箱の中の猫



トマトを輪切りにする。サニーレタスを手でちぎり、地元の新鮮なミルクから作られたゴーダチーズを切る。さやえんどうは筋をとり、軽く茹でて食感を残す。すると軽快な音とともにトースターからパンが飛び出てきた。トーストにレタス、トマト、チーズ、オリーブオイルなどの具を挟む。できたてのトマトチーズサンドに、鍋でくつくつと煮込んだ野菜たっぷりのミネストローネと、冷水でぴりりとしめたさやえんどうのサラダを添えれば、本日のモーニングセットのできあがり。木製の盆に乗せたそれらをカウンター席の客へと提供する。
「お待たせいたしました。本日のモーニングセットです」
「ん」
 朝刊を読んでいた男性はサンドイッチに手を伸ばすと、綺麗な顔に似つかわしくない大口でそれを齧った。
 男性はなまえの視線に気づいたのか、苦笑しながら美味いよと言った。
 新聞に目を落としながらもくもくとサンドイッチを食べる男性が、近いなと独りごちた。
「まただよ。例のシリアルキラー」
「ガスの、ですか」
「ああ」
 例の、とは巷を賑わす連続殺人犯。
 被害者はそろそろ二桁に上る。その手口はいつも同一の有毒ガスによる毒殺で、ガスの種類からすると犯行は密室で行われているらしい。しかし、死体の発見場所はいつも拓けた路地だったり、風通しの良い場所であった。そのことから、犯人はわざわざ死体を人目のつく場所に運び遺棄しているようだった。まるで自分の殺しを見せびらかすように。単独では少々無理があるその犯行から、犯人は複数の男ではないかと噂されている。
 それらの殺人は、この店からそう遠くないいくつかの市ばかりで、きっかり三ヶ月ごとに行われていた。そして昨日見つかったばかりの死体は、このカフェにほど近い路地に遺棄されていたようである。今朝早く、仕込み中に近くの交番の警官が不審な人物を見ていないかと聞き込みにきた。彼もよくランチを食べに来てくれる常連客であったから、"ここだけの話"として多くの情報を話してくれた。遺体は近くの証券会社の会社員のもので、帰宅途中に襲われたようだ。そんな物騒な事件であるにも拘らず、まだ犯人の目撃証言一つないのだから、最近ではこの辺りで自警団も組まれ、人々の警戒も一層強まっている。
「怖いですねぇ」
「そんなにのんびりしてるなよ」
 男性……なまえの経営するカフェの常連であるクロロは、呆れたようにそう言った。
「私、夜はすぐに寝てしまうので大丈夫です」
「一人暮らしなんだから戸締りはきちんとしろよ」
「うふふ、クロロさんお母さんみたいですね」
 心外だと口をへの字に曲げてしまったクロロを見てなまえは笑った。食べ終わったお盆を下げると、にんじんとさやえんどうが綺麗に残されていて、また笑った。


 
「俺が思うに……」
 ぴんと人差し指を立ててクロロはそう言った。
「殺しは別の場所で行われていない」
「はあ……でも、ガスの種類からすると密室以外での犯行はほぼ不可能なんじゃ?」
 本日のランチである冷製パスタを咀嚼し嚥下したあとクロロは何てことない顔で言い放った。
「密室で行われていればいい」
「死体発見現場は風通しの良い路地ばかりですよ」
 なまえは空になった盆を下げながら呆れたようにそう言った。
「だが、犯人が現場に被害者を運ぶ姿をただの一人でさえ見ていない。現場は路地裏とは言え、大通りに近い場所にあるのにそれは不自然だ」
 紙ナプキンで口元をぬぐい、クロロは捲っていた袖をきっちりと戻した。袖のボタンを留める姿さえ絵になっている。
 それは現実的じゃあない、と彼は言い切った。
「……路地裏が密室になる方が現実的じゃないんじゃ……」
 なまえの呟きは見事に無視された。
 下げた食器を水に浸しながら、なまえはクロロに釘を刺す。
「いつまで探偵ごっこをするつもりです?」
「探偵ごっこ、とはずいぶん刺があるな」
「あんまり危ないことしちゃいけませんよ」
「そうだな……」
 オレの好奇心が満たされたら止めようか、とその忠告はクロロにはまったく響かないようだった。
「心配してるのか?」
 いやらしくニヤニヤと笑うクロロに、もうしてあげないとなまえがそっぽを向いた。
「私、男の人が苦手でした。でもクロロさんは……話しやすいから」
 危ないことには首を突っ込んじゃだめですよ、となまえは結局心配するような言葉をかけるのだった。



