旅路の果て


私が死ぬときはあんたに殺されるとき。
そんな馬鹿げたこと、本気で思うはずなかったのに。思っていなかったはずなのに。
とても癪だけれども、今はそれを心から求め続けているの。


息も絶え絶え、とは今の自分を指すのだろうと、凪は冷静に思った。這うようにある場所を目指して砂漠に足を踏み入れる。戦場の後と化したそこは、辺り一面の岩は砕かれ、至るところに血痕が散っていた。大量の血を吸ったのか、随所にどす黒く変色した砂のかたまりが見える。この場所では激しく戦いが繰り広げられたらしい。ゆっくりと周りを見渡すが、何かが動く気配はない。もうこの場から立ち去ってしまったのか、別の戦場に向かったのか。色濃く残る霊圧は、尸魂界時代に否応なく感じていた死神のものだった。しかし霊圧を放つ死神たちはもう近くにはいない。ただそこに残った霊圧に邪魔をされ、自分が探しているものの位置をうまく捉えることができなかった。普段ならば造作もないことなのに。息が上がる間もなく瞬歩で辿り着けるのに。凪は思い通りにいかないこの状況と自分自身への苛立ちから反射的に舌を打ち、気配と目視で探すしかない・と半ば諦めの胸中で息を吐き出した。少し視線を遠くにやると、人型の何かが倒れているようにみえる。そこから霊圧は感じない。足を引きずりながらなんとかそこに辿り着くと、ノイトラが大きな刀傷を受け、仰向けに倒れていた。息はもうない。彼の傷口からは、より濃く、ざらりとした霊圧を感じた。あぁ、やっぱり更木隊長か、と凪は息をついた。

藍染たちは残った十刃を連れて、空座町へ侵攻した。彼は凪の魂魄のほとんどを奪い、虚圏から消えた。
いつか彼の寝首を掻こうと、いつかこの手で殺してやると誓い、屈辱に耐えながらも利用し、利用され、こんな世界にまで自分は着いてきた。それなのに、結果はこの様だ。
王鍵を創生するために必要な10万の魂魄。その中でも核となり得る魂魄を育てるために君を傍に置いていた。そう彼はそう言って、凪の魂魄の半分以上…そのほとんどを抜き取った。死神になる前は崩玉のために魂魄を削られ、藍染を殺そうと死神になった今もまた、崩玉とは別、王鍵のために自分は利用されたに過ぎなかった。
もちろん凪自身簡単に魂魄を抜かれたわけではない。ただ、その実力差はどんなに鍛錬を積もうと埋められないものだったのだと思い知らされた。絶望の中、息も絶え絶えに歩き彷徨う。頰がひび割れ、肌が欠ける気配がした。斬魄刀を杖代わりにして、砂丘を登る。自分の存在を保つ魂魄のほとんどを奪われたのだ。霊圧も底をついている。この状態で動けていることが不思議なくらいで。
それでも残り僅かな命を削りながら彷徨う理由は、凪自身の中に明確に存在していた。

がらにもなく、死ぬかもしれないと思った。そしてどうせ死ぬのなら、独りで野垂れ死ぬという選択肢はなかった。約束したのだ、あいつに殺してもらうと。そしてあいつが独りで死のうとしているのなら、自分が殺すと。
いつもよりも断然細く弱々しい、かすかな彼の霊圧を探り、ここまで辿り着いた。霊圧を感じられるのだから、まだ死んではいないはず。ケホ、という咳とともにヒュウヒュウと肺の奥で嫌な音が鳴った。喉の奥から口内に血が逆流してくる。身体の中、臓器も崩れかけているのかもしれない。
目の前が暗い。白と黒の世界がチカチカする。視界が霞む。視力が失われてきている。登り切った砂丘の頂上で目を凝らした。もうひとつも砂丘は越えられないだろう。これが最後かもしれない。そう思った時、目に飛び込んできたのは、アマゾナイトを思わせる水色。白と黒の世界の中ではっきりとそれが見えた。

