私を離さないで
肺が広がり他の内臓を圧迫するくらい大きく息を吸い込んだ。血液に酸素を取り込むように、空中の霊子を身体に溶け込ませる。そして澱んだ空気を細く長く吐き出す。脳内でそんなイメージをしながら、凪はまた大きく呼吸を繰り返した。
虚夜宮の天井が崩れたそこは、仰向けに寝ていると真っ黒な空が無条件に視界に飛び込んでくる。視界の端には欠けた月が浮かんでいた。
今自分がいるのはかつてのグリムジョーの宮。そこの奇跡的に無事だった寝台の上に寝かされている(若干シーツは汚れていたしじゃりじゃりしてるけれど、冷たい床の上でないだけまし)。ここで眠るのは久しぶりだし、まずもってグリムジョーの宮にいるのもいつ以来だろうか。グリムジョー自身でさえ大戦前から凪の宮で過ごしていたためしばらく出入りしていなかったであろうこの場所。なぜあえてここなのか、と一度目が覚めた時にグリムジョーに聞いてみれば、「部屋の中より外にいた方が霊子の回復早そうだろ」とよくわからない理屈を主張された。
なんとなく、新鮮な霊子を浴びれるようにという彼なりの気遣いだと想像はついたが、霊子が満ち溢れている虚圏にいれば、別に室内でも屋外でもそれは大差ない気がする。しかしひとりで動く体力も気力もなく、下手に動くと回復が遅れてしまいそうなのでしばらくこの場所で寝たきりの生活を送っているのが自分の現状だった。
空に投げていた視線を巡らせれば、天井だけではなく壁も崩れかけているのがわかる。瓦礫が室内の端に寄せられていて、部屋を片付けようとした形跡が見られるが誰がやってくれたのか(グリムジョーはそういうタイプではないので別の誰かだろう)。
藍染に魂魄を奪われ霊力の大半を失ってからもう随分時間が経った気がする。実際は眠っていた時間の方が長かったので、体感よりももっと時間は過ぎているのだろう(季節のない虚圏では月日の流れを感じにくい)。
身体が消える一歩手前で全身の傷は織姫に治してもらえたが、事象の拒絶は霊圧を元に戻すことはできない。また、傷ついた鎖結と魄睡は崩れやすいのか、霊力もほんの少しずつしか回復せず、正直いつ何かの弾みで霊子が尽きて身体が消えてしまってもおかしくない状態が続いていた。
虚圏の濃い霊子のおかげでなんとかなっているが、意識して霊子を取り込まないとなかなか危険な状態が続いているのは本能でわかっていた。特に、一度ひびが入り砕けかけた身体の末端…指先や足先は特に脆い。消える時は心臓から一番遠い場所から順番に散りと化してしまうのやもしれない。
何度目かの深呼吸をしてそれを止める。深く息を吸うのさえ疲労を感じてしまい、休み休みじゃないと行えない。ただ生きるために息をするのでさえ体力を消費する。こんなので生き永らえることはできるのか。元に戻れるのかという不安は拭えない。
「何やってんだろ」
声を出すのも億劫なのに、思わず独りごちてしまった。
今の私は現世に現れる、人間の魂魄を喰らうような弱い虚にすら太刀打ちできないだろう。きっと襲われたらなす術なく喰われるだけ。
喰われる前にいっそ相打ち覚悟で一矢報いるか?
