悪夢


ありえない、と思った。思いたかった。
吐き気が止まらず眠れない日々が続いているのは、慣れない虚圏での生活からくるもので、もしくはいよいよあの男を殺す機会が巡ってくるかもしれないという気持ちの昂りによるものだと。そう思い込もうとしていたし、事実そう信じていた。しかしここしばらく日中も続く体調不良と、月のものが止まっていることを思い出し文字通り血の気が引いた。追い討ちのように下腹部がかすかに膨らんできている。
あぁ、間違いない。ここに、子がいる。
凪はずっと頭からかき消してきたその事実をとうとう認めざるを得ない時が来たとギュと目を閉じて大きく息を吐いた。

死神として生きて100年余り。長く生きている分、自分自身の変化には敏感な方だ。いつもと違う何かを感じ取って、冷静に観察すればすぐにわかったはず。しかし、それはあまりにも信じがたく受け入れ難いものだったので、これまで自分の中の結論を先延ばしにしてしまっていたのだ。
望んでいたわけでもなく、また、今の自分は必要としていない存在。
しかし宿ったものを無下にできる程冷酷にもなりきれなかった。ただ、問題があるのだ。

「どっちの子よ…」

額に押し付けた掌は、じわりと汗で湿っていた。

・・・

「種族が違うんだから、普通はありえないよね」

気味の悪い場所だった。コポコポと謎のフラスコから水の音がしている。何度来てもその不穏さは慣れないし、自分から足を運ぶことなどこれまで考えられなかった。しかし、すれ違い様に「いつまで気づかないふりをしているんだい?」と囁かれでもしたら、着いて行かざるをえなかった。ビーカーに液体を注ぎ顕微鏡でそれを覗き込みながら、ザエルアポロは言った。

「グリムジョーの子かと思って色々実験してみたんだけど、やっぱり不可能だからさ。そうなると死神の誰かだと思ったけど、彼らにそんな素振りないしね。心当たりは?」
「なんであんたにそんなこと言わなきゃいけないのよ」
「虚夜宮でこの事実に気付いてるのは君とおそらく僕だけだよ。悪いようにはしないさ。これも良い実験だからね」

メガネの奥で不気味にザエルアポロの眼光が光り、凪は眉を顰めた。ザエルアポロの言う通り、種族が違うグリムジョーの子だとは考えられなかった。いくら抱き合っていても、その熱を身体に受けていたとしても、死神と破面が子孫を成すなど不可能。ありえないのだ。それはこの世の理を捻じ曲げても実現しないこと。空想以外のなにものでもない。その前提のもと考えられるとしたら、あの男。この世で最も憎む存在。尸魂界にいた時には何も起こらなかったのに。虚圏に来てからも呼び出され抱かれることはあったが、嫌がらせでグリムジョーと関係を持ってからというものその頻度は格段に減った。なんならここ数ヶ月は顔すら合わせていない。なのに、何故今。自分の身に起こっていることが理解できず、悪阻とは別の意味で吐き気がした。

「僕がうまく処理しようか?」
「何勝手なこと言ってるのよ」
「じゃあ産む?そこから何が生まれてくるか知らないけど」

不要なら標本にさせてほしいな、と下衆の如く笑ったザエルアポロに舌打ちをし、凪は研究室を飛び出した。不愉快極まりない。しかし彼の言葉が頭の中でこだまし続ける。

『何が生まれてくるか知らないけど』

グリムジョーとは種族の違いで子は成せない。なら、今ここにいるのは何なのか。悪魔の子を孕んだというのか。頭を抱え、思わず虚夜宮の広い通路の端っこに蹲る。押し寄せる吐き気はどの感情からくるものか。頼れる人もいない。相談できる人もいない。自分がどうしたいのか、どうしたらいいのかすらわからなかった。いっそ世界から消えてしまいたい。ぎゅっと目を閉じたその時だった。

「随分気分が悪そうだね」

蹲る凪の背に、そっと手が置かれる。気配なく突然現れたそれに背筋がゾッと凍る。久しぶりに聞いた声。這うように髪を掻き分け頸に伸ばされた指は冷たく、その冷え冷えとした指を凪は知っていた。
しばらく顔を合わせていなかった憎き存在。凪は恐る恐る振り返る。膝をつき、凪をじっと見ている藍染は目を細め笑っていた。それはまさに冷笑。目の奥が笑っていないのはいつものことだったが、今日はそこに狂気めいたものもうかがえる。

「今は大事な時期だから、私を殺すのはもう少し後にした方が良い」

反射的に斬魄刀に手をかけた凪を藍染は静かに制止する。その言葉に凪はこの男は全てを知った上で敢えて暫く顔を合わせない状況を作っていたのかと、頭を殴られた感覚に襲われた。むしろ、今自分が置かれているこの状況は彼の計算だったのかとも思わされた。いや、あながちそれは間違いではないのかもしれない。サーっと血の気が引いていく。全てこの男の掌で転がされていた?グリムジョーと関係を持つことで藍染に意趣返しをしたどころか、それを何倍も平手打ちで返されたような。凪の心臓の鼓動が大きく鳴る。血液の流れる音までもが耳に届くように、ドクンドクンと脈打つそれは周囲の音をどんどんと遠ざけていくにも関わらず、目の前の藍染の声だけはしっかりと脳に直接流れ込んできた。

「さぁ、グリムジョーにお別れをしておいで」

ちゃんと理由も伝えて、それから私の元に自分の足で戻ってくるんだ。そう耳元で囁かれた言葉は、凪の心を壊すには十分だった。逃れられない。殺せもしない。「君は優しいから、“その子”を自分の手で殺すことはできやしないだろう?」と、嘘みたいに優しい声音で藍染は言う。頸に置かれた指は、いつの間にか凪の腹をつぅっとなぞっていた。その瞬間、自分から死ぬ選択肢さえ奪われた。ガラガラと目の前が崩れていく。息がうまく吸えなかった。はぁはぁと荒く酸素を吐くばかりで取り込むことができない。藍染はそんな凪の頭を撫でる。

「私から逃れることなど、出来やしないよ」

低く冷たいその声と凪の荒い呼吸だけが、虚夜宮の広い空間にただただ響き渡った。

END
(20220220)

if…他の作品とは別の世界軸と思いながら書いたものです。



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