天国までのまがり道C


「契約だ」

遠くで声が聞こえた気がした。その声は毎日耳にしている。グリムジョーだ。自分ではない誰かに向けられたと思われるその言葉。契約?何の話だろう。それよりも、さっきまで私は夢を見ていたのだろうか。耳元で名前を呼ばれたり(これはグリムジョーの声じゃなかった)、何かに驚く声と(これも別の人の声だった気がする)、指先が目元に触れる感覚。その指を私は知っていた。これは、グリムジョー。何度も何度も触れられたその指を、私が間違えるはずがない。

「あ!凪!」

自然に瞼が開いて、月の光が目に入ってきた。反射的に目を薄めるが、同時に聞こえた子どもの声に凪は訝しむ。徐々に視界が鮮明になってきて、自分を覗き込んでいる人々の姿が目に入った。
子どもの姿になったネリエルと…崩姫?ぱっと名前が出てこない。しかし人間の彼女がどうしてここに…と思うと同時に、ふたりの後ろから現れた影が自分を覆う。あ、と声が漏れた。

「…グリムジョー」

すぐ近くにいるネルと崩姫が安堵したように表情を和らげ頭上を見上げた。ふたりが顔を上げたことでグリムジョーの姿がよく見える。凪に名を呼ばれ、グリムジョーは目を細めた。口元は固く結ばれたままだけれども、なんとなく尖った霊圧が丸くなるのを感じたから、内心安心したのだろう。自分が弱いせいで彼にまた心配をかけてしまった。
その時、自分の視界が欠けていないことに気づく。反射的に右目に触れるが、そこにはちゃんと眼球があった。あの滅却師に潰されたと思っていたのに。崩姫…思い出した、井上織姫だ。彼女のあの力か、と凪は合点がいく。また彼女に借りを作ってしまった(前回の借りも返せてないのに)。

「寝てろ。まだ霊圧は戻ってねえはずだ」

グリムジョーは体を起こそうとした凪に短く言う。平気、と答えた凪だったが、萎えた腕が体重を支えられず、ぐらっと身体が傾いた。危ない!と高い声が耳元で聞こえて身体の下に細い腕が潜り込んでくる。その細腕に支えられ、凪はなんとか倒れずに済んだ。自分のすぐそばにいる織姫が、無理しちゃだめ、と凪の目を見て言った。応急処置しか済んでないの、と眉をハの字にする織姫。凪は反応に困り織姫から視線をグリムジョーに移す。見たことか、と呆れたようにグリムジョーは溜息を吐いて、織姫と代わるように凪の身体を抱く。寝るのが嫌なら座っとけ、と石の壁に身体を預けられる位置に凪を降ろした。一連の流れを、はぅ…と見ていた織姫に、ネルが「あれがいつものふたりっス」と耳打ちをしてる。ネル!とグリムジョーが声を荒げてネルを睨んだ。

「聞きたいことがたくさんあるんだけど…」

凪は掠れる声でグリムジョーに話しかける。グリムジョーは黙ってその先を促した。凪が、何から聞こうと思案しながら口を開こうとしたその時だった。

「あ!凪サン、目ェ覚めました?」

飄々とした声がその場に響いた。視線を上げるとそこにいたのは下駄と帽子を身につけた男。その男のことは尸魂界にいた100年以上前から聞いて、知っていた。

「浦原喜助…?」

元護廷十三隊隊長で、現世に追放された男。そして、先の大戦で藍染惣右介を封印磔で封じ込めた死神。ある意味、自分の悲願を代わりに実現させた者のひとりだった。
その彼がどうしてここに、と凪は目を瞠る。
それに答えるように、浦原はニッと笑った。

「あなたとこうしてちゃんとお話しするのははじめてっスね。元護廷十三隊、九番隊所属の更夜凪サン。あ、虚圏に来る直前は五番隊になってたんですっけ?」
「…三、よ」

なるべく隙を見せないように、表情が強張るのを隠して答えたつもりだった。尸魂界にいた頃、藍染から浦原喜助という男については嫌ほど聞かされていたから、多少彼に対する知識はある。藍染をして「自身の頭脳を超える唯一の存在」と言わしめる存在。その人となりと、あらゆる可能性を考え、調べ、対策を講じてくる人物。おそらく大戦後も虚圏に残る凪については生まれた時から今に至るまでのことを既に調べ尽くしているのだろう。
この男が何故ここに、と凪は眉を顰める。しかしここに織姫がいることを考えると、十中八九彼が黒腔を開いたのだろう。自ら虚圏にやってきたその経緯はさっぱり検討がつかなかったが、織姫が虚圏にいたことで自分が助かったことは紛れもない真実だった。九死に一生とはこのことだろう。

「…もしかして、あの滅却師たちを追ってここにきたの?」
「追ってきたわけではないんですが、結果的に追い払うことにはなりました」

一時的に、と付け加えられた言葉に、凪は眉を顰める。浦原の力をもってして一時的に、とはどういうことだ。グリムジョーは自分が気絶していた間の出来事を知っているはず。片膝をついて凪のすぐ隣にいるグリムジョーを突いて、凪は「ねえ、どういうこと?」と小声で尋ねる。グリムジョーは一度浦原に視線を投げた後、凪を振り返って言った。