 眠い。
 仕込みをしながら、客がいないのをいいことになまえはあくびを一つ漏らした。
「見ちゃった」
 いたずらっぽい声の方を見ると、ちょうどクロロが入ってくるところだった。
「いらっしゃいませ。見られてしまいました」
「おはよう。眠そうだが」
「おはようございます。昨晩仕入れをしていたものですから」
「仕入れはいつも週末にそこの商店街の店でしているって言ってたろう?」
「ええ。できるだけそうしたいんですが……最近は他のところにもお世話になっています」
 今日はまだ週の初めだから、クロロの指摘は最もなことだった。クロロは桁外れの記憶力でなまえが何気なく言ったことをよく覚えていた。
 できるだけ地元の食材を使いたいというこだわりから、なまえはもっぱら近くの商店街で買い物をしていたが、商店街だけでは仕入れできないものもあるのだから、そういうときは少し遠くに足を運んだりもするのだ。
「もしかして昨夜、エルヴィン市にいた?」
「……いいえ?似た人でもいましたか?」
「いや……視線を感じたものだから」
 クロロはくつくつと笑った。面白くてたまらない、と言うように。
「クロロさんは見目が良いので、視線を集めるんでしょうねぇ」
 本日のメニューはキッシュ。アパレイユにはベーコンやほうれん草などたっぷりの具材が入っている。ついさっき焼けたばかりのキッシュは切り分けるとチーズが重力に従って断面を覆うようにとろけた。湯気にはチーズの香ばしい匂いが詰まっている。なまえが思うに、これほど幸福な匂いはない。キッシュとサラダ、スープを提供すると、クロロは無言で食べ始めた。普段おしゃべりな彼が黙っているところからすると、お気に召したようだ。
 涼やかなドアベルの音がなり、来客を知らせた。常連の老夫婦で、いつものように窓際の席でホットサンドとコーヒーを頼まれた。その後にも時間の経過とともに緩やかに客は増えていった。平日の朝としては多い方だった。これが昼休憩の時間になるとどっと増える。
「あ……と、もうこんな時間」
 数人増えた店内を見回すと、クロロがちょうどキッシュを食べ終えたころだった。客が増える前に、配達に行かなければならない。
「クロロさん、今から少しお時間あります?」
「構わないが」
「配達に行きたいのですが、店番を頼んでもよろしいですか?」
「ああ」
 なまえはほっと胸をなでおろした。
 クロロに店番を頼むのは初めてのことではなかった。なまえの店は圧倒的に常連客が多く、なまえが一人で店を切り盛りしていることを知っている者がほとんどだった。そういった客たちの間では、買い物や配達でなまえがよく店を空けたり、その場にいた客に店番を頼んだりすることは周知の事実であった。そのことでクレームをつけられたことなど一度もなかった。それはなまえが客と信頼関係を築いていることと、助け合いの精神によって成り立っていた。連続殺人事件など起きていなければ、本来はとても平和で思いやりの溢れる街なのだ。
「ありがとうございます。じゃあ、会計だけお願いします。すぐそこの会社なのですぐ戻りますから」
 エプロンを外しながら冷蔵庫を開け、昨夜作って冷やしておいた自家製プリンを取り出すと、クロロの前に置いた。
「お駄賃です」
 人差し指を立て、内緒ですよと微笑みながらなまえはそう言う。
「すぐそこの会社っていうと……そこの証券会社?」
「いえ、人材派遣の会社ですよ」
「そうか。行ってらっしゃい」
 早速プリンを口に運ぶクロロに見送られながら店を出た。



 夜は嫌いだ。
 すべてのものの境界が薄くなって、自分が分からなくなる。そんな経験、生きていれば誰だって一度はあるだろう。……ということは、「自分は今生きている」ということの証明がたった今為されたということだろうか。勿論そんなわけはなく、そんなものはただのつまらない言葉遊びにしか過ぎなかった。こんな言葉の矛盾をつつくよりも、もっと確かなものでなければ。
 だから、デートは必ず夜がいい。自分の輪郭を確かにしてくれる恋人と逢うのだから、夜でなれけば意味がない。けれども、残念ながら今回は振られてしまうかもしれない。
 
