吐く息を海に流して
その日のことは一生忘れることなどできない。
全部私のせいだと何度も何度も責めて後悔した。けれど後悔したところで何も元に戻らない。
辛くて悔しくて悲しくて寂しくてどうしようもなくて。同じ思いを抱えた彼は私の上で苦しそうな顔をしていて、額に汗を滲ませて、ふたりして泣きながら抱き合ったあの日。あれは、私たちを生かす上で必要なことだった。それだけは、今も決して後悔していない。
・・・
「なんてことない二級呪霊の討伐だよ?楓いなくても大丈夫だって!」
「夏風邪でしょう。大人しく寝ててください」
寮の部屋に揃ってやってきた同期ふたりは交互にそう言って、起きあがろうとする私を制した。高専の寮は異性の部屋に入ることを禁止している。だが、先輩含めそのあたりの規則はもうあってないようなものになっていて、入学初めこそ自分たち三人もそれぞれの部屋に入ることに遠慮していたが、なんだかんだ一緒に過ごす時間も多いし気付けば家族のような関係性になっていたので、出会って一年以上経った今では三人とも遠慮なく各自の部屋を行ったり来たりしている。
そんなわけで任務出発前に体調不良で寝込んでしまった私のところにやってきた灰原と七海は、行ってきますの挨拶とお大事にを言いに来てくれた。今日は結構遠出の任務で、三人揃って担当することになっていた二級呪霊の討伐案件。もともと任務自体なんてことない二級案件だし、三人もいらないだろうと言うことで私は体調のこともあり留守番することになった。多分一日眠れば良くなるレベルの夏風邪だ。ごめんね、と二人に謝れば、灰原に額の冷えピタをピッと貼り替えられた。妹がいるだけあってこういうところでしっかりお兄ちゃんムーブをかましてくるのが灰原という男だ。人懐っこいにぱっとした笑顔で、「大丈夫!僕らが帰ってくる頃には良くなってるよ!」と言ってくる。その少し後ろに控えていた七海は、「冷蔵庫にポカリの予備2本入れときましたよ。お粥も食べれそうなら食べてください」と言いながら冷蔵庫に入れてくれたのとは別の常温のポカリをベッドサイドのテーブルに置いた。至れり尽くせりだ。お土産何がいい?夏油さんからは甘いものって言われてるんだけど、と灰原が続けるから、先輩達に分けてもらうから大丈夫だよ、とだけ告げた。
じゃあまたね、と部屋から手を振って出て行ったふたり。任務に出かけるふたりを見送ることなんて日常茶飯事で。疲れたーと大声を出しながら帰ってくる灰原とため息をつく七海を迎えるのも当たり前のことで。だから今日この日ふたりが、ふたりともが生きて帰ってこないだなんて、この時は夢にも思っていなかったのだ。
目が醒めた時、もう外は暗かった。丸一日眠っていたようで、ベッドから身体を起こして背伸びをする。パキポキと体の節々が鳴るが、あの風邪独特のだる重いものは消えていて、七海が置いていってくれたポカリを一気に半分飲んだ。ペラリと厚みがなくなった冷えピタが枕の隣に落ちている。時計を確認すればもう夜の21時を回っていた。七海と灰原、もう帰ってきたかな・なんて思いながら顔を洗いに行く。歩いてみても体幹がブレることもなく、すっかり元気だ。本当に一時的な風邪だったんだなと思うと、無理してでも一緒に任務に行けば良かったかなと思わなくもないが、睡眠をしっかり摂れたことで回復できたのだから、休ませてくれたふたりには感謝しかない。
顔を洗ってパジャマから部屋着に着替える。どうせまた寝る時に着替えるけれど、丸一日着ていたパジャマをもう一晩着込むのには少し抵抗があった。七海たち帰ってきてるか談話室覗いてみようかな、と元気になったことの報告がてら部屋から出ようとした時だった。
コンコン、とノックの音。はい、と返事をすれば、起きてる?といつもの気だるげな硝子先輩の声がした。
「先輩!どうかされたんですか?」
「起き上がれるようになったんだね。体調はどう?」
「もう大丈夫です」
硝子先輩にもらった風邪薬が効いたんだと思います!と告げれば、彼女は、それならよかった・とアンニュイな薄い笑みを浮かべた。…そこから私はほんの少しの違和感を感じ取ったが、それがなんの違和感なのか気付いたのは、彼女が次の瞬間発した言葉の後だった。
「灰原が死んだ」
