軍靴の音


虚圏は夜の世界だ。月明かりが皓々と白い砂を照らす以外光はない。風が吹くたびに砂が舞い上がるが、石英でできた白い木は揺れもしなかった。
しかし見慣れたはずのその世界はそこだけ一変していた。崩れた石英の木々と建物。建物や岩の隙間からは月明かり以外の、青い炎が見え隠れしていた。朽ちた遺跡のひび割れた壁岩も本来なら虚圏特有の白一色のはずだった。しかしそこは赤い染みで上書きされているかのように変色していて。染み、なんてかわいいものではない。ペンキを一面にぶちまけたかのような大量のそれ。鉄の臭いは戦いの最中何度も鼻腔に届くもの。
凪は赤く血塗られた壁を前に呆然と立ち尽くした。消えた霊圧の主の姿は見当たらない。壁に指を這わせれば、まだ乾いていないそれが凪の指を赤く汚した。

「ハリベル…」

突如虚圏に現れた正体不明な霊圧の大群。それは安易に駆けつけて戦いを挑むには危険が大きすぎるもので、本能的に身を隠したのは自分だけではないだろう。戦いを好むグリムジョーですらあえてこの場に駆けつけるような真似はしなかった。すぐそばにいたらどういう行動をしたかはわからないが、たまたま虚圏の端へ行っていたときにそれはハリベルを襲撃した。トレス・ベスティアもハリベルから離れ留守にしていた時だったようで、ずっと遠くから駆けつけてくる気配がしている。

「グリムジョー、探査回路でハリベルの居場所わかる?」

ポケットに手を突っ込んだまま周りを観察していたグリムジョーに問えば、彼はとっくにやってる、と不機嫌そうに答えた。そして、残滓はあるけどな、と眉を顰めてみせた。

「死んだ気配はしねえ。生きたまま連れ去られたか。残ってる敵の霊圧も相当やべえな」

周辺の建物や遺跡は破壊され尽くされており、転がる破面の死体が青い炎で覆われ燃えていた。あのハリベルがこの血の跡を見る限り致命傷を負わされて連れ去られたのだ。グリムジョーの言う通りこの場に残っている正体不明の霊圧の持ち主の実力は相当なものであることは間違いない。その中でも一際大きくて恐ろしい霊圧は、凪の心臓を震わすには十分だった。
何が起こっているのかわからないことほどの恐怖はない。

「チッ。きなくせえ」

舌打ちとともにグリムジョーは転がる千切れた腕を蹴り上げた。腕の主はもう燃えてしまったのか。よくないことが起こっている。束の間の平穏が途切れたことが今まさに知らしめされている。
岩壁から離れてそっとグリムジョーの隣に立つ。きゅっと自然と唇に力が入った。まだ力は戻りきっていない。そんな中自分はこんな得体の知れない敵と戦えるのか。そもそもこのまま戦いになるのか。目的は?なんのために?…自分が戦わないという選択をしても、この男は間違いなく戦うだろう。それがグリムジョーという男の本能なのだから。

「ねえ、いざって時は私を捨て置いていいからね」

彼の服の裾を握って、見上げながら言った。この先おそらくひどい戦いが起こる。そうなると力が戻りきっていない自分は足手纏いになる。出会った頃ならこんなことわざわざ言わなくてもグリムジョーは自分が戦いを楽しめればそれでよかっただろう。置いていく置いていかないなんて論外だ。けれど、今は違う。グリムジョーは凪という存在を捨て置けるはずがない。それだけ互いにとって隣にいることは当たり前で、どちらかが倒れれば庇いながら戦うのは目に見えていた。たとえそれが凪にとって不本意なことだとしても。

「死にかけた私を庇って代わりにあんたが死ぬなんて、そんな物騒なことはやめてね」

そんなことになるくらいから、潔く死ぬ。もしくは、最後まで自分で抵抗する。

約束よ、と凪はグリムジョーをまっすぐ見つめた。黙って凪の言葉を聞いていたグリムジョーは不機嫌そうに凪を見下ろして、不意にその小さな顎を掴んで顔を自分の方へと近づけた。なんの前触れもないままに触れるだけのキスをされて、突然のことに驚いた表情をした凪に、グリムジョーはなんでもないように言い放ったのだった。

「いざって時なんてこねえよ」

何が相手でもぶっ壊すだけだ。そう言って指の骨を鳴らしたグリムジョーからは未知の敵に対しての動揺も何も感じられなかった。平常通り。戦いを楽しむ野生の本能。凪はそんな彼の様子に小さく笑って、私も簡単にやられないけどね、と付け加えた。

END
(20221021)



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