 なまえがぼんやりと物思いに耽っていると、恋人が視界から消えた。とん、と優しく肩を叩かれる。
「夜はすぐに寝るんじゃなかったか?」
「……"仕入れ"です」
「仕入れか……言ってくれるなぁ」
 クロロはいつも通りに笑った。その瞳だけが静かな熱を孕んでいた。
「探偵ごっこは楽しかったですか?」
「ああ、結構楽しませてもらったよ。本当に、人とは面白いものだな」
「……私を罰しますか」
「オレにその資格はないよ。ただ興味があっただけだから」
 その言葉を聞いてなまえは数秒黙り込んだ。眉を顰め、何かを手繰るように手を動かしている。まるで、言葉が実体として眼前にあり、それを探っているようだった。何度か口を開いてはもごもごと不明瞭に動かし、やっと口にするべきことを見つけ、舌先に乗せる。
「……私、男の人が苦しんでるのが好きだわ」
 やっと放たれたのは、そんな言葉だった。どこか遠くを見つめながら、彼女はそう言った。
「昔、監禁されたことがあるの。男の人たちは私によくひどいことをしたわ。それから男の人が怖いのと同時に、私と同じくらい、ひどい目に遭えばいいと思ってしまうの」
 沈痛な面持ちをしながらそう吐き出した。
「おかしいわよね。こんなの……普通じゃない」
 泣きそうな顔で笑いながらなまえがそう言うと、クロロはすべてを分かっているとでも言うようににっこり笑った。
「ダウト」
 なまえは瞠目することでそれに応えた。実際、予想外の言葉だった。
「お前が本当に男を憎んで殺しをしているなら、やり口はもっと凄惨なはずだ。しかし、遺恨目的と言うわりに死体には傷一つついていない」
 クロロは至極楽しそうに言った。まるで、テストで100点を取った子供のようだった。
「なあ。動機はもっと他にあるだろう?」
 嫌な瞳だ。純粋と狂気が綯い交ぜになっている。獲物を見つけた蜘蛛みたい。
「……そこまでバレているとは思っていませんでした。できればクロロさんとも賭けをしたかったのですが、今度のターゲットは当たりだったのやらはずれだったのやら」
 先程までの渋面はどこへやら、なまえは頬に手を当て、困ったように笑いながら小首をかしげた。
「あなたが本当に知りたいことはなに?」
「オレは最初から言ってるよ。好奇心だ。ただそれを満たしたいだけのこと」
 クロロの様子を窺うが、どうも嘘をついているようではない。それと同時に呆れてしまった。よもやそのためだけに自分に近付き数ヶ月も店に通い続けたなど。この男は、本当に読めない。常識が通用しないから、厄介だった。
「……まあ、そういうところが好きだったんですが」
「過去形?」
 クロロの言葉など無視して、なまえは探るようにクロロを上から下まで眺めた。
「それで、どこまで推測してるんです?」
「被害者の共通点を探ったらお前に辿り着いた。店の常連客だったり、仕入れ先の農家だったり、配達先の会社員だったり……大方、オレにやったみたいに好意を仄めかして近づき、殺したんだろう」
 クロロはさらっと言ってのけるが、警察の必死の捜査でも辿り着けなかった事実を随分あっさりと暴いてくれる。クロロの言うことはまったくその通りだった。捜査上でも、なまえの名前は割とすぐに話題に上っただろう。しかし、ただの善良な一カフェオーナーを疑う者は皆無だった。実際、客たちとの関係性が良好であることはこの辺りでは知れ渡っている。カフェの常連客には色んな人物がいるのだ。例えば、警官とか。加えて犯人は巷では複数犯で男だと予想されているのだから、なまえが捜査の目からすり抜けるのは自然なことだった。
 しかしそんな理論は、クロロには通じない。この男には、先入観とか、偏見がなかった。あくまで純粋に思考することができるから厄介なのだ。もちろん彼が念能力者で、念というものがある限り常識などとは無縁の世界が広がっていることを知っているということもあるだろう。念さえ使えば、密室でもないのに密室殺人を行ったり、女手一つで遺体を遠方に運んだりすることは容易い。
「うふふ、やり口はほとんどバレてますねぇ。じゃああとは念能力と動機だけか」
 そんなクロロでも分かり得なかったこと。動機。こればっかりはなまえの生い立ちを知っていなければ分かるはずもない。プライベートな話だが、別に昔の古傷だとか、そんな感傷的な理由がある訳ではなかったので、話すぶんには全く問題なかった。むしろ、彼には聞く権利があるのではないかとすら思った。
 しかしなまえはかりりと親指の爪を噛んだ。少しだけ迷ったように言葉を詰まらせる。
「……それで、すべてを知ってクロロさんはどうします?」
「何も変わらないさ。またたまに店に通って、少ししたら通わなくなる」
「……」
