侵食
彼女とはじめて会ったのは、五番隊に入隊して10年も経っていない夏の夜だった。
自分より少し年下に見えた小柄な少女は、入室した藍染と自分を振り返ると同時にキッと茶色の瞳で睨みつけてきた。大きな目ぇして可愛らしい顔してるなぁ・と振り返った彼女を見て思ったところだったので、そのあまりにも不釣り合いな形相に、あぁ怖・とわざと大きな声を出してみれば、ギン・と隣にいた藍染が自分の名を呼んで嗜めてくる。
「ギン、彼女は凪だ。ある程度力がついたら
「霊術院には通わせんのん?」
「ああ」
わざと首を傾げ尋ねてみれば、藍染は短く肯定の意を示してくる。なぜ、と言葉を続けたわけではなかったが、本当に聞きたかったその理由をこの場で答える気はないらしい。ふぅん、と相槌を打ちながら凪に視線を移すと、凪は先程から変わらず恐ろしいほどの憎悪をその視線に乗せて藍染にぶつけていた。ここまで隠すことのない殺意(本人は必死だが、それはまだまだ威圧には程遠い可愛らしいものだったけど)をこの男にぶつけられるとは、怖いもの知らずなのか、それとも本当にそれだけの殺意をもっているのか。いや、こんな少女が抱く殺意なんてたかが知れている。圧倒的な力を前に臆さず真っ向から対峙できる子どもなんて、僕くらいやと思ってた(勿論僕はそんなものおくびにも出さないけど)。
案の定彼女はそれから何度も隠れて泣いていたし、絶対強くなってあの男を殺す、と自分を鼓舞するような強い言葉を使っていても、いつもその声は小さく涙で震えていた。
「なぁ、そんなに怖いなら帰った方がええんとちゃう?もうええやろ」
ある日修行の一環だと藍染に虚の巣に投げ込まれて身体中傷だらけでふらふらになって帰ってきた凪にそう軽く言ってみれば、彼女はボロボロと涙を流しながらまた強い言葉を使う。
「そんなことしたら、藍染を殺せないじゃない!」
あれ?と思った。その怒気はもちろんのこと、はじめて会った時よりも彼女の中にある殺意が増しているなと。藍染に、死神に向けられる憎悪が増幅し彼女の中で黒く渦巻いている。はじめて会ったとき綺麗だと思った茶色の瞳はひどく濁っていて、顔色も白を通り越して青白かった。
それからまた何年も経って、藍染は隊長に就任し凪を五番隊に入れた。正式な入隊手続きは踏んでいないと思う。そして他の隊士は凪のことをほとんど認知していない。尤も、凪は肩書きもなくただの平隊士という扱いだから名前も顔も覚えられる機会は少なかったということと、かつ、藍染が凪を「他の誰かに見えるように」していたことが最たる要因だっただろう。鏡花水月の能力も器用なもので、他の死神には凪の姿は凪ではない他の隊士に見えていたのだと思う。監視するかのように藍染は凪を傍につけていたし、凪もそれを拒む権利を与えられていないかのように言われるまま従っていた。
死覇装を纏って斬魄刀を腰に帯刀した凪の背丈は伸びて、表情も身体つきも大人のそれに近づいていた。可愛らしい、から、綺麗と形容できる姿に変わっていっていたが、それと比例するかのように彼女の中の殺意と憎悪は日に日に黒く増しているのがわかった。
多分この頃には藍染に夜の相手もさせられていたのだと思う。泣きながら暗い廊下をひとり歩く彼女を何度も見かけたし、それを藍染に言えば「君にも貸そうか?」と悪びれなく笑うだけだった。
自分の目的のために藍染に対する自分の殺意は出さないようにしていたが、さすがに凪のことは気にかかる。力をつける代わりに心身ともにぼろぼろになっていく彼女は何かに侵食されているかのごとく。誰にも認識されず、嫌いな死神たちの中で最も憎む相手と豪語する藍染の近くで力を磨き続ける凪は、本人が自覚しているかどうかは置いておいて、とにかく孤独で痛々しくみえた。
・・・
「藍染隊長は凪ちゃんをどうしたいんです?」
ある日核心に触れるようなことを彼にぶつけてみた。興味本位という素振りを装って、とうとう
「殺意と憎悪で満たされた死神の魂魄を何かに利用できないかと思ってね」
ああ、やっぱりそうか。
ギンは抜け落ちそうな表情を必死に顔に張り付けた。なんとか口角を上げたまま、えらい手間と時間かけた実験ですねェと揶揄してみる。その皮肉を藍染は受け流し、また同じ口調で言葉を続けた。
「凪の魂魄は恐ろしいほど強い。虚化の実験に使わなくて正解だった。もう少し寝かせてみることにしたよ」
