或る夏の日の思い出



 あれは写真の風景を切り取ったような、暑い夏の日のことでした。
 
 彼、松野おそ松と出会ったのはとある居酒屋ででした。行きつけのお店で、大将と話しているうちに隣に座ったおそ松とも意気投合し二人で飲んだのでした。お恥ずかしながら私はあまり男性経験が豊富ではないのですが、彼の子供のような笑顔と、裏表のない性格は私に好印象を与えました。他の男性と話す時とはちがい、あまり気を使わなくていいところも好感でした。しかし友人たちからすると私は「見る目がない」「ダメ男に好かれる」らしいのです。そしてそれは正しかったと今なら言えるのですが……。
 おそ松と私はよく二人で飲むようになり、すぐに一線を越えました。おそ松は私の家によく来るようになり、半同棲のようになっていました。私は元来「放っておけない」性格なものですから、おそ松の世話をせっせとしてやりました。おそ松は料理もできない、仕事もしないで私に頼りきっていましたが、事実依存していたのは私の方なのです。「彼には私がいないと」「彼は私を必要としている」……今思えば立派なヒモ製造機です。しかしその時の私はごく真面目にそう思っていたのです。おそ松も私の動かし方を心得ていたのでしょう。そんなに器用には見えませんでしたが、私が怒ったり泣いたりすると抱きしめて「お前しかいない」「好きだよ」と繰り返しました。その言葉は麻薬のような陶酔感を私に与えました。
 
 ファム・ファタールというのをご存知でしょうか。時は19世紀、フランスロマン主義の文学に出てくる魔性の女です。男の運命を変える女、または男を堕落させる悪女を指します。マノン・レスコーしかりヴァセックしかり、男の人生、運命と呼ばれるものを変えるような魔性の女は数多くの作品に登場します。彼女たちは悪意を持って誰かを陥れようとしているのではなく、純粋に子供のように自分のしたいことのみするのです。彼女たちは自分が主人公だと知っている。自分にはハッピーエンドが待っていると信じて疑わないし、自分にはそれだけの影響力があると知っている。だからこそ、男達は彼女らに引き寄せられるのでしょう。まるで引力に囚われるように、"運命的"に。
 私は松野おそ松もファム・ファタールの一種なのだと思っています。彼はもちろん女ではないですが、彼は女を引きつける引力のようなものを持っていると、そんな風に考えることが最近よくあります。彼のようなのをまさしく「魔性」と言うべきです。私は魔性の男に捕まってしまったのです……というのは言い訳がましいでしょうか。
 その日、どのような会話の流れでその話題になったのかもう覚えていませんが、彼の口から"弟"という言葉が出てきたことに私はひどく驚きました。彼に弟がいるなどという話は聞いたことがありませんでした。しかも6人兄弟と言うのだから驚きです。そして私はその時気づいたのです。私は彼のことを何一つ知らないと。どこに住んでいるのか、誕生日は、血液型は、出身学校は、それらを聞いたことは一度もありませんでした。ただそれらの情報がたまたま今まで話題に上がらなかったのか、おそ松が意図的にそれらの話題を避けたのかは今や知るすべもありません。ただ、こんなにも近くにいるおそ松が、その時はすごく遠い存在に思えてしまったのです。
 松野おそ松は猫のようなニンゲンでした。一週間連絡を寄越さない時もあれば、朝起きると横で寝ている時もあり、一ヶ月間うちに入り浸っているときもありました。私が「会いたい」と言っても、「俺もいつもお前に会いたいよ」という返事が送られてくるばかりで、本当に彼が会いに来ることはないのです。一度「別れる」とおそ松に言ったことがあります。おそ松は私の考えをすべて見透しているように私を抱きしめ、「好きだよ」と言いました。私は何度この男を殴ろうと思ったかしれません。しかしその言葉に安堵している自分も確かなのです。「寂しい」と訴え「後で電話かける」という言葉を信じ、何度携帯を握りしめたまま寝てしまったか分かりません。
 友人たちに愚痴を吐いたことがあります。友人たちは揃って「そんな奴とは別れろ」と言います。それは自分がよく分かっているのです。彼にとっての一番はきっと私ではない。このままずるずると関係が続いたところで私たちには何も待っていないのです。それならば、潔く別れて新しい出会いに向かうのが賢いやり方なのです。しかし、人間がそう簡単に割り切ることができる生き物ならお酒やタバコ、麻薬といったものはこの世から無くなるでしょう。私は莫迦な希望を捨てられないのです。このまま献身におそ松のことを思っていれば、彼はきっと私のところに来てくれる。
 