 なまえは、驚いたように眉をあげた。しかしその顔はどことなく安堵しているようだった。彼女は息を吐き出すと、つらつらと話し始めた。
「……昔監禁されていたのは本当。それで、私、自分が死んでるのか生きているのか分からなくなっちゃったんです。当時はかなりギリギリのところで生きてましたからねぇ。死んでもおかしくなかった。それで、同じ部屋にずっといて、考えることといったらいつ死ぬのかということばかりで、おかしくなっちゃったんでしょうね」
 つまらない昔話を朗読しているような声音だった。
「怖いんです。自分がどこにいるのか分からない。私はちゃんと生きているのか、実感がほしかった。初めて気づいたのは、大事に育てていたペットの猫を殺した時です。本当に本当に大切な家族だった。大好きだった。でも、ね、気付いたら、ふふ、首を絞めていました。それで、藻掻くミーちゃんを見て、私、すごく生きている実感が持てたんです。こんな風にあっけなく死にたくないと思って、そう思うってことは、私が生きているってことでしょう?」
「……」
「次は、恋人でした。大好きだった、優しいジャック。賭けをしました。生きるか死ぬかの。死にたくないと発狂する彼を見て、いい気味と思ったり、可哀想だと思ったり、"私は"生きててよかったと思ったり……うふふ、それからは新しく恋人を作っては殺しました。きっと、恋人というのが肝要なんでしょうねぇ。ただの他人じゃつまらない。自分にとって大切な人が死んでしまうことで、私は生きていると実感できる」
「……賭け?」
「私の念能力、"重なり合わせの状態"シュレディンガーの猫は、対象をハコに閉じ込めます。それこそ、密室の。中にはボタンがあって、それを押せばきっかり50%の確率で有毒ガスが出ます。それだけの、いたってシンプルな能力です。素敵でしょう?」
 ──言わば、生きるか死ぬかの賭け。確率は二分の一。至ってシンプルで、方法という点ただ一つにおいてはまさしく平等で公正な賭けだ。
「三ヶ月という期間に何か意味は?」
「そのくらい経ったら、お互い情も移っているころでしょう、普通。だから、三ヶ月経って、仲良くなってから、殺したんです」
 動機をすべて聴き終わったクロロは、あっさりと興味を失ったように視線を逸らした。
「お前の心理はまったく非合理的なものだ。歪んでるな。だからこそ、面白いわけだが」
 まったくつまらなそうにそういうものだから、なまえはおかしくなった。
「うふふ、本当は今日、クロロさんもやってしまおうかなと、思ってたんです。ふふ。でも、クロロさん、これからもうちに通ってくださるそうだから。だから、やめました。次の恋人は他の方にします」
「その基準はなんなんだ?」
 よく分からない、とクロロは気だるそうに首を振った。
「今までと一緒でいてくださるなら、殺せませんよ、ふふ」
 なまえはくるりと踵を返し、路地を進んだ。自宅兼店に帰るのだろう。クロロも何気なくそれに付いていく。送ろうだとかそういった紳士的な考えではなかった。
「……三人」
 ともすれば聞き逃してしまいそうな声量でなまえが呟いたものだから、クロロも小さな声で生返事をした。
「今まで、三人だけです。ボタンを押したのは。うち生きて出てきたのは一人だけ。あとの二人は死んでしまいました。可哀想に。残りの方々は、時間切れで死んでしまったり、発狂してしまったりで。純粋に、覚悟を決めてボタンを押してくれたのは、三人だけだったんです」
 だから、死んでしまってとても寂しかった。なまえはそう囁いた。
 気付けばもうなまえの店のすぐ近くだった。
「……自分に使うことは?」
 なまえと別れるその時になって、クロロは最後の疑問を呟いた。想定外のことを言われたというようになまえは目を見開いた。答えは返ってこなかったし、クロロでさえもう別段気にしてもいなかった。
 もしも自分がハコに入れられてしまったら。ボタンを押すか。そんなくだらない自問を振り払った。なまえの能力を盗ることは容易い。だが、そうはしない。帰って寝て、読みかけの本を読んで、またなまえの飯を食べに来る。そしてこれからもどこかで増え続ける死体を数えながら、飯を食べて、生きていく。きっと、そう信じて生きるのがいいのだろう。
 店につくと、なまえがおやすみなさいと言った。クロロもおやすみと返した。なまえが店に入るのをクロロが見届けていると、扉に半身だけ滑り込ませた彼女が振り返った。

「私、押したんです」

 柔和な笑みとともになまえはそう言い残し、ぱたりとドアは閉ざされた。



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