いずれアレも役に立つ時が来るだろう、と藍染は呟いて筆を置いた。数年前に藍染が実行した死神の隊長格たちに対する虚化の実験。隊長格が何人もいなくなったのだ。その混乱はまだ完全に落ち着いていないが、自ら手を下して排除した上官のものだった隊長の地位を当たり前のように掠め取った彼は、壁にかかった時計を一瞥し、隊首会の時間だ、と隊長羽織を翻しながら執務室を出て行く。完全に藍染の霊圧が遠ざかり、五番隊の敷地から出たことを察してやっとギンは作っていた表情を落とした。
それは目が据わっている、決して他人の前ではしない表情。
はじめて凪に会ったあの日、小さな凪の中に芽生えていた殺意と憎悪は本当にその身体と同じくらい小さな小さなものだったと思う。ただその意志の強さと負けん気の強さが仇となって、彼女はその負の感情を藍染に掴まれてしまったのだ。
藍染に支配され、無理矢理な方法で力をつけさせられ、傷つけられ、孤独の中ひとりもがきながらその増幅させられた殺意と憎悪は凪の中でももうコントロールができないくらいになっていた。
今の凪の中にあるのは、ある意味藍染の手で作られた殺意と憎悪だ。
小さく向けられたそれを自らの手で増幅させここまで彼女をぼろぼろにしているあの男。
「何がしたいんや」
ぽつりと呟いた時、執務室の扉が開く。自分を視界に捉えたのか、ギン?と目の下に深い翳りをつくった凪がそこにいた。顔色は相変わらず悪いが、その凛とした姿はさすがというべきか。彼女の身体からは殺意と憎悪が混じった強くて隙のない霊圧が発せられていた。
「藍染隊長なら隊首会や。暫く戻ってこおへんで」
扉を後ろ手で締めながら、凪はほっとしたように息を吐く。藍染の前では常に殺気を放っているせいか、こんな風に一瞬でも気を緩めた凪を見るのは本当に久しぶりだった。しかし自分のことも藍染の仲間と思っている凪は決して油断はしていない。彼女が何故ここに来たのかはわからないが(藍染に命じられていたのかもしれない)、凪は立ち去ろうとせず近くにあった椅子に座って足を組んだ。所在のなさそうだった腕も自然と胸の前で組まれて、その素振りは強くあろうと必死で自分に言い聞かせているようにも思えてしまった。
「なあ凪ちゃん」
彼女の前まで近寄り声をかけてみれば、何?と視線を上に上げてくる。その視線は敵に対して向けられるもの(彼女にとって周りにいる者はすべて敵なのだ)。
すっと目を彼女の視線に合わせ、その形の良い顎に指をかける。まだ幼さがわずかに残り丸みがある輪郭。そこに指を這わせば、突然のことに驚いたのか凪は目を丸くし、組んでいた腕を解いてギンの手首を掴み上げた。彼女が口を開いて何か言おうとする。が、その前に割り込むように「もう帰った方がええんちゃう?…もう、ええやろ」といつか口にしたのと同じ意味の言葉を投げてみた。
凪は瞠目するも、一瞬の間の後にギンの手首を払い落として反射的に立ち上がった。その反動で椅子が大きな音を立てて後ろに倒れる。
「そんなことしたら、あの男を殺せないじゃない!」
そう叫んだ彼女の言葉はあの時の返事と変わらなかった。しかしぼろぼろと泣きながら叫んでいたあの時と違って、今日は瞳をひとつも潤ませることはなかった。言葉に、目に、霊圧に、全身から殺意と憎悪が弾き出される。
ああ、これが藍染の狙いか。負の感情で満たされた彼女を目の当たりにして彼の恐ろしい実験と暇つぶしに背筋が凍る。
他の真っ当な誰かが彼女の傍にいてくれたら、凪が負ったあの時の傷はもうとっくに癒えて、凪は普通の女の子として生きていられただろう。ただ凪の傍に現れたのはよりによって凪が憎しみを向けた存在で、その存在が凪の小さな殺意と憎悪を利用して消すことができるはずだった凪の黒い感情を深く深く彼女自身に刻み込ませている。
自分には自分の目的がある。だから凪を助けてあげることはできない。
けれど、こんな風に冷たい目をして虚無の中もがくように生きることになってしまった彼女の心を、誰か救ってあげてほしい。そんな柄にもないことを思いながら、ギンは払い落とされた手首を振ってその痛みを外へと逃した。きっと、このびりびりとした痛みは凪のえぐられるような痛みに比べれば随分と小さいものなのだろうけど。
END
(20220302)
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