愛を知る



 飲み屋を渡り歩くようになって半年、今どき珍しいおでんの屋台に興味を引かれた私は赤いのれんをくぐり、久しぶりに同級生と再会した。
「……松野、くん?」
「ん? おー、久しぶり〜」
 高校を卒業してから数年ぶりに会うブランクなど感じさせない気軽さにつられて、私はつい松野くんの隣に座ってしまったのだ。
「久しぶりだね、えっと」
「ああ、俺おそ松。赤着てたら大体俺だから」
「ごめんね……」
「いや? 俺も名前覚えてねーし。お互い様」
 その言葉にパチパチと瞬きをし、私は苦笑した。どうして自分が覚えてもらえているなどと奢った考えを疑いもしなかったのだろう。
「みょうじなまえ」
「……ああ! 白の」
 その言葉の意味がしばらく分からなかったが、心当たりに行き着くと私は松野くんの背中を平手で叩いた。
「痛って!」
「今のは松野くんが悪い」
 そうしてやっとおでんとお酒を注文した私は、首に巻いていたマフラーを解くと膝掛けにした。
「……偶然だね。ここ、よく来るの?」
「しょっちゅう」
「そっか。私はいつも街に出るからここには来たことなかったな」
 そんなことをぽつりぽつりと話しながらおでんをつつき、杯を空にする。
 もともと、そこまで仲が良かったわけではない。流されがちであの頃はまだうぶだった私が、何度か松野くんのスカートめくりの餌食になっていたくらいだ。それでも、男の子との関わりがろくになかった私にとってはまだ交流のあった男子だった。
 すぐに途切れると思っていた世間話は以外にも途切れることはなく、私を楽しませた。私が話題を提供すれば松野くんがそれに乗っかって馬鹿話をし、松野くんのギャンブル話にギャンブルなど一度もしたことがない私が興味をそそられ、といった具合に、何とも頼りない線ではあったが二人の会話が途切れることはなく、酔っ払った私は気持ちよくなっていた。居酒屋の喧騒の中で、それでも一人で家にいるよりはマシだからと言い聞かせながら一人寂しく酒を啜るよりはよっぽど楽しい一夜だった。
「……松野くん、次はいつここに来る?」
 私がそう訊ねると、松野くんはおかしそうに笑って「んなこと決めんの? お前の好きな時に来いよ。俺はしょっちゅういるから」と言った。

 その後、私たちが飲み仲間となり、体の関係をもつようになるまでは早かった。こういうのを「とんとん拍子」と言うのだろうと思った。
 始まりはあのおでんの屋台での再会で。それから数回屋台で共に飲んだ後、帰りたくなかった私が松野くんを二軒目に誘って私のおすすめのお店に松野くんと巡るようになった。それがやがてお金が無いという松野くんのために我が家で酒盛りをするようになった。
 私だって分別のある大人だから、家に異性を上げることの意味は分かっていたし、結局その通りの関係になってしまったのだけど、彼なら、松野おそ松という男なら、この家の重苦しく寂しい空気を温かい空気で上書きしてくれるのではないかと思ったから、私は彼を家に上げることに躊躇しなかった。
 私の作ったおつまみを松野くんが美味しそうに食べるのも、眠くなったらすぐ横になれるのも、好きなお酒を好きな割合で好きなだけ飲めるのも、すべてが私たちに都合良かった。
 二人で宅飲みをするようになってから五回くらいは、私たちはただお酒を飲み交わすだけの友人だったが、その均衡が崩れたのは松野くんと再会してからちょうど半年経った晩冬の日だった。
 その日は寒かったから熱燗と湯豆腐、かぶのそぼろ煮、それから常備菜の漬物やきんぴらなどを飲み食いしながらいつものように緊急性のない話をしていた。何度飲んでも松野くんは私の領域に踏み込むようなことを聞いてこない。それがとても楽で、心地よかった。
「お酒、もうちょっと持ってこようか」
「ん〜」
 立ち上がろうと机に手をついた私の上体が揺れ、松野くんが私の腕を掴んだ。しかしふらついていた私は松野くんの上に覆い被さるように倒れ込んでしまった。松野くんと目が合って、数秒見つめ合う。松野くんが私に手を伸ばし、私はギュッと目をつぶった。しかし待てど暮らせど何らかの接触はやって来ず、私がそろりと目を開くと松野くんは目を逸らして知らんぷりをしていた。まるで自分が目隠しをしたら相手からも見えなくなると思い込んでいる子どものようだった。私はじっと松野くんを見つめた。高校の頃から変わらなくて羨ましい、と思っていた彼の顎には髭の剃り跡があり、丸くて可愛いと思っていた輪郭のすぐ側に隆起した喉仏があり、松野くんの手は私の二の腕を軽々と掴めるほど大きく、松野くんの体は思っていたより骨ばっていた。じっと見つめながら気づくと松野くんの頬に触れていた私は起き上がった松野くんに跳ね飛ばされるように押し倒されていた。
 私を見つめる松野くんの瞳に、私と同じ期待の色が見え隠れする。息を詰めるように見つめ合うと、松野くんの唇がそっと私のそれに重なった。
 私は「あーあ」と思った。それが「とうとう」という意味のものなのか「やっと」という意味のものなのか、それは分からなかった。
 松野くんとのキスは心地よくてびっくりした。人間はもともと二人で一つで、その失くした片割れを探しているのだ……という話を私に教えてくれたのは、誰だっただろうと思った。そんな話を思い出すくらいに、松野くんの唇は私のそれにぴったり吸い付いた。口の中で舌を絡めても苦しくないし、たまに当たる歯の感触も不快ではない。唇を合わせながら松野くんの手が焦っているように私の服の中に潜り込み、私の体を暴いた。

