いつでも、いつか



初めてその表情を見たとき、「この人だ」と直感で分かった。今まで自分の周りにいた、自分に酔っている被搾取者たちじゃなくて、この人こそ、ほんとうに、「捕食者」だと、気付いた。
この人が、私を、食べてくれる人だ!

「私を、食べてください!」
その時の胡乱気な瞳は、今でも覚えている。それは、すぐに興味を失ったかのように逸らされた。どこを見ているのかわからないが、少なくとも男の興味関心は自分にはないようだった。
「品種改良されているので、美味しいです。無菌畜養なのでウイルスや菌も持っていません」
『プラント』で何度も何度も刷り込まれた文句は、十数年の月日を経て、はじめて声に彩られた。このヒトになら食べられたいと、初めて思えたから。
少女はこれだけ言えば、あとはもう食べられるのを待つだけだと思っていた。今まで彼女の周りにいたのは、自分のことを食料扱いする人間ばかりだったから。しかし、男は少女が一瞬瞬きをする間に、少女の前から姿を消した。

男の跡を追うのは簡単だった。再び目の前に現れた少女に男は警戒しているようだった。温い殺気がまとわりつく。屠殺場で、何度も味わった、死の温度。少女には男が右手に何かを隠しているのが見えた。
「私を殺してくれますか。そしたら食べてくれますか」
期待に身体を打ち震わせると、男から殺気がぱたりと止んだ。
「まいったな。おまえみたいな気狂いに構ってられないんだけど」
つい、と顔を一つのビルに向けた男は、耳元に手を添えた。彼の耳の穴には、大きな黒い幼虫のようなものが潜り込んでいた。
「解析まだ?」
幼虫からは喚くような男の声が聞こえてきた。少女は知っていた。カンシャクという病気を持つとそうなるらしい。かつて『プラント』で世話係だった男もよくぎゃあぎゃあと叫んでいた。
少女が彼は何を見ているのかと興味をもち、その視線の先を辿ると、そこには一人の男がいた。一目見て、少女には分かった。私は、この人が、きらい。あいつらと同じ顔をしている。豚のように醜く肥え、他者を搾取していると思い込み、その実自分が搾取されている、悪食、暴食を生業とする人間だ。
「あの男を殺すの?そしたらあいつを食べるの?あんな品質管理されてない男、きっとバイキンだらけで美味しくないよ。私にしなよ」
拗ねたようにそう言っても、返事が返ってくることはない。返事がないのには慣れている。少女は徐にポケットからパン屑を取り出すと、バラバラと自分と男が立っているビルの屋上にバラ撒いた。
少し待つと、人に慣れた鳩が寄ってくる。日中に散策をし、この街では広場でよく鳩に餌付けが行われているというのは確認していた。少女はそのうちの愚鈍そうな一羽を手で捕まえると、能力を発動させた。

