恋に浮く



 ノックをしてすぐ、返事をする暇も与えずにドアを開けると、スリップ姿の女と目が合った。
「こ……の、浮気者ッ!!」
 そうどやしつけると、レオリオは気まずそうにシーツを引き寄せて体を隠した。
 この情けない表情をした男と出会ったのは、数年前だった。
 その日の私はとにかく最悪な気分だった。
 浴びるように飲んだ酒のせいで頭はフラフラと揺れていたし、どこに脱ぎ捨ててきたのかいつの間にか靴を履いていなかったし、それより何より、赤黒い傷痕からひっきりなしに血を流す皮の内側が痛くてやるせない。それは、有り体に言ってしまえば「心」と呼ばれるものだろうが、私にとっては全身からダラダラと血を流しているような、そんな痛みだったのだ。
「おーい」
 さっきからずっと私の後をついてくる、酒場で隣り合わせただけの男を無視してフラフラと行くあてもなく交互に足を前に出して進む。どこまで行くんだろう、と他人事のように思いながら、また一歩右足を前へ。
「家、こっちの方なのか」
 無視。
「危ねェぞ〜」
 無視。
「いい加減靴履けよ」
 その言葉にちらりと後ろを振り向くと、男は私のミュールを右手にぶら下げていた。それを見た瞬間またぶわっと悲しみの波が襲ってきて、私はその場に座り込んだ。さっきまではどこまででも歩いていきそうに思っていたのに、急に一歩も歩けなくなった。
「いらない」
「足が汚れますよ、お姫様」
 私の足をうやうやしく持ち上げると爪先をミュールに滑り込ませようとする男の手を振り払うように足を暴れさせた。
「っいらない!」
「荒れてんなあ」
「そんな靴、いらない!」
 その靴は、一年前の誕生日に彼がくれたものだった。その靴を履いて彼と過ごした日々の、たくさんの思い出がよみがえり、私は頭を両手で抱えて呻いた。
「吐くか?」
 見当違いなことを言って私の背中を撫でる男の手からは、酒場で鼻の下を伸ばしながら私の谷間を見ていた男と同一人物とは思えないほど下心を感じなかった。むしろ、奉仕的な穏やかさを感じた。
 酒場でナンパをされた時も無視を貫いたし、ふらりと酒場を後にしてからもついてくる男の呼び掛けをひたすらに無視していた。しかし男は懲りた様子もなく私を追いかけた。
 てっきり路地裏に入った瞬間、襲われるものと思っていたのに男は後をついてくるだけだった。こうして座り込んでも、丁寧に背中を撫でる以外、触れてこようとはしない。実際のところ、私は犯されるならそれでもいいというほど自傷的な気持ちだったから、拍子抜けした。
「放っておいて……」
 力なくそう言うと、「何があった」と思いがけず優しい声が耳をくすぐる。顔は全然似てないのに、その声は優しかったころの彼のものに似ていて、とうとう私の瞳からはぼとりと花が落ちるように涙が零れ、大きな水滴が太ももに伝った。
 そうして私は嘔吐するようにありきたりな顛末を打ち明けた。
 結婚を誓った彼に捨てられたこと。
 彼とその「本命」だという女に屈辱的なまでに辱められたこと。
 ついでに貯金も盗られ、さっきの酒場で使ったのが最後のお金だということ。
 それでもまだ優しかったころの彼が迎えに来てくれるんじゃないかと思ってること。
 今どき誰にも見向きもされないような安っぽいシナリオに笑えてくる。
 男は私の気が済むまでひたすら、退屈なまでに背中を撫で続けていた。手足も頭も冷えきっていたのに、背中だけが熱くて気持ち悪かった。
 私の口から嗚咽だけが漏れるようになると、男は胸ポケットから財布を取り出し、札をすべて抜くと私のポケットに滑り込ませた。
「……避妊はしてね」
 それだけ呟くと、男は長々とため息を吐いた。
「馬鹿野郎。オレがそんなクズヤローに見えるか」
「見えるわ」
 男はがくりと肩を落とすと、今度は財布からレシートを取り出すと、ボールペンを取り出してその裏にさらさらと何か書き始めた。
「いいか? 医療従事者奨学制度っつうもんがある。つまり、医療従事者になるなら全寮制の学校に通わせてもらえるし、ついでにその間の給料も出る。クソッタレが戦争おっぱじめやがったせいで、医者や看護師はどれだけ居ても足りねえんだ」
 これを持って役場の窓口へ行けと言う男の顔をぽかんと見つめた。
「勉強は難しいし仕事は厳しいが、手に職があれば生きていける」
 数瞬前まで別に生きたいとも思っていなかったのに、私はつい「何でそこまでしてくれるの」と純粋な疑問を呟いた。
「……金で命が買えるなら安いもんだ」
 そう呟いた彼の、憂いを帯びた表情に、私は恋に落ちた……いや、落ちたというより、浮いたと言った方が適切だ……のだと思う。

 商売女をレオリオの部屋から追い出し、「どうして私に手を出さないのにお金を払って女を買うの」と恨み言を呟く。
「そりゃお前とオレは恋人でもなんでもないからだ」
「だから、付き合おうって、言ってるのに!」
 そう地団駄を踏むと、レオリオは「断る」と言ってベッドサイドに置いていた腕時計を着けた。
「どうして!」
「なんでってそりゃ……」
 レオリオはうろうろと視線を泳がせた。耳を赤く染めてがしがしと乱雑に頭を搔くと、むっつりと黙りこむ。
 絶っ対、私のこと好きなのに!
「どうして!」
 再び叫んでフラットシューズで床を踏みしめる。
 こうなったら、実力行使に出るしかない。ずっとレオリオの方から求めてくれるのを待っていたのだけど、そろそろ我慢するのにも飽きてきた。
 私はレオリオが座っているベッドに乗り上げた。
「おっ、おい……おい!!」
 慌てたように後ずさって壁際まで逃げるレオリオを私は冷静に見つめた。
 こうなったら言葉を尽くして、行動でも示して、分からせてやる。
 あの夜からずっと、私の皮の内側は元彼との思い出ではなく、レオリオのことで一杯なんだってこと!



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