心臓だけ置いていく
七海や五条先輩に言わせれば、私は「鈍いようでたまに誰よりも勘が冴え渡る」タイプの人間なのだそうだ。そう言われても正直実感はなかったし、彼らが何を根拠にそう言っていたかはよくわからなかったけれど、もしかしてそれが今なのかもしれないと思うくらいには、私は宿儺の一挙手一投足が何故か予期できてしまっていた。呪いの王が現代最強と戦っている。それをモニター越しにみんなで見守る中、私は頭の中で鳴り響くアラートを無視できなかった。
少し前に魔虚羅が不可侵に対応して五条先輩の腕を飛ばした。あれは宿儺のように斬撃を飛ばしたからだとみんなは言っているけれど、何故か私の中で蠢く違和感は拭い去れなくて。じっとモニターを見つめ続けながら頭をフル回転させていた。そんなに単純なことなのか?斬撃を飛ばすだけで五条先輩を仕留められるとは思えない。反転術式だってある。何が私の中で引っ掛かっている?
『お前の術式、もっと解釈広げらんねぇの?拡張術式向きだと思うんだけど』
不意に、学生時代五条先輩から言われたその言葉が脳裏に過ぎった。瞬間、自分の中でガラガラと瓦礫が落ちる音と共に、バラバラになっていた回路が繋がる音がした。そう、それはまるで過去に何度も見てきた七海の瓦落瓦落を予期させるような。違う、あの飛ぶ斬撃は。飛ばしているんじゃなくて。
「だめ、違う、待って!」
思わず叫べば仲間たちが、楓さん?とこちらに注目する。違う。あれは、魔虚羅は斬撃を飛ばしたのではない。五条先輩の腕を飛ばしたのが斬撃の対象を広げた拡張術式だったとしたら。対象を世界そのものにして、そこに存在するもの全てを分断する術式だとしたら。不可侵など関係なく、世界そのものが斬撃の対象となっていたとしたら。
血の気が引いたその瞬間だった。宿儺が斬撃を飛ばしたように見えた。否、違う。それは今私が予見した最悪。
五条悟の身体が分断された。
ほんの一瞬の、何が起こったかわからない中、モニタールームは呼吸を忘れたように静まり返った。
宿儺との戦いに挑む前、五条先輩は私たちに対して戦いへの介入を一切認めなかった。例外があるとすれば、と続けられた言葉は今も鮮明に思い出すことができる。
『僕が君たちより弱った時は介入を認めるけど、それ以外はだめだよ。ああでも、本当にやばい時は楓の術式でドロンするのもありだね』
私の術式より無下限の移動の方が確実じゃ…と言った私に対して、冗談だよ、と笑って去っていった五条先輩の姿が瞬間的に頭によぎった。あなたは冗談のつもりだったかもしれないけれど、私はその時から覚悟を決めていた。
そしてそれはとっさの判断だった。誰もが言葉を忘れている中、私は術式を発動し、新宿に降り立った。泣き別れた先輩の身体に割って入るように膝をついて、血だらけの先輩の身体に触れる。ああ、もう、これは。事切れた先輩の身体からは血が溢れ出てすでに冷たくなりつつある。術式を発動して早く離脱を。そう思った時だった。
目の前に立つ呪いの王と目が合った。
ヒッと喉の奥が本能的な恐怖で締め付けられて息ができなくなった。奥歯がカタカタと鳴る。だめ、しっかりして。ここで恐怖に屈してはならない。
「なんだ女。興を削ぐな」
不機嫌そうな顔をした宿儺が右手を挙げるのが先か、私の術式が発動するのが先か。私は五条先輩の身体をかき抱いて戦線を離脱した。術式を発動した瞬間、胴に衝撃が走ったけれど、今はただこの最強の身体をみんなの元に連れ帰ることしか考えられなかったのだ。無事にみんなの元に戻れたのかどうか、それはわからないまま、私は受け身すら取ることなくその場に倒れ込んだ。
・・・
目を開けると、そこは不思議と空気が澄んでいて、先ほどまでいたモニタールームとは別のところだとわかった。