 それから家で飲む時には必ずセックスをするようになり、私たちは寝室だけではなく居間や風呂場、台所、時には廊下など、家の至るところで交わった。そうすることで私はこの家の思い出を上書きしようと必死だった。
 珍しく飲み歩く気分になれず、帰宅するなり風呂に入り着心地の良い部屋着に着替えて腹巻でお腹を温めると、私は作り置きで機械的に腹を満たすとソファに寝転がった。見るでもなくテレビを垂れ流し、早く眠気がやってこないかとじっと待つ。眠気さえやってきてくれるのなら、今すぐにでも眠りたかったが、20時に眠れるほど健康的な生活を送ってこなかったのは自分だ。そうやってぐだぐだと過ごしていると、インターホンが来客を告げた。宅配便の予定はないし、そうなるとこの家を訪れてくるのは一人しかいない
「よ」
 早春の夜気とともに玄関に上がり込んだ松野くんは、藪から棒に「体調悪い?」と聞いた。
「え、あ、ううん。あ、でも、今生理で……」
 「今日はできないの、ごめん」と言うと松野くんは「ふーん」と言って部屋の中に上がり込んだ。
 セックスができなくてもご飯が食べたいのかもと思って重ね重ね申し訳なく思いながら「ご飯作るのもちょっとしんどくて……」と言った。それでも松野くんが「作ってよ」と言ったら、私は腰を叩きながら冷蔵庫の中身を確認しただろうと思う。しかし松野くんは「んなこと分かってるよ」とムッとして、私の手を引っ張った。向かったのは寝室で、松野くんは私をうつ伏せに寝させると、優しい手つきで私の腰を揉んだ。ちょうどいい力加減で重だるい腰を確実に和らげるような手つきで、私は「はあ、」と小さく息を吐いた。松野くんの手の温度が腰を温めて気持ちいい。黙ってマッサージを受けているとだんだんウトウトしてきた。さっきまでは全然眠れそうになかったのに、と思いながら、ろくにもてなしてもいない客人の前で眠るわけにはいかないと懸命に意識をつなぎ止めていた。
 そんな私の様子を悟ったのか松野くんが小さく笑った気配がした。
「おやすみ」
 ごろりと私の横に寝転がってあやすように私の背中を撫でる松野くんに、つい擦り寄る。セックスできないのに、ご飯食べさせてあげられないのに、どうして私といてくれるの。そう訊こうとして、やめた。それを訊いてその答えを聞くまでこの睡魔に勝つのは至難の業だと思ったからだった。
 朝になって目を覚ましたら、私は愛を知っているだろう、と思いながら瞼を閉じた。



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