 私はおそ松に尋ねたことがあります。チープなJPOPの歌詞のような質問です。
「私と弟が溺れていたら、どっちを助ける?」
 おそ松は答えます。
「お前に決まってんじゃん」
「本当に?」
 半信半疑、といった風に言いましたが、内心歓喜しているのを隠すのに必死でした。おそ松はなんてことないように答えました。
「あいつら殺しても死なないような奴らだし」
「でも、放っておいたら本当に死んじゃうんだよ?」
「死なねぇよ」
 その言葉はまるでこの世の理だとでも言うかのような確信に満ちていました。
「だって俺たちが主人公なんだから」

 その時、はじめて私は彼を怖いと思ったのです。

「俺たちが死ぬときは……この世界が終わるときだろうな」
 その後、私は気が狂いそうな恐怖と闘っていました。何がそんなに怖かったのか、ただひたすら、あれだけ好きだったおそ松が得体の知れない何かに思えて仕方なかったのです。おそ松の皮を剥いだら何か別のものが納まっているのではないか、そんな莫迦げた考えが頭を離れませんでした。ですが、これをきっかけに別れられるかと聞かれたら答えはNOでした。おそ松が恐ろしいのは確かです。しかしその段になっても私はまだおそ松のことを、陳腐な言葉で言うと、愛していたのです。私は自分からおそ松と離れられない。しかし彼がどうしようもなく恐ろしいのです。余談ですが、私は子供のころピエロが怖くて仕方ありませんでした。実家に古いピエロの人形があったのですが、その人形の張り付いた笑顔や瞳が不気味で、寝ている時に襲われるのではないかという妄想に取り憑かれ、寝るときは頭まで布団に潜り込み、縮こまって早く朝が来ることを願っていました。それ以来ピエロはどうも苦手です。私はおそ松にもピエロと同じような恐怖を感じていたのです。
 珍しくおそ松が自分から家にやってきました。以前はあれだけおそ松が来ることを願っていたのに、私はちっとも喜べませんでした。しかし、態度には出さないように恐怖と闘いながらおそ松を部屋へと入れました。対面に座るおそ松が、以前のおそ松と同一人物だとはどうしても思えませんでした。これはおそ松の皮を着た"何か"だと、私は信じていたのです。
「なんか今日静かだね」
「そうかな……」
「何かあった?」
 そう言うおそ松に返事ができず、私は言葉に詰まってしまいました。どうしよう、と考えながら俯いていると、おそ松が穏やかな声でそうか、と言いました。
「気づいたんだ」
「え……?」
 つい、と顔を上げるとおそ松が笑っていました。しかしどこか無表情に見えて、私は一層彼のことが怖くなったのです。
 その日はそれ以上喋らず、2人で寝ました。同じベッドに入っているのに話すこともせず、お互いに背を向け合いながら、私はまんじりともせずただ目を閉じていました。おそ松が寝返りを打つ度に騒ぐ胸が不快でした。この時私はきっとおそ松に何か声をかけるべきだったのでしょう。しかしかけるべき言葉はいくら考えても出てこず、私はいつしかそのまま眠っていました。
 翌日、珍しく私より早く起きたおそ松に起こされ、家から引っ張り出されました。真夏日のことでしたので、私は家から出る気になれませんでした。しかし彼は全く意に介さず、私を引っ張り駄菓子屋までやって来ました。彼はそこでアイスを食べようと言いました。彼はソーダ味の棒付きアイス、私は二つに別れて吸えるものを選びました。もちろんお金は私が払います。二人で黙々とアイスを食べていました。
 先に食べ終えたおそ松がアイスの棒を咥え、ユラユラと揺らしていました。おそ松が見ている方を見ると、アスファルトが熱され、その上に陽炎がゆらゆらと立ち上っていました。暑い、真夏日のことでしたので。
 おそ松はすくと立ち上がると、二三歩歩きました。しかし当然、陽炎というものは形のないものですから、私は陽炎の中におそ松が入っていって、彼の姿ごと薄れて消えてしまうのではないかと思いました。おそ松が振り返ります。
「じゃあおれ、帰るわ」
 私はおそ松を引き止めるべきでした。しかし言葉は依然として食道のあたりに引っかかって出てこず、私はただおそ松の背中を見つめていました。絵の具をひっくり返したように真っ青な空と、空気を揺らす陽炎と、おそ松の着ているTシャツの赤。それはまるで写真で切り取った風景のようで、映画のワンシーンのようで、私の胸の中には安堵と後悔と焦燥が渦巻いていました。気づくとアイスは溶けて液体になっていましたので、私は自分の体温で常温になったそれを一気に飲み干しました。
 それ以来おそ松が訪れることはなくなりました。私はあの日のことを思い出すと、今でも莫迦な考えが捨てきれないのです。あのひと夏を共に過ごした松野おそ松は、あまりにも早く夏を駆けていった彼の、残像だったのではないかと。
 
 あれは、ひどく暑い、夏の日のことであったと、思います。



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