周囲を見渡せば、大きな窓の外には飛行機が何台も止まっていて、ああここは空港かとすぐに察することができた。しかし違和感。何故空港?という前に、そう、空港なのにとても静かなのだ。おかしいな、と首を傾げながらふと窓に映った自分が目に入る。
「あれ?」
そこにいたのは今や懐かしいと思う姿。制服姿で少し幼い自分。あれ?あれ?と手のひらを眼前に掲げてみれば、いつもつけている指輪もそこにはなかった。え、どうしよう。結婚指輪無くした?さぁっと血の気が引いて、思わず周辺を見渡した時だった。
「あなたがくるのは少し早い」
呆れたように呟かれたその声を聞くのは久しぶりだった。離れ離れになってほんの一月とちょっとだけれど、毎日聞いていた声を聞けなくなったから、もうそれは懐かしさをも感じるレベルだった。顔を上げればそこにいたのは私と同じく学生時代の姿をした七海だった。え、若い・と呟けば、あなたもですよとまた呆れたように彼は言って、ひとつため息をついた。困惑する私の左手を取って、少し先にあるベンチへと連れて行かれる。「あのね、指輪がね」と言い募れば、「まだその姿の時は渡してませんでしたからね」と冷静に返された。そういうものなのかな、と思いながらも、彼に促されるままそこに座らされた。
「さっきまで灰原もいたんですよ。五条さんたちと先にいきましたが」
ポツリと呟くように七海は言った。とても穏やかな表情で、優しい声音。憑物が落ちたかのようなその表情をじっと見つめながら、私は思った疑問を彼に問う。
「…七海は一緒にいかなかったの?」
「いこうとしたら楓もくるというので待ってました。…五条さんなんて放っておけばよかったのに」
凪いだ表情から一変して、無茶をして、と眉間に皺を寄せた七海は、何度目かのため息を吐いた。そんなにため息吐かないでよ・と少しむくれてみせれば、死んだ人間を助けようとして自分まで死んでいたら元も子もない・と言われる。その道理はわかる。わかっている。それでも私は、と背もたれに身体を預けて天を見上げた。
「最強の身体を利用されたらとんでもないことになりかねないし。あと…先輩の身体はちゃんと連れて帰りたかった。七海のことは連れて帰れなかったからね」
渋谷で私は七海の身体を連れ帰ることができなかった。間に合わなかったという自責の念と後悔は未だに私を襲ってくる。ごめんね、手しか連れて帰ってあげられなくて・と七海に謝れば、そんなのどうでもいいですよと言われる。あなたが無事に生きていれば私はそれでいい、と彼はさらに言った。
「これ、私の妄想じゃなかったら死後の世界ってことだよね?五条先輩もいたってことは、私も一緒に死んじゃったのか」
「私以外の男と一緒に死ぬなんて、どうかしてますよ」
そう言いがてら軽く前髪を払われたかと思うと、デコピンを喰らわされる。手加減されているとはいえ、七海のデコピンは痛いのだ。その衝撃に首がのけぞる。痛いなぁと額をさすりながらも、不可抗力じゃん、と口を尖らせれば、自分から飛び込んでいって何を・すかさず突っ込まれた。まあ、それは認める。私個人の勝手な思いだけで無茶をした。モニタールームのみんなは予期せぬ展開を見せつけられてどんな顔をしていたのだろう。でも、今私の中に、私の最期に対する後悔は微塵もないのだ。
「ごめんね。でも、私、不思議と後悔はないの。私ができることはあの場では限られていたし、むしろ五条先輩をみんなの元に連れて帰ることで救われた人だっているはずで…」
そこまで言って、私はああそうかと悟る。
「七海のいない世界にいるってだけで私はもう未練なんて作れなかったのかもしれない。だって欲しいものもしたいことも、何もなかったもの」