そんなことばかり考えながら目を閉じる。
目を閉じると否応なく浮かぶのは、口角を上げ不敵に笑ったあの男の姿。
『うまく私を利用してきたとでも思っていたのだろう?私がいなくなった今、私に生かされていたお前に存在価値などない』
椅子に拘束され片目を眼帯で覆っている見慣れぬ姿。それが、今の彼の姿なのだろうか。
何度も何度も頭に直接響き、語りかけてくるその呪いめいたもの。実際化け物みたいな存在だった。倒された後もこうやって念染みたものを飛ばすことくらい容易いのか。それとも、これは私自身がみせている深層心理…植え付けられた恐怖が具現化したものなのか。
うるさい、黙れ。脳内で藍染に言い放てば、幻影の彼は片方の口角を引き上げる。
『弱いまま生きていてなんの意味がある?』
嘲笑めいたこれは、ずきりと胸を大きく抉った。
本当に藍染の念なのか。私自身の声なのではないか。しかしそのどちらでももう関係はなく、弱いまま生きているという事実を、生かされているという事実を自覚してしまった瞬間、穏やかにと努めていた心臓が早鐘を打って鳴り始めた。同時に呼吸が荒くなる。吸っているようで吸えない、吐いているようで吐けていないような苦しい呼吸が続き、思わず身体を跳ね上げた時、ぴし、と、何かが欠ける音がした。
瞬間時間が止まったかのように世界が暗くなり、恐る恐るその音がした方に顔を向けた。上半身を無理やり起こしたせいなのか、その時手をついたからなのか、指先にヒビが入っていた。
ああ、これは。
心臓から遠い場所がひび割れ始める。あの時と同じ。そしてそのひびは少しずつ広がりを見せていた。ひゅっと喉の奥が鳴って、呼吸が止まる。じっとひびが広がり続ける指先を見つめたまま何もできずただ呆然としていた。ああ、消える。消えてしまう。霊圧が消えて私も消える。魂魄が消える。ひとり、消える。…まだ、消えたくないのに。
口がわなわなと震えてそれが全身に伝わり、さらにひびが入るスピードが上がった気がした。でも身体の震えは止まらない。もうおしまいなの?一点を見つめすぎて視力が失われたその時だった。
「息しろ」
真っ暗になった世界の中心で、その声は響き渡った。実際の声は低く落ち着いたものだったが、色が失われた世界の中ではとても大きく聞こえて。それが合図だったかのように、ひゅうと喉の奥が鳴った。忙しなかった呼吸音が少しゆっくりに変わっていって、代わりに冷や汗がぶわっと噴き出した。
「勝手に消えんなよ」
不満と少しの焦りをその声音に乗せたグリムジョーがすぐそこにいることは、霊圧で察知できた。視力は失われたまま。その中で、彼の手がそっと後頭部に回される。そしていつもよりずっと優しく唇を重ねられた。こんなときになに?と思わなかったわけではない。しかし、ゆっくり重ねられた唇の隙間から彼の舌が侵入してきて、自分のそれと絡めて愛撫するかのように優しく絡め取られる。そのとき、身体の中に何かが流れてくる感覚がした。これは、霊力?
口移しで何かを与えるというシチュエーションは見たことあるしありきたりなもの。けれど、霊力をこんな風に渡せるなんて聞いたことなかったしできるなんて発想はなかった。破面特有の技なのか?なんにせよ、舌を絡ませながら送り込まれるその力に、冷えた身体はぬくもりと、視力は明るさを取り戻させてくれた。もうひびも癒えたのだろう。そっと指先をグリムジョーが触れる。そこにちゃんと指があるのを確かめるように指も絡ませて。
後頭部をずっと抑えられているので離れ方がわからないし、いつまで口付けをしているのだろうと思ってしまったくらい、長い時間そうしていた。ようやく唇が離れたとき、身体のひびは元に戻り、呼吸も正常になっていたのだった。
「…驚いた。あんた、そんなことできたの?」
「やってみたらできた。肝冷やさせんな」
額同士をぶつけられ、じっと目の奥を覗き込まれる。生きてるな、とグリムジョー自身が自分に言い聞かすように低く唸った。生きてる、と凪は答える。この男の傍にいたい、消えたくない。ここまで強く思えたのは初めてかもしれない。この感情は恋なのか、執着なのか。
「勝手に消えたら殺すぞ」
物騒な言葉を浴びせられ、凪は虚を突かれつつ小さく笑った。その首に腕を回してキスをねだる。私を消させないでね、と言い添えることは忘れなかった。
END
(20220923)
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