「いた…」

呟くと同時に凪は倒れ込み、砂の坂を転がるように落ちた。袖や胸元から死覇装の中に砂が入り込み、ざらざらと嫌な感覚が肌を伝う。砂埃に咳き込み、口元から血が垂れた。ゆっくりと目を開けると、すぐ先に彼はいた。立ち上がる気力はもうない。腕の力のみで、這ってそばに寄る(斬魄刀は無意識に捨てていた)。徐々に彼の姿をはっきりと捉えることができた。そして感じる小さな霊圧。大丈夫、生きている。しかしそれは彼も自分と同じ。かろうじて、と形容できる状態で。彼の場合は体にいくつもの痛々しい傷があり、古い血が黒くその肌にこべりついている。傷口からは鮮血がのぞいていた。

「グリムジョー…。ねぇ、起きて」

どれだけ時間が経ったのだろうか。いつの間にか凪の手はグリムジョーの身体に触れていた。低い体温。それはいつものことだけれど、こんなに冷たいのははじめてかもしれない。それよりも自分の指先にももう血は通っていないようで、お互いの温もりを分け合うことすらできなかった。
こんなに自分の声は小さかっただろうか。もしくは必死に鼓動を打つ心臓の音でかき消されているのか。
動かない彼の頬に指先を伸ばし、触れる。そして引っ掻くように爪を立てた。するとその僅かな感触に反応したのか、小さな呻き声と共に、固く閉ざされていた彼の瞼が開いた。髪よりももっと綺麗な、アマゾナイトの色をした瞳が宙を彷徨い、ややあってそれが凪を捉えた。

「…よォ」

絞り出すような、掠れた声だった。凪は心なしか安堵にも似た感情が胸に満ちるのを感じた。それはとてもとても癪だったけれども。自分が彼の声を求めていた、そのことを突きつけられた気分になった。しかし今はそれも悪いものではないと思える。

「随分ぼろぼろじゃない…死ぬの?」
「死なねえよ。それよりてめえの方が断然死にそうじゃねえか」

彼の言葉に対し、凪は小さく笑った。それは自嘲にも似たもので。凪はグリムジョーの姿を見失わないよう、重力に逆らって目を開き続けた。瞬きひとつしてしまえば、もう二度と瞼は開かなくなるという確信があった。遅かれ早かれそうなると思う。だからそれまでは、彼の姿を見続けていたい。少しでも長く、彼の存在を確かめていたい。こんな感情を自分が覚えることになるなんて、つゆ程にも考えたことなかったのに。確かにそう思ってしまっている自分がいる。死神でも死期が近いと素直になるのだろうか。

「藍染に魂魄をほとんど奪われたから…もう消えると思う」

ごめんね、あんたを殺す力ももう残ってない。
立てた爪を彼の頬に食い込ませようとするが、そんな僅かな力すらもう残っていなかった。せめて傷ひとつつけて逝ければ、と思ったが、それも叶わないらしい。
凪はグリムジョーに擦り寄り、その胸に顔を寄せた。すごく癪だけど、独りで死んでも良いと思っていたけど、今はこんな奴でもそばにいてほしい。殺してくれないのなら、少しでも長くそばに。そう願ってしまうのは、私が弱くなってしまったからなのだろう。とてもくやしいけど、それならそうで仕方がない。

「…死ぬのか?」

グリムジョーが小さく問いかけてくる。首をもたげ彼の顔を覗き込む。その目はじっと凪を見つめていた。凪は目を細くして微笑んだ。と同時に堪えていた瞼の重みに逆らえなくなり、視界からグリムジョーが消える。ああ、目を閉じてしまった。もう声を出す力すら、瞼を上げる力すら、残っていない。
早鐘を打っていた鼓動も次第にゆっくりとしたものに変わっていく。心臓ももう、生きることをやめようとしているのだと、凪は悟った。残った五感は、聴覚と触覚だけ。グリムジョーの息遣いと、彼の鼓動が伝わってくる。おかしいな、さっきまで小さかった彼の鼓動の方が、断然力強く、早くなっているように思える。あぁ、彼が回復するまで生きながらえたら、彼に殺してもらえるのに。不意に頭に何かが触れる感触がした。骨張ったそれがグリムジョーの掌だと理解するには、時間はいらなかった。何度も何度もその手に身体を預けてきたのだ。間違えるはずなどない。

