月が堕ちた日
大粒の雫が降っていた。
しとしとと真っ暗な空から降り注ぐそれは、白い砂漠に落ちては吸い込まれて消えていく。触れたらきっと冷たいであろうそれに濡れないよう、崩れかけた遺跡の、かろうじて屋根の役割をしてくれている岩の下に立って、凪はじっとその様子を眺めていた。風が吹き抜けるが濡れた砂は重く湿っているのか、いつもの砂埃はひとつも舞い上がらなかった。
「寒いね」
「そうか?」
隣に立つグリムジョーの方を見ることなく、思ったことを口にしてみた。吹き抜けた風はこれまで浴びてきたものよりもずっと冷たくて、肌に触れると少し痛みが走った。同じものを浴びているはずなのにグリムジョーは同意してくれない。そっけない答えだけがすぐに返ってくる。鋼皮って寒さにも強いのね、と、他愛もない、なんてことのないやりとりを相槌混じりに繰り返す。それはいつもと同じ。これまでも何度も何度も繰り返してきた日常に違いなかった。しかし、今目の前で起こっていることは間違いなく非日常のそれ。
気候がない虚圏に、暑いも寒いもない。それなのに今はひどく空気が冷たい。ずっとずっと降り続けている雫のせいかと思うが、この雫は、雨ではない。季節のない虚圏に雨は降らない。虚圏で生きて何百年も経つが、雨が降ったことなどかつて一度もなかった。
ここ数日ずっと降り続いている、肌をぴしぴしと刺激するそれは、雨ではなく霊子の雫。
虚圏を構成する霊子が溶けているのか、霊子の雫が降り始めてからしばらく経って虚圏の大地も少しずつ崩れ始めた。崩壊は広大な虚圏の端から順番に起こっているのではない。突然砂漠に大穴が空いてどこかに落ちて消えてしまった大虚や破面を何度も目にしてきた。それは何の前触れもなく訪れる、下から突き上げられるようなひどい衝撃と共に。
崩壊する大地。
零れ落ちる霊子。
世界が、虚圏が終わろうとしている。
ずっと昔、滅却師との戦いで三界が崩壊しかけたこともあったが、あの時は自分たちもそれを止める一助を担った。しかし今回は何が起こったのかわからない。強大な敵が現れたのか、自然の摂理なのか。そのきっかけは誰にもわからなかった。ただもう自分達だけで何とかできる範疇は超えていると悟るくらいには、世界の終わりがすぐそこまできているのがわかった。
「…!」
突如凪の足元の石が音もなく砕ける。咄嗟のことに声も出ないままバランスを崩して前のめりになった凪の腹に、グリムジョーが腕を回して引き寄せた。
「ぼやっとすんな」
少し呆れたようなグリムジョーの声に、凪は素直にありがとうと答える。腹に回されたグリムジョーの腕に触れながら、先程まで自分が立っていた場所が少しずつ崩れて砂に還っていくのを見て、凪はひとつ息を吐き出すように呟いた。
「世界ってこんな風に終わるのね」
虚圏に満ちていた霊子がどんどん薄くなっている気がする。零れ落ちた霊子は、崩れ落ちた大地はどこに還るのか。
「黒腔、開いてやろうか?」
頭上から振ってきたグリムジョーの低い声に、凪は思わず首を後ろに反りながら彼の顔を眺めた。いつものように眉間に皺を寄せたまま、半眼のグリムジョーは彼にしては静かに言葉を続ける。
「現世か尸魂界は無事かもしれねえ」
「…一緒に逃げるの?」
「てめえだけでいけ。俺の住処は虚圏だけだ」「それなら私もそうよ」
彼らしくない提案を一蹴し、グリムジョーの腕を胸に抱き込んだ。何百年もふたりで生きてきたのだ。グリムジョーと出会って、一緒に生きてきた。ここ、虚圏で。今更尸魂界に戻るつもりも現世でむざむざ生き延びるつもりも毛頭ない。虚圏が滅びるならそれを阻止する。それができないなら、一緒に果てるだけだ。
「お前だけでも生きててほしい・なんて柄にもないこと、絶対言わないでね」
グリムジョーの腕をとって、その大きな掌を頬に寄せる。低い体温の中に確かに感じる仄かなぬくもり。ああ、この体温がそばにあることがいつの間にか当たり前になっていた。
「私はもう十分生きた。楽しかったわよ、あんたとふたりでここで生きられて」
グリムジョーはどうだった?
