鈍色をうしなっても
ねぇ、やめて!やめてよ!と叫びにも似た声が遠くで聞こえた気がした。耳鳴りが邪魔をしてその声はノイズに阻まれているような感覚だったが、しかしそれはすぐそばにあって、自分を殴っている男に対し制止を求めているものだと気付いた。それに気付けた理由は、一瞬飛んでいた意識が戻ってきたから。皮肉にも自分の意識を引き戻したのは、手加減なく頬を打たれた衝撃だったのだが。
目が据わっているグリムジョーは、眉間に皺を寄せたまま、無言で凪の顔面を殴り続ける。その彼に、やめて!と少女のような見た目の破面が縋って止めている。しかしその体格差から、グリムジョーは彼女の制止を物ともせず、目を少し開いた凪に気づいてさらに力を込めて頬を殴打した。
口の中が切れて血の味がする。くらくらと頭痛と吐き気がして、ケホ、と喉の奥から咳が溢れた。同時に口の端から血が垂れて、その様子に彼はさらに眉を顰め、凪の身体を床に投げつけた。
受け身を取ることすらできず、凪は冷たい大理石のような床に頭をしたたか打ち付けた。ゴン、と鈍い音がして、グリムジョーに縋っていた破面の彼女が、ひ!と声を上げて固まった。グリムジョーはそれに表情ひとつ変えず、腕を伸ばし凪の長い髪を掴んで引き上げた。
「抵抗する気力もねぇのか」
低く投げられたグリムジョーの声に、凪は視線だけそちらに向けた。自分を見下ろすグリムジョーの目は声と同じように冷たい。ただその様子を眺めていた凪に、グリムジョーは舌打ちをひとつ、自身の膝で凪の腹を蹴り上げた。その衝撃に耐え切れず凪の身体はくの字に曲がる。内臓が大きく揺らされ、胃の中のもの…胃液が逆流して耐え切れず吐き出した。嘔吐したそれがグリムジョーの足元にかかるが、彼は気にする様子はなく、凪の髪をまた掴み直し、今度は壁に彼女の身体を押しつけた。背中に衝撃が走り、また口の中から何かが散ってグリムジョーの顔にかかった。彼の頬に赤い線が入ったように見えて、あぁ今自分が吐き出したものは血だったんだなと凪は思った。
虚な目で凪はグリムジョーを見つめる。グリムジョーの肌が自分の血で汚れているのが不思議な感覚で、妙にそれが綺麗に見えてしまった。と同時に先程まで自分達のそばで制止の声を上げていた破面が宮を走り去っていくのが視界の端に入る。それを待っていたかのように、グリムジョーは口を開いた。
「いいか。てめえは弱え」
怒気をはらんだ彼の声が宮の中に響く。
「この程度の攻撃も防げねえ。あの程度の虚にすら歯が立たねえ。馬鹿みてえにでかい霊圧も、速さも、強さも、今のてめえにはない」
藍染に魂魄を奪われて瀕死の状態に陥ってどれくらい経ったろうか。時間が解決してくれると思っていたが、一向に体調は回復することがなく、霊圧も元に戻る気配はなかった。
100年以上磨いてきた力がこんなにも脆く小さくなってしまったことが信じられず、身体に鞭を打ちひとり虚夜宮の外に出た。虚圏にいる適当な虚を狩って今の自分の力を測ろうとしたのだ。
しかし、以前の自分なら鬼道のみで消し去れていた虚に傷ひとつつけることができなかった。斬魄刀の声が聞こえない。始解すらしない斬魄刀を手に呆然と立ちすくみ、これが私の最期か、と目を閉じた瞬間、自分を喰らおうとしていた虚が弾け飛んだ。虚がグリムジョーの爪によって切り裂かれたのだと認識できたのは、彼がその衝撃で座り込んだ自分のもとにゆっくりと近づいてきた時だった。
彼は無言で凪を睨め付け、その瞬間凪の首を死覇装ごと掴んで飛んだ。喉が詰まって声を出せずもがいていたら、いつの間にか虚夜宮に戻っており、それを認識した瞬間グリムジョーに思い切り殴られたのだった。そこからどれくらいの時間、暴行されていたかわからない。異変に気づいた顔馴染みの破面の少女が止めに入ってきたのにも気づくことができなかった。
非情に思えるくらい、グリムジョーがその事実を言葉と力で突きつけてくる。
私の力は失われた。
あれだけ求めた強さは、今はもう小さく無力なものに萎んでしまった。
目を伏せた凪に、グリムジョーはまたひとつ大きく舌打ちをした。だがなぁ、と唸るように喉を鳴らした。
「諦めの悪いてめえはどこいったよ」
足掻け!という声を浴びせられた瞬間、ガツンとまた背中を壁に打ちつけられた。言葉の強さと同じくらいの衝撃が痛みとなって身体を駆け抜けた。
「自分から死ににいくんじゃねえ。死んでも殺りにいくのがてめえだろうがよ!」
声が大きくなるにつれ、グリムジョーの霊圧も爆発するかのように上がっていった。びりびりと肌を刺激してくるような彼のとげとげしい霊圧が何故か心地よく感じた。
死んでも殺りにいく。その彼の言葉がとても矛盾していて、相変わらず頭が悪いのね、と久々に脳内に悪態めいたものが浮かぶ。…誰かに、何かに対してこんな感情が湧いたのはいつ以来だろうか。
「…私、あんたみたいに野蛮じゃないんだけど」
久しぶりに自分の声を聞いた気がした。喉を痛めているせいか少し掠れて小さかった。しかしその声はグリムジョーに届いたようで、彼がぴくりと目を窄めた。続け様に凪は、「痛い。私をこんなに殴るなんて。絶対許さない」と呟いた。その様子にグリムジョーは、ふん、と鼻を鳴らして凪の髪から手を離した。凪はすっかり萎えた足に力が入らず膝から崩れ落ちかけた、その瞬間にまた身体が何かに支えられた感覚がした。先程まで自分を殴り続けていた彼の腕が、凪の腹から腰に回されている。グリムジョーにもたれかかるような体勢となり、先程膝蹴りをされた腹がじわっと痛んだ。
「痛い。歩けない。あんたに蹴られたお腹が一番痛い。…同じ場所に穴あけてやる」
「悪ぃなぁ、もう腹に孔空いてんだわ俺」
するすると彼に対する悪態が口からこぼれていく。力が入らないなりに何度も彼の脇腹あたりを小突いた。この感覚はとても久しぶりで、ある意味懐かしさを感じた。頭の中に、先程浴びせられた足掻け・というグリムジョーの声が響く。あれだけ地を這うように、ひたすら足掻いて生き延びてきたはずなのに、それを忘れるくらいに身体だけではない、心までも萎えてしまっていた。…ただでさえ霊圧が弱まり消えてしまいそうなのに、身体ではなく、心から先に消えてしまうところだった。
「自分から死ぬのはやめるから。…ごめん」
グリムジョーの顔は見れなかった。彼の胸に頭を預け、消えそうな声で振り絞るように、もう一度凪は、ごめん、と呟いた。
グリムジョーは空いていたもう片方の腕で凪の頭を抱え込む。二度とすんな、と吐き捨てるように言った。その声と、先程まで自分を殴り続けていた腕に支えられて、凪はゆっくり目を閉じた。次に目が覚めた時にやり返す。次があると無意識に思ってしまった自分にくすりと笑って、今度こそ凪は意識を手放した。
END
(20220121)
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