
「……またいつでも来れるだろ」
 俺がため息をついてそう言うと、なまえは俺なんかよりずっと大人の表情で笑った。
 

 
 あれから、なまえは現れなくなった。忙しいんだろ、とそわそわしながら待つのはもうやめた。俺は別れがいつも突然に訪れることを、知っていたのに。
 そういえば、あいつはずっと言っていた。ブチの生まれ変わりだって。もしかしたら、本当だったのかも。ブチがもう1度、俺に会いに来てくれたのかな。俺が信じていれば、帰りたくないというなまえの願いを聞いていたら、何か、変わっていた?
 くだらない考えを振り払って猫の背中を撫でてやるとすくと立ち上がった。夕飯の時間だ。
「あ、一松久しぶり〜」
 路地裏から出ようとする俺の前にあっさりと姿を表したのは制服を着たなまえだった。
「は、なに、おまえ、成仏したんじゃなかったの……」
「ジョーブツ?」
 なまえは呵々と笑うと夏休みの宿題やってて来れなかっただけだよぉ、と言った。
「なつや、え、てかおまえ、なに、学生?」
「ピチピチの女子高生だよ」
「じょ……っ」
 犯罪じゃん!!と叫んだ俺をなまえは面白そうに見ていた。
「犯罪って、一松私に何するつもり?」
 ニヤニヤと笑いながら身体をくっつけてくるなまえに俺はか細い声で「離れてください……」と懇願した。なまえはニヤニヤを引っ込めると、成仏なんてしないよ、と言った。
「前世はブチだったけど、今の私はみょうじなまえだから。今度こそ、一松とずっと一緒にいるよ」
「ふーん……あっそ」
 照れているのがバレないようにそっぽを向くと、なまえは再び身体を密着させた。
「だから、これからもよろしくね?い、ち、ま、つ♡」
 離して!捕まっちゃう!という俺の叫びが路地裏に木霊した。



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