再び彼を見上げて、今度は目を細めて問うてみる(笑えているだろうか)。
ガラガラと周辺の岩場が崩れる音が響く。ちゃんと彼の耳にこの声は届いただろうか。それくらい大地が崩れる音は大きく耳を劈くように轟いでいた。
グリムジョーの表情は変わらない。何を考えているのか、少し不満そうな、面白くなさそうな顔のまま。はじめて会った時からその端正な容姿は変わらない。好戦的で、本能のままに生きる姿勢も変わらなかった。
私は彼から見て何か変わっただろうか。変わるなら、良い方に変わっていたのならいいのだけれど。
ふ、とグリムジョーが片方の口角を吊り上げる。そして鋭い眼光を光らせて、凪の頬に置かれていた自身の掌に力を入れた。凪の肩を掴んでその身体を自分の方に向き直させてから、凪のもう片方の頬に、今度は自分の意思で手を添える。両の頬を包むようにしてその顔を自分の方に向ける。
「悪くなかったぜ、てめえと生きた時間は」
掌で包み込まれた頬があつい。
いつになく真剣なその目に、言葉に嘘はなかった。それならよかった、と彼の腰に手を回す。引き締まった彼の身体には何度も触れて、何度も重なり合ってきた。愛なんて陳腐な言葉で表現できるような関係じゃない。本能に従って、これまで隣に居続けた。死神と破面。本来交わり合うことなんて到底考えられない、相反する存在の自分達。世界から見たら途方もなく異端なことだっただろう。それでもここまで共に生きてきた。自分達の意思で、ふたりで生きてきた。ああ、なんて素晴らしいことなのだろう。
「凪」
彼に名前を呼ばれ、なに?と首を傾げる。彼の手はいつの間にか頬から離れていて。それに気づいた時、ふわりと身体が浮いた。腰をしっかり抱き上げられ、目線がグリムジョーと同じ高さになった。こつんと額同士がぶつかって、目を何度か瞬かせる。至近距離にも関わらず、じっと凪を見ていたグリムジョーが、ふん、と鼻を鳴らしたかと思うと、今度は勝ち誇ったようににやりと笑った。
「地獄でもよろしくな」
瞬間、鼓膜が破れそうになるくらいの轟音が響き、同時に今まで立っていた足元が一気に崩れ落ちた。これまでの比ではない規模の崩落だ。一瞬の浮遊感の後、今度はなにか強い力に引っ張られるかのように下へ下へと落ちていく感覚に包まれた。
身体で風を切って落ちていく中、反射的にグリムジョーの首に抱きついて、ぎゅっと目を閉じる。世界が終わる、その最期に見たものが愛した男の顔になるなんて。…案外、それも悪くない。
轟音が鳴り止まない。どこに落ちていくのかもわからない。一秒後にはもうこの世界から消えているもしれない。それなら、早く。聞こえるかわからないけれど、落下の重力に逆らって少し身体を持ち上げて、彼の耳元に唇を寄せる。そしてあえて、小さく小さく呟いた。
「地獄ではぐれないように、ずっと抱きしめていてね」
言い終わるのが先か、言葉が切れるのが先か。さらに落ちていく速度が上がって、もう口を開くどころか、身動きひとつとるのも難しくなってしまった。
彼も同じ状態なのだろう。返事はない。
代わりに、背に回された腕の力が一瞬強く込められた気がした。
それが、最期に感じた総てだった。
END
(20220516)
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