不器用な庇護欲


虚圏に朝は来ない。
欠けた月を眺めながら、凪は両手で包んだボトルに口をつける。冷たい水が身体の中に染み込んで、ぶるっと身体が震え、寒さを逃すようにひとつ息を吐き出した。
朝は来ないが、一日のはじまり…現世で朝日が昇るよりもずっと早く凪は虚圏から浦原商店の地下にある勉強部屋に向かう。本格的な修行を開始する前に、戦う上で前提となる霊圧の回復に時間を要しているが、それに不思議と焦りはなかった。霊圧さえ戻って安定すれば以前の力は自然と戻ってくる。その後だ。大戦中の自分史上最強だと思っていたあの頃よりもさらに力をつけることで、滅却師たちとも十分に戦える。虚圏狩猟部隊の前でむざむざと敗れたような無様な姿はもう晒さない。
あと少し…と凪は胸中で小さく呟いた。

「よォ」

ざっと砂を踏む音がして、凪は下を覗き込む。遺跡の端にある岩の上に腰掛けていた凪は地上よりも空に近い位置にいた。自分を見上げているグリムジョーを見とめ、凪は「おつかれ」と声をかけた。グリムジョーは軽々と跳躍し、凪の座る岩に到達する。そして凪の隣に立膝で座った。肩が触れ合うが、自分達にとってそれはいつの間にか普通の距離感になっていた。

「修行終わったの?」
「ああ。今日はもう休めだとよ」

グリムジョーにボトルを渡せば、彼は無言でそれを受け取り水を飲み干した。そっちはどうだ、という彼の問いかけに、うーん、と凪は間伸びした相槌を打つ。

「今は霊圧を戻すことに集中してる。本格的な修行はその後からかな」

グリムジョーの肩に頭を預け彼の方を窺えば、そうか、と珍しく返事が返ってきた。凪を一瞥したグリムジョーは、しばらく彼女を観察するように見つめ、口を開いた。

「凪。お前、虚圏に残れ」

突然の、予想だにしなかったその言葉に、凪は一瞬何を言われたかわからなかった。しかしそれが、来たる滅却師達との戦いに参戦するなと言っているのだと理解して、頭を起こしてグリムジョーを睨め付けた。

「なんでよ。戦うために皆修行してるんでしょ。あんただってそうじゃない」
「まだ霊圧戻ってねえくせに生意気言ってんじゃねえ。今戦いに行っても瞬殺されるのが目に見えてんだろ」

口調を荒げることなく静かにグリムジョーは言う。「そんなことない!」と、普段は冷静な凪の方が感情を抑えられず声が大きくなる。
それに対しグリムジョーは動じることなく、視線だけを凪に向け直した。凪はそんなグリムジョーが気に食わず、あのさ、と前髪をかき上げながら歯噛みする。

「霊圧が戻りさえすれば藍染にやられる前の私に戻れるの。その時の私の強さ、あんたが一番知ってるじゃない」
「それが戻ってねえからいってんだろうが。2年かけて戻んなかった霊圧がすぐに戻るとでも思ってんのか」
「戻す!」

思わず立ち上がって声を荒げた凪に、グリムジョーは目をすっと細める。若干の苛立ちを纏うが、凪は自分の怒りの方に気を取られてそれに気づかない。焦りはなかった、順調に霊圧さえ戻って安定すれば隣で戦える。一緒に戦うことを彼自身も望んでいると思っていたのに。まさか一番自分を理解していると思っていた男に突き放されるなんて。凪は何も答えないグリムジョーに苛立ちを募らせ、「なんで急にそんなこと言うの?」と声を震わせる。これは悔しさか、情けなさか、悲しみなのか。
グリムジョーは眉を八の字にした凪を見上げた。

「てめえを守りながらじゃ戦えねえ」

その言葉に凪は瞠目する。グリムジョーは立ち上がり、今度は凪を見下ろしながら言った。

「弱え奴はいらねえ。大人しく虚圏で待ってろ」

ぐらっと足元が揺れる。ここ最近虚圏でも地震が相次いで発生していた。世界の終わり。戦いの時が近いことを示している。それを止めるために修行をしているのに、待っていろと?

「…守ってもらわなくても、自分で戦える」
「滅却師にやられて死にかけてただろうが」
「だから強くなって、」

言いかけた言葉が止まった。腹部に大きな衝撃が走る。ずしりと重い衝撃が内臓にめり込み、先程口にした水が胃液と共に逆流する。反射的に掌で口を覆い勢いのまま吐き出すことを堪えたが、ある意味支えになっていたグリムジョーの拳が凪の腹から引かれた瞬間、凪は跪いた。その衝動で耐えきれず嘔吐する。ゲホゲホと咳き込むと、生理現象で涙が溢れる。警戒などする必要がなかった、だからこそ喰らった不意打ち。それでも、グリムジョーはそうは思わなかった。

「これくらい避けれねえで何が弱くないだ。寝言は寝てから言え」

拳を開き指を振りながら、グリムジョーが凪を見下ろす。涙で充血した目を凪はキッと彼に向けた。その姿をグリムジョーは冷ややかに一瞥し、岩の上から飛び降りる。
追いかけようとするが、腹部の痛みでまだ動けない。腹に穴が空いていないということは大分力を加減されたことが分かる。しかし不意打ちで鳩尾に喰らった拳の重みは相当なものだった。
う、とまた胃が痙攣して嘔吐する。その様子を黙って見ていたグリムジョーは、踵を返しながら「てめえじゃ勝てねえ」と言い捨てて響転で去っていった。
砂埃が舞うそこをじっと見つめ、凪は奥歯を噛み締めた。

「…、絶対、残るものですか」

霊圧を戻して、あの時以上の力を手に入れる。守って戦われなければならないほど、自分は足手まといな存在ではない。
凪はやああって立ち上がり、グリムジョーが去った方とは逆に向かって跳んだ。
滅却師たちとの戦いはまもなく訪れるだろう。その日が来るまで、グリムジョーとは顔を合わせない。きっと彼もそのつもりだろう。なんなら全て自分の手で終わらせるまで自分の前には現れない気がした。その直感は、きっと当たる。
だから、その時までに何としても回復して彼を殴り返せるまでの強さを取り戻す。凪は口元を乱暴に拭って、ゆっくりとその場を離れた。
虚圏に、また静寂が戻る。


END
(20220210)



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