恐竜人間ディノサウロイド

バタバタと藻掻く鳩の足を、手の中に現れた一枚の羊皮紙にぺたんと押し当てる。
その紙にはこう書いてある。

『死亡承諾書』──

むくむくと鳩の頭が肥大化する。自己の体よりも一回りも大きく、アンバランスで醜い頭を抱えて、鳩はぺたぺたとコンクリートの上を這い回った。頭が大きすぎて飛べないのだろう。しかし数分もすれば、よろよろと飛び上がった。自分の体を、筋肉を、どのように使えばいいのか、「考えた」のだ。
「アイツのこと、見てきてよ」
少女が顎で向かいのビルにいる男を指し示すと、よたよたとふらつきながら鳩は飛んで行った。くるくるとビルの一室の前を旋回する。
「何をしたの」
「人間並みに賢くしました」
帰ってきた鳩は、ペラペラと喋り始めた。
「40代、男。側近らしき男と酒を飲んでいた。恐らくランカシャイヤ製の赤ワイン。酔っているようだ。脂身が多い。あいつはダメだ。ハリも柔らかさもあったもんじゃない。ただのブヨブヨだ」
「ほうら、やっぱり」
「……強制的に知能を上げ、かつ言うことを聞かせられる能力か。使えるな……」
あの男が食べるに値しない人物だと教えてあげたのに、他のことに執心の男は聞いている素振りもない。少女は肩をすくめると、目の前に鳩に手を振った。
「ありがとねーバイバイ」
ばつん、と頭がはち切れた鳩が眼下に落ちていく。人間並の知能になるのは少女の願いを叶えている間だけ。契約が履行されると、もう生きていることはできない。肥大した脳に体がついていけるわけがないのだから。
少女は、終わりが綺麗じゃないのは、ちょっとだけ可哀想だなと思った。自分はどうせなら美しく骨の髄まで食べられたい。
「よし、分かった。取引をしよう」
「取引って契約ですか」
「そうだね。君がオレの手伝いをしてくれたら、オレは君のことを食べてあげよう」
「ほんとう!?」
「うん。だから君の能力のこと教えて」
「ええっと。契約書にインバン押してもらうでしょ。だいたい蹄とか肉球とか。インクはいらない。契約書に触れたらオッケーみたい。そしたら私のお願い一つ聞いてくれる間は賢くなるの。でもみんながみんな大人しいわけじゃないんだよ。だって動物だもん。だからねー、断られることもあるの。そういう時は、なんかねぇ、体が変になるんだァ」
「変って何」
「なんかねえ、元気でなくてダルダルーってかんじ」
「……絶状態になるのか?……感覚派だな」
「本当の本当に聞いて欲しいお願いがあったのにーだーれも受け入れてくれないんだもーん。だからこのチカラ、いらなーい」
宝の持ち腐れ、だ。イルミにしたら、使い勝手のいい能力なのに、この女はまるでそれを有効活用しようとしない。彼女にとって有効が何なのかは、分からないけれど。
「勿体ないから使えそうなら木偶にするか」
手中の針を弄びながらそう言う。
「鼠に配線齧らせることって可能?」
「うん」
「場所はここ。右から3つめの線ね」
「分かりました」
ビルの見取り図や配電盤の図を見せると、少女はその場を後にした。少しして、片手に鼠を捕まえて戻ってくる。少女が先程と同じような手順で鼠と契約を交わすのを見る。小さな体の何倍も頭が膨れ上がった鼠は、少女の指示に従って駆け出した。
少しでも隙を作ることさえできれば、暗殺自体は容易い。ただ、生体認証や赤外線の解除に少し難儀していたときだった。待っているあいだ、イルミはふと彼女に尋ねた。
「なんでお前は食べられたいの」
「だって私は食べられるために産まれたんだもの」
彼女は『プラント』と呼ばれる場所から来たという。そこは徹底した食事と抗菌仕様で、たくさんの少年少女が飼育されていた。一定の品質をクリアすると、出荷されるらしい。
確かに、趣味の悪い金持ちの中には『そのような』趣味の者はたくさんいる。
「……食べられたくないとは思わない?」
そんな産まれだからといって、食べられるのを良しとするのはイルミには理解できない。
「思わないですよ。だって私は誰かに食べられるために作られたものなんですから。食べられもしない家畜ほど哀れなものはありませんから」
「……でも、そんなに生き急がなくたっていいんじゃないの」
「……だれだって、ニンゲンだって、いつでも、いつかでしょう?いつか、病気で死ぬかも、いつか、事故で死ぬかも。そうなってからじゃ遅いのです。そうなる前に、私はまるごと美味しく食べられたいのです」
パッ、と目の前のビルの、目当てのフロアの電気が一斉に消える。瞬間、イルミはビルへと飛び込んだ。
ケーキにナイフを刺しこむように、または柔らかいコルクボードに画鋲を押しこむように。ターゲットの眉間に鋲を埋めると、イルミの仕事は終わった。ターゲットとその側近の男が声を上げる間もなく、鮮やかな手つきで始末したイルミは、インカムでミルキにその旨を伝える。
そして、痕跡ひとつ残さずにあと数分で予備電源から電力が供給されるだろうビルの一室を後にした。
今日はあと一件、隣の市で暗殺の依頼がある。車を待機させている大通りに足を向けると、いつの間にか先程の少女がついてきている。
撒けると思ったんだけどな。面倒だ。
「いつ食べてくれるんですか」
期待に瞳を輝かせながら小走りでついてくる少女を無視して歩を進める。
「私、初めて会いました。あなたのような捕食者に。だからどうしても、あなたに食べられたい」
その言葉にイルミは僅かに眉を寄せた。
「……お前だって捕食者じゃないの」
侮蔑を含んだイルミの瞳が彼女を射抜く。
「結局のところ、自分は家畜だって言いながら自分より弱い動物のことを食い物にしてる」
「?当たり前じゃないですか、彼らは私より弱かった、それだけです。弱いものが強いものに食べられる。自然の摂理じゃありませんか」
何がおかしいのか分からないと彼女は首を捻った。
「だから私も、もし自分より強いひとに食べられても、何も文句は言いません。でも、きらいなひとに食べられるのはいやだから、こうやって頑張ってます」
少女は急に声を低くした。その声は、まるで成熟した女性のような妖艶さを孕んでいた。
「ねえ。あなたはほんとうの捕食者ですよ。実のところ、こうやって誰かを食い物にすることになんの疑問も抱いていないのはあなたでしょう」
少女は笑った。肌が粟立つような美しさで、目に狂気を宿して。恍惚の表情で胸の前で手を組み、まるで祈りを捧げるようにイルミに懇願する。
「だから食べて欲しい。圧倒的な捕食者に。私のような家畜を食べることができるのはあなたのようなニンゲン様です」
雲間から月が覗く。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
「どうか、美味しく食べてください。骨の髄までしゃぶって、スープにして。血の一滴まで飲み干して」
少女は歓喜に打ち震えながら胸の前で組んだ手を握りしめた。やっと、やっと、やっと!
幸福に包まれながらそっと目を閉じる。目の前の男が動く気配がした。
目の上、髪の毛の下。つまり眉間のあたりに温かい温度を感じた。それはかつて何度も感じた死の温度より熱く、血の温度よりも鮮烈な。驚愕に目を見開くと、もう既にそこに彼の姿はなかった。
なんてことだ。彼は、あろうことか、私のいちばんたいせつな、魂だけを、齧っていった!
少女は一人真夜中の月に吠えた。
「Eat me!」



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