「あの化け物滅却師たちの親玉を放置すると、虚圏もろとも世界が壊されるらしいぜ」
「…は?」

虚圏もろとも世界が壊される。そして彼は今、親玉と言ったか。あの虚圏狩猟部隊と名乗っていた滅却師が首謀者ではなく、その上にもっと力をもった支配者がいるということか。ぐらっと頭が揺れるのを感じた。藍染の支配下からようやく解放され平穏を手に入れたと思っていたのに、こんなに早く次の脅威が現れるなんて。それに、今度は世界が滅ぶ?虚圏もなくなる?先程とは違う、問いかけとは別の意味で、「どういうこと…」と凪は呟いた。本当に理解ができなかったのだ。

「「見えざる帝国」と名乗ったあの滅却師の集団は、尸魂界にも侵攻しました」

その被害は、壊滅的です。と浦原は続ける。大嫌いな死神たちがいるかつての住処。あの尸魂界には破面さえ倒す隊長格が何人もいる。その尸魂界が壊滅状態?その集団が尸魂界、虚圏に侵攻して世界を壊そうとしている?
なんのために…と凪は言う。滅却師たちが何を目的にそんなことをしているのか理解できないし、しかも虚圏だけではなく、尸魂界まで壊滅的というのだ。その力は恐ろしいほど強大だ。先程まで死にかけていた自分だからこそ、その恐ろしい力は身にしみてわかっているつもりだ。あの時直面した気味の悪い、圧倒的な力を思い出し、背筋にぞくっとしたものが走るのを感じた。

「あの滅却師たちを止めなければ我々の平和は損なわれる。それに困るのは、アタシたちだけじゃなくて、虚圏の住人であるあなたたちも困るのでは?」

ねえ、グリムジョーさん。と、浦原は意味深にグリムジョーに問いかけた。グリムジョーは、チッと大きく舌打ちをする。話が読めなくて、凪は二人を交互に見やった。それに対し、浦原は口角を上げて笑う。そして自分の口元に一本指をかざしてみせた。

「というわけで、グリムジョーさんとは契約を結びました。アタシの敵を殺すまで、アタシに協力すること。敵とはつまり、「見えざる帝国」です」

帽子の影になっていた彼の目元が光る。契約?と凪は口の中で呟く。目が覚める直前、そんな単語が聞こえていた気がした。グリムジョーに視線を送ると、彼はフン、と鼻を鳴らした。嘘ではないらしい。凪はなんとなく見えてきた状況を整理する。つまり、お互いの住む世界を守るために共通の敵を倒す契約を結んだということだ。しかし、天上天下唯我独尊のグリムジョーがむざむざと浦原の言うままに「契約」を結ぶとは思えなかった。どちらかというと、「俺に殺されたくない奴は俺の駒になれ」と言い放つ方がこの男には似合っているし、そちらは容易に想像できた。グリムジョーが他人に協力する?主導権を相手に握らせる?…どう考えてもありえない。

「あの滅却師たちを倒すことは共通の目的かもしれないけど、あなたたちに協力することの対価って…?」
「ああ、それはもう半分お渡し済みです」
「半分?」

凪が続けようとしたときだった。凪・とグリムジョーが自分を呼ぶ。それは呼ぶというより、制止に近いものだった。グリムジョーの顔を見ると、話はついてる、と静かに言った。その横顔は不思議なほど落ち着いたもので。凪は怪訝な表情が浮かぶのを止められなかったが、それ以上何も聞くなという空気を感じ、今はひとまず口を噤む。先程から頭がぐらぐらするのは、情報量の多い話に脳が疲れているだけではないのだろう。まだ本調子ではない。目の前がチカチカして、思わず手で額を覆った。

「おい女!まだ終わってねえんだろ」

その様子にグリムジョーが少し離れたところにいた織姫に声をかける。声をかける、というより乱暴に呼んだと言った方が表現としては正確かもしれない。何を、と彼は言わなかったが、織姫は、はい!と頷いてさっと凪に近づく。
そして手のひらを凪に翳して、また凪は光に覆われた。事象の拒絶…双天帰盾といったか。相変わらず異次元の力だと凪は織姫を見ながら思う。

「大丈夫。私がちゃんと治すから」

織姫は凪の目を見て言い切った。虚をつかれて返事ができずにいると、グリムジョーはそういうことだ・と立ち上がる。

「虚圏は消えさせねえ。だからてめえはしっかり身体を治しやがれ」

ぶっきらぼうにグリムジョーは言って、腕を組んで壁に身体を預けた。ふん、と鼻を鳴らして眉間に皺を寄せている。ああ、いつものグリムジョーだ。凪はそんな彼の姿に小さく笑って、正面にいる浦原に視線を向ける。そして口角を上げて、不敵な笑みを彼にぶつけた。

「私も虚圏がなくなったら困るのよ。だから、私もその契約にのらせてね」

凪のその言葉を浦原は予想していたかのように、ハハッと声を上げた。

「おふたりとも、契約締結・てことで」

浦原のその言葉に、グリムジョーは面白くなさそうにチッと舌打ちをして視線を外した。凪はそんなグリムジョーをうかがいながら、後でしっかり話を聞こう、そう思った。


END
(20220129)



back