七海と一緒に生きてきた。私の生きる理由は七海だった。それは逆も然りで、お互いが欠けたらだめな私たちだったのだ。なのに欠けてしまった。だから、もう私はあの世界に未練などない、作れない。そっか、そういうことか、と合点がいって少しスッキリする。
そういうことかぁと声に出せば、七海は困ったような、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「そんなこと言わないでくださいよ。なんのためにあなたを生かす呪いを吐き続けたと思っているんだ」
「私も同じ呪いを吐けばよかったね」
私だけ生きていてもだめな呪い。それを吐けばよかった。そう言えば、彼は、小さく言った。
「人を生かす呪いもある。呪術がそうであるように。だから私はあなたに呪いをかけ続けたし、時折発せられるあなたからの呪いも甘んじて受け入れていた」
「あれ、私も呪ってた?」
「私ほどじゃあないが」
七海にそう言われて、そっかぁ無意識だったなと笑えば、彼に肩を抱き寄せられた。ふふ、こういうのも久しぶりだな、なんて目を閉じる。きっとここは死後の世界。だけどちゃんと体温は感じられるし、存在だって確かにある。それならもう少し、お話ししても大丈夫かな。
「私はさ、さっきも言ったけど後悔も何もないの。七海はどうだった?」
「私も後悔していませんよ。最期に後ろ向きな私が未来に賭けたんだ。悪くない最期だった」
後は頼みます・と虎杖くんに向けて言葉をかけた彼を思い出し、そうか、あれは未来に対する賭けだったのだと察した。未来に対する呪い。
悪くない最期なら、よかった・と直近の記憶よりも薄い彼の肩に頭を預けた。お互いそう思えていけるのなら、呪術師冥利に尽きるだろう。
「…未来は、虎杖くんだけじゃないんですよ」
支えられてた頭の力が抜けて、思わず私は目を開けて彼を見つめれば、七海は姿勢を元に戻して、まっすぐに私を見つめていた。
「言ったでしょう、あなたがくるのは早すぎる、と」
七海は私の左手をとって、すくりと立ち上がった。そして背後に回ったかと思うと、とん、と背中を押す。え?という私の声に被せるように、彼は「楓、あなたも私の未来なんです」そう言った。思わず振り返れば、少し寂しげな表情をした七海と目が合った。
・・・
「楓さん!」
誰かの声が脳をゆさぶって、私は目を開いた。瞬間押し寄せる強烈な痛みに、う、と呻けば、動くなよ、とすぐそばにいた硝子先輩が私の肩を押した。
「あとちょっと移動が遅かったらお前も分断されてたよ。危なかった」
硝子先輩の反転術式が私の身体を覆っていると気づいたのはその言葉のおかげだった。反対側からは乙骨くんも術式を当ててくれている。ふたりがかりで治療なんて、よっぽどの状態だったのかもしれない。
乙骨くんの向こう側には、白いもの…硝子先輩の白衣がかけられたものがある。長身の五条先輩を全て覆い隠すことができるはずもなく、赤いしみを作るその白衣を眺めながら、ああ、彼は本当にいなくなってしまったんだな、あの空港から先に飛んでいってしまったんだなと思った。
「私、宿儺の狙いに気づいたのに…」
ほんのあと一瞬でも早く気づいていれば、分断される前に移動して彼を離脱させることができたかもしれないのに。ごめんなさい…と両手で顔を覆えば、つられたように涙がブワッと溢れ出た。
「いい、お前は悪くない。…この馬鹿を連れて帰ってきてくれてありがとうな」
硝子先輩のそんな呟きに、私は首を横に振って声をあげて泣いた。…あの世で七海が困ったような顔をしている。それが今もまだ手に取るように思い出されて。後悔も未練も何もないのに私はまた生きている。それが無性に悔しくて悔しくて、ただ赤子のように泣いた。
END
(20230929)
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