はりのむしろ
- うぐう、という押し殺した呻きがなまえの口腔から漏れた。ひゅんと風を切る音が聴こえ、数秒後には背中が爆発したような痛みと熱を感じる。びくんと手足がけいれんした。鞭の恐いところは、打ったあとも数日間は布が擦れるだけで身悶えするような痛みを伴うところだ。次はどこに打擲が来るのか、気が狂いそうになる恐怖が首をもたげる。目隠しをされている上、相手は暗殺のエリートなのだから、主人が今どこでどう鞭を構えているのか、なまえには気配を探るなど不可能に近かった。恐怖のあまり、がくがくと身体が震える。涙は目隠し布に吸い込まれていった。
「動くな」
その言葉とともになまえの身体の震えはぴたりと治まった。この数年でイルミの命令に逆らってはならないということは"条件付け"されていた。息を詰め、イルミの声に耳を澄ます。
まだじくじくと膿むような痛みを伴う痣を指先で撫でられ、なまえはびくんと震えた。敏感な患部に熱が集まり、もどかしい痛みと痒さで正気を失ってしまいそうだった。
「お前、まだこんな痛みを我慢できないの」
「申し訳ございません」
「本当にお前は出来損ないだね。よくゾルディック家に雇われてるよ」
「申し訳……っ、ございません」
「こっちだって決して安くない金を払ってるんだ。恩とか感じないわけ?他の執事たちはよく働いてくれてるのにお前ときたら何一つできやしない。自分が恥ずかしくないの?」
「申し訳ございませ……んうっ」
畳みかけるようなイルミの面責に、なまえは泣きながら謝ることしかできない。どのような態度を取れば、この責めが早く終わるのか、なまえは知らなかった。実際、なまえが泣けば泣くほど、イルミの教育的指導はより粘着質に、長時間にわたるのだ。
撫でられ、引っ掻かれ、人格を否定され、なまえの頭が朦朧としてきたところでやっと今日のお勤めから解放される。イルミが部屋から遠ざかったのを感じて、なまえの身体からは力が抜けた。がくがくと震えながら声を噛み殺し泣く。
しばらくして気分と身体が落ち着くと、なまえはのろのろと部屋の片付けを始めた。ブルウィップに付着した血を拭き取り、自らの吐瀉物と排泄物で汚れた床を掃除する。ふらつく身体を叱咤しながら自室まで戻ると、そのままベッドに倒れ込んだ。背中の痛みに顔を顰める。これ以上布に擦れないようになまえは身動きを最小限に抑えた。
数年前にゾルディック家への就職が決まった時、なまえは歓喜した。世界有数の暗殺一家ということで、その待遇は目を見張るほどよかった。同じく裏稼業の家に生まれたなまえにとって、ゾルディック家は超一級の勤め先だったし、家族も諸手を挙げて喜んでくれた。期待と不安を胸にゾルディック家へと赴いたなまえだったが、その勤務内容は予想していたものとは大きく異なっていた。
数週間の初任者研修が終わると配属が言い渡されるのだが、なまえの場合それがゾルディック家長男の専属執事だったのだ。この異例の配属になまえは周囲から好奇の目で見られたし、自分自身もまさかそんな大役を任されるとは思っていなかったために大きな不安を感じた。
そして始まったのは地獄の日々だった。初日は喉が枯れるまで叫び、何度も気を失った。ある程度痛みには強い自信があったのに、イルミの拷問と詰問による精神的摩耗は桁外れだった。それでも家族のためと思って耐えた。イルミの指導後、疲れきって寝てしまうため、最初の一年は他の仕事にまったく手がつかなかった。だというのになまえが解雇されることはなかった。なまえは、世界トップレベルの暗殺者であるイルミのサンドバッグに指名されたようなものだった。初めは好奇の目で見られていたなまえも、いつしか侮蔑の目で見られるようになった。よく辞めないなという陰口は何度も耳にした。それでも実家のことを思うと怖くて辞めるとは言えなかった。辞職して一族郎党皆殺しにされるか、なまえの精神が壊れるか。ゾルディック家に入った時点で、なまえの未来は決まっていたのだ。ベッドの上で静かに泣いていると、控えめにドアをノックされた。身体に鞭打って戸口に立つと、そこには研修時の世話役が立っていた。ゾルディック家で唯一、なまえの味方と言える男だった。
「いいか、よく聞け。二度は言わない。明日、警備に穴が空く時間がある。お前は逃げろ」
最初は何を言われているのか、分からなかった。
「調整に時間がかかってすまない。昼の15分の間、裏門の警備に隙ができる。とにかく変装して逃げろ。これ以上ここにいたらお前は壊れる」
「でも、そんなことしたら先輩が……」
「オレはいいんだ。言い訳なら用意してある。逃げてもお前は殺されるかもしれない。でも、ここにいてもそれ以上の苦痛があるだけだ。逃げろ、生きろ」
周囲を注意深く見渡しながら、最低限絞った音量で囁く男はなまえにとって神様に見えた。その言葉は麻薬のようで、もうなまえにはそれだけしか考えられなかった。実家のことも、自分の命のことも、「この生活から逃げられる」という希望の前には何の抑止力にもならなかった。泣きながら何度も謝辞を述べるなまえに、男は優しく笑った。
翌日、なまえは樹海の中を走っていた。あと少しで逃げられる。そう思うだけで身体に活力が漲り、瞳からは涙が溢れてきた。眼前にはもう高い塀が見えている。樹海を抜け、視界が開けると、そこには裏門がある。裏門の前には男の生首が落ちていた。
弛緩したまま硬直したそれが見知った男の顔だと、気づいたのは三秒後だった。なまえの口からは絹を裂いたような悲鳴が溢れる。
「悪い子だね、なまえ」
がたがたと震えながら振り向くと、 そこには主人が立っていた。
私が莫迦な夢を見てしまったから……先輩はその命を奪われ、自分ももうすぐ同じ場所に行くのだろう。この人から逃げられるはずがなかった。
「行くよ」
なまえの手を取りイルミが歩き出す。なまえの心には一瞬だけ迷いが生じた。しかしそれも見通したようなイルミの視線に、結局なまえはイルミについていくしかなかった。
いつもの拷問部屋に連れられ、なまえの恐怖は限界にまで達した。
私は殺されるのか。家族は?死んだらどうなるのか……とりとめもない思考が頭を巡る。
「オレから逃げようなんて悪い子だ」
「……ひ、」
「お仕置き……って言いたいけど、あんまりムチばかりでもね。思い直したんだ。そりゃなまえだって嫌になる、そうだろ?」
なまえは精一杯首を振ることしかできなかった。
「……だから、たまにはアメをあげなくちゃね」
イルミはそう言うと、鈍く光る針を取り出した。
「ひ……ぃ、いや、許して……」
「……許す?」
──オレは最初から赦してるよ
ぷつりという音がどこかから聞こえた。
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