ああ、いつも隈ができている目元が少し赤いんだ、と思ったのと同時に、その言葉が全身に染みこんできた。なんて?と思わず敬語も忘れて聞き返せば、硝子先輩は再び全く同じことを言った。灰原が死んだと。嘘だぁと思わず声が出るが、彼女は首を横に振る。いつもどんなにふざけていようとも、誰かが死んだなんて悪い冗談を言うことは決してないのが先輩たちだ。だって、この世界では誰かが急に亡くなることは日常茶飯事。冗談でも言ってはいけないとみんなわかっていたから。それなのに、私は同期や先輩が急にいなくなる可能性をすっかり忘れていたし、その可能性なんて今後も訪れることはないと信じて疑ってなかった。それくらい全員が毎日いることが当たり前になっていたのだ。
がくがくと足が震えてくる。それを見とめて硝子先輩は、私の肩に軽く触れて、「寝ろって言っても無理だろうから、私と一緒にいるか?」と聞いてくれる。それに答える前に、私は問うた。
「灰原に会わせてもらうことはできないんですか?」
「今は夏油と七海が一緒にいるけど、お前は会うのやめとけ」
その言葉から、普通の状態で灰原は帰ってきていないんだなと悟る。何度も現場で見てきたではないか。身体の一部が欠損してしまった人を反転術式で必死に治したってそれが叶わないこともあった。ましてや救助しに行った先で一般人が呪霊に潰されて内臓だけ残されていたり、首だけになってしまっていたことだってあった。そんな現場をたくさん見てきたからこそ、硝子先輩の会うのはやめろという言葉が効いてくる。しかしそれと同時に思うことは、私が予定通り任務に同行していたら、灰原は死ななくて良かったんじゃないか、と言うこと。怪我をした瞬間に私が反転術式で治すか、一緒に飛べば助かったのでは。さぁっと血の気が引いていくのを感じた時、はたと硝子先輩が口にしたもう一人の同期の存在が頭をよぎる。七海が今一緒に灰原といる。一体、どんな思いをして。
気がついたら私は硝子先輩の静止も聞かずに高専の霊安室に向かっていた。丸一日寝ていたから身体が全速力で走れるほど回復していないのに、肺がおかしくなりそうになるくらい全力で走った。冷静になれば七海の元に術式で飛べばよかったのに。呪術師のくせに、そんなことすら考えにも及ばなかったのだ。
重たい扉を開けば、冷たい空気が肌を撫で付けてきた。Tシャツとハーフパンツという、思いっきり腕と足を露出した格好でここにくるには寒すぎたかもしれない。それでも一度戻って着替えようとか、そんな気は一切湧かなかった。まっすぐ足を踏み出せば、まず目に飛び込んできたのは無造作に転がった丸椅子。倒されたまま誰にも元に戻してもらえなかったそれのすぐそばの台に、白い布を掛けられて横たわっている存在がそこにはあった。そこから呪力は感じないけれど、ああ、灰原なんだなと直感でわかってしまった。重い足をゆっくり踏み締めるように前へ前へと進めていた時。視界の左端が捉えたのは黒い制服の、長い足。ゆっくりそちらを向けば、目の上にガーゼを置かれた傷だらけの七海がいた。椅子に座ったまま、項垂れた、けれどどこか投げやりな姿勢。
「…七海」
彼の名前を呼べば、今私の存在に気づいたかのようにこちらに顔を向けてきた。目を覆われているため、彼が私を視界に捉えることはできないが、小さな口が、楓・と動いたのはわかった。声は出ていなかった。
「七海は、大丈夫?」
膝をついて、彼の腿に手を置いて見上げる。その身体はひどく冷え切っていて、何時間ここにいたんだと問いたい。とにかく休んで、と言いたいけれど、今はそんなこと言える気持ちになれなかった。泣きそうになりながら必死に堪えて、目、治すね・と彼の目元に手をかざす。硝子先輩の治療を拒否したと、ここに向かう途中会った夏油先輩から聞いた。彼もひどい顔色をしていて、七海を治してくれないかなとお願いされた。そんなお願い。私が、私が一緒に任務に行っていれば。
泣きそうになるのを必死で堪えて、七海に反転術式をかけ続ける。目が一番ひどいけど、きっと制服の下も傷だらけなのだろう。血の匂いがする。
「…楓は、灰原を見ないでくれ」
ぽつりと、水道の蛇口から雫が一滴落ちたような声音で七海は言う。硝子先輩も会うのはやめておけと言っていた。なんでふたりしてそんなことを言うの?七海の言葉には何も答えず、私は俯いて目をぎゅっと閉じた。さっきから唇を噛み締めているせいで口内に血の味が滲んでいた。
見ないで、と言っても、すぐそこに彼は、と振り返ったその時。ずっと抱えていた違和感が確信に変わる。
灰原を覆っているシーツは、不自然なほど膨らみが小さかった。下半身があるはずの部分はシーツがぺちゃんこになっている。