「俺が殺すまで、死ぬなって言ったろ」

耳鳴りの奥で彼の声が聞こえた。あぁ、早く殺して。私はあんたを殺せなかったけど、あんたは私を殺して、約束を守って。約束を守れなかったのは、私だけでいいから。放っておいても死ぬのだ、首を刎ねるだけでいい。手が動くなら、その爪で引き裂いて。
そう願った瞬間、凪の意識はプツリと途絶えた。「まだ死なせねえ」そんな声が最期に聞こえた、気がした。

・・・

眩しさを感じて目を開く。虚圏の暗い空の下ではなく、青い空の下に自分がいることがわかった。霊子になって消えるだけだと思っていたのに、人間のいう天国や地獄という場所に霊子も辿り着くのだろうか。そんなことを思いながら、ぼやける視界をこらし、目の動きだけで周囲を見渡した。
この場所を、彼女は知っていた。
横たわっているのは、無機質な石の床で、見上げているのは虚夜宮の天井に作られた人工的な空だった。
身体が重い。重いけれども、命の危機に瀕していた時のそれではなかった。魂魄がほとんど戻っている。それを本能的に感じ、あり得ない・と独りごちた。

「…なんで生きてるの?」

声が大気を震わす。自分が生きていることを自分の声で確認した。身体はまだ動かない。しかし、声を発せる、その声が聞こえる、目が見える、肌寒さを感じる、口内に広がる血の味を感じる。五感が確かに戻っていた。どうして生きているのか考える時間も与えられないまま、何かの影が自分を覆った。

「お互いくたばり損ねたな」

頭上から、乱暴な、しかし聞き慣れた声が降ってくる。凪の身体を跨いで、凪の顔を覗き込むようにしている彼の表情は、逆光でよく見えない。ああ、彼はもう動けるのか。目を細めながら彼の姿を観察する。表情はしっかりうかがえないけれども、グリムジョーの身体についていた傷は消えていることがわかった。そこに鬼道の気配は感じない。であれば、あの人間の、事象の拒絶か。そう思い至るが、何故彼女が自分達を助けたのかはわからない。しかしどういった経緯か、自分達はこの世界で生きながらえてしまったらしい。

「…今なら私のこと殺せるでしょう?早く殺って」
「死にかけの女殺すのは趣味じゃねえ」

グリムジョーは屈んで凪との距離を詰めた。ああ、彼の顔がよく見える。いつものように眉間に皺を寄せ、不機嫌そうにしているわ。
グリムジョーはゆっくりと膝を突き、凪の顔の両側に自分の腕を置いた。ぐっと彼の顔が凪の顔前に近づく。ああ、近い。もう少しで額が触れ合いそうなくらい、肌の熱を、息遣いを感じられるくらい、近い。同様に彼にも凪の体温と息が届いているだろう。

「藍染の野郎に九割殺されてたてめえに留めを刺すのは虫唾が走る」

そう吐き捨てるようにグリムジョーは言った。凪は少しだけ目を瞠って、そして小さく笑う。確かにその通りだわ。私もそれは不本意。

「じゃあ私が元気になったら、先にあんたを殺してあげるわね」
「そうしろ」

ぶっきらぼうに投げかけられた応答に、凪はまた笑った。今世界がどうなっているかはわからない。藍染が王鍵を創生し目的を達成してしまったのか、情報を得る術はない。しかしどこか、あれほど執着していた藍染への憎しみと怒りは、彼に奪われた魂魄とともにどこかに去ってしまったのか今彼女の中にはなかった。今はただ、生きている、そのことだけを噛み締め、自分の頬に触れるグリムジョーの指にそっと手を添えた。
温かい。生きていることを、今一度実感した。

END
(20211205)



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