ああ、だから。だから会わない方がいいと、見ないであげてと。生きていた頃の灰原の姿だけを覚えていてほしいと、彼らは気を遣ってくれているのだ。そんな必要ないのに。だって、同期だよ?灰原だよ?でも、今無理やり七海のもとから灰原のところに行ってそのシーツを剥ぎ取ったらどうなるかわからないほど私は子どもではなかった。天を仰いで、そっと七海の目のガーゼを取ってやる。瞬きをした七海に、目見える?と聞けば、見える、と答えてくれた。その瞳は虚無感でいっぱいだ。そんな彼の表情、みたことなかった。
「…産土神信仰…アレは土地神で、一級案件だったんだ」
どこをみているかわからない表情で、七海は噛み締めるようにそう呟いた。調査不足か、それとも任務中に進化してしまったのか。二級の私たちが対応できる呪霊ではなかったのが、この結果だ。それでも、私がいたら。私がいたらきっと、灰原は死ななくてよかった。
「…ごめん、なさい」
絞り出すような声と共に、ずっと我慢していた涙がぼろぼろ溢れ出した。一番泣きたいのは私じゃない。七海だ。この任務の最初から最後まで灰原と一緒にいた。灰原の最期を彼は見ている。七海の背中…制服はべったり血で汚れていた。七海の怪我で血の匂いがしているのかと思ったけれど、それは違った。きっと七海が灰原を背負ってここまで帰り着いたのだ。もう息のない灰原に声をかけ続けている七海が安易に想像できた。普段からは考えられないくらい大きな声を出して、灰原を呼んでいたに違いない。それを思うともう一度私はごめんなさいと謝るしかなかった。
「なんで楓が謝るんだ」
「私が風邪なんてひくから、予定通り三人で行っていれば、私が灰原を助けられた…!」
ぼろぼろ落ちる涙はTシャツをも濡らす。人ってこんなに泣けるんだってくらい溢れて止まらない涙。七海の腿に置いたままだった手に、七海の手が重ねられる。「楓がいなくてよかった」と七海は小さく呟いた。思ってもみない言葉に顔をあげると、彼も頬に一筋の涙を伝わせながら、灰原がそう言ったんです・と。私は思わず瞠目した。
「アレが私たちの手に負えないとわかった瞬間、灰原が言ったんです。楓がいたら全力で逃したと。それくらい、あなたがいたとしても、あなたの術式と反転術式があったとしても、灰原は救えなかった」
灰原は攻撃を受ける瞬間、楓がいなくてよかったね、と笑ったという。そして下半身を吹き飛ばされた。七海は目を潰された。あんなの、どうにもならない・と七海は自嘲めいた皮肉なそれを浮かべる。
「灰原の遺言ですよ。楓がいなくてよかった、全力で逃げろ、と。だから楓は自分を責めるな。絶対にこれは、お前のせいじゃない」
七海からお前なんて呼ばれたことなかった。あなたか楓。いつもそう呼ばれていたのに、お前と言ったことに彼は気付いているのだろうか。それくらい、切羽詰まった、苦しそうな声だった。
私はそれに救われるかもしれない。けれど、七海は?一緒にいて、ボロボロになりながらも灰原を連れて帰ってきてくれた七海は?
ねえ、あなたは、大丈夫じゃないでしょう?
「七海、ここにいたらずっと自分を責め続けるでしょう。部屋に戻ろう」
「灰原をひとりにはできない」
「硝子先輩についていてもらおう。七海は少し休まなきゃ」
お願い、あなたまでいなくなってしまったら、私は。
思わずそれが口から言葉になってでそうになった瞬間、じゃあ、と七海が口を開く。見上げれば、七海自身自分を軽蔑するような表情を浮かべていて、投げやりに言い放った。
「あなたが一晩私と一緒にいてくれるんですか?」
それが何を意味しているかわからない訳でもなかった。七海は今自分を責めて、傷ついて、自暴自棄になっている。そんな彼をひとり部屋に帰すつもりなんて毛頭なかった。今私たちは、泣いて、灰原がいないことを受け入れなければならない。そして、私たちがここにいる、生きているということを実感しなければどちらかが消えていなくなってしまいそうで。不安で不安で。何かをして繋ぎ止めておかないと、ふたりともおかしくなってしまいそうな。
だから、私の答えは決まっていた。
「一緒にいるよ、ずっと一緒にいるから、一緒に泣こう」
新しい涙がまた溢れて頬を伝えば、その濡れた頬に手を添えられる。ゆっくりと七海に身体を引き上げられ、彼の肩に手をついた。頭に手を回されて、七海の顔に自分のそれも近づいていく。私は彼の顔をまっすぐと見つめて、そっと唇を重ねた。触れ合うものから舌を絡ませて、何度も何度も、息ができなくなって少しだけ酸素を取り込んで、またキスをする。その日何度も交わした初めてのキスは、私と七海の涙と、血の味がした。
END
(20230718)
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