滅びの前のプロローグ
私が暮らすのは、山奥にある小さな集落だった。住所で示すと、村とか、大字と形容されるそこで生きる人々の年齢層は高く、子どもは片手で数える程度しかいなかった。教育機関は小学校までしかないので、中学生になると山を降って町の中学校に進学する。町へ続く唯一の国道。少数ながら集落以外で働いているもの、学校に通うものはその暗い道を下って村を出ていく。
私はこの集落で生まれたわけではない。十歳になった頃両親が亡くなり、父方の祖父母に引き取られた。はじめて祖父母宅に連れて行かれる中、集落に続く国道を車で登りながら窓から見た世界は、生い茂る木々のせいか、古びたガードレールのせいか、凸凹と車のタイヤを跳ねさせる道路のせいか、とても暗く気持ち悪く酔うような感覚に陥ったのを覚えている。あの感覚はなかなか忘れることはできなかった。
父は中学卒業後に村を出て、それ以来集落に戻らなかったと聞いた。祖父母と会ったのも両親が他界したあとだった。なぜ父が実家を、自分の両親を避けていたのかはわからないが、成長した今ならなんとなくわかる気がする。
父は、この異常な村から逃げたのだと。
はじめて違和感を覚えたのは、小学校の転校初日だった。給食を食べるときに、村出身だという教師が教室に設置された神棚に給食を供えた。そして呪文のような言葉をつなぎ、それに追従するように他の子どもたち(同学年の子はいなかった)も手を合わせた。それはまるで祈りを捧げるような振る舞いで。どうしていいか分からず黙ってその様子を見ていれば、二学年上の男の子にどうして神様に祈らないんだと詰られた。神様?と問い返せば、この村にはみんなを守ってくれる神様がおられるのよ、と教師が私の頭を撫でながら言った。あぐりちゃんもお祈りしましょうね、と。
まだ自宅と呼ぶには慣れない祖父母の家にも同じような神棚があって、昨晩祖父母が祈っていた。強いるようにお前も祈れといわれて訳もわからず手を合わせたのを思い出した(今朝は忙しなく学校に連れて行かれたのでその様子は見ていない)。逆らわない方がいいなと思い、その時は神様とやらに手だけあわせた。
祖父母の家に帰る道すがら、等間隔に石でできた祠のようなものが置かれていることに気づいた。何ヶ所も設置されているのにどれも綺麗に磨かれ、花が備えられていた。すれ違う村の人はいちいちその祠に一礼して手を合わせていく。その様子が気持ち悪く、さらに「神様をお祀りしている神社だ」と祖母が示した石畳の階段の上に鎮座する鳥居と、視界に入らないがその奥にあるであろう建物からは禍々しい気配を感じて、頭が痛いと駄々をこねてお参りをしていこうとする祖母をけしかけ帰路に着いた。
この村で過ごして数ヶ月。色々分かったことがある。集落は異常なまでに閉ざされた世界で、外界との交流を積極的に取ろうとしていないこと。“神様”と称される集落を守ってくれるという存在を村人たちは信じて奉っていること。そして、その“神様"と対話できる“神主様”と呼ばれる男がいること。
この“神主様”は普段は集落におらず、日本中を巡って病気や困っている人達を助ける活動をしているのだという。この集落の一族出身で、“神様”の力を使って世界を平和にするのだという。
そんな“神主様”と村人たちは“神様”と同じくらい崇拝していたし、たまに“神主様”が集落に帰ってきた日は集落をあげて宴が開かれた。そしていつも集落を守ってくれる御礼として寄付という名の献金が行われていることも知った。
ただ、気持ち悪いと思った。
張り付いた笑顔、目の奥は冷たく笑っていない神主様。神様の言葉を恭しく告げるその様は、違和感と禍々しさと。とにかく幼いながらもこの違和感を形容できる全ての言葉を使って表現しようとしても難しいくらいの渦巻いた気持ち悪さ。
黙ってその様子を見て四年程経ったある日。違和感と気持ち悪さを感じながら日々生活を送っていたが、とうとうそれが壊れる日が来た。
神様をお迎えするという祭の日。五年に一度開かれてるというそれに、私ははじめて参加することになった。
転校初日に避けた神社に村人全員が集まって、行きたくないと主張する私に祖父は張り手をしてまで連れてきた。そこで見たのは、綺麗に磨かれた、仏様の石像。しかしその後ろから噴き出る黒い影。いくつも目があって実態がないそのモヤはニヤリと笑ってこちらを見た。目があった瞬間、これは絶対に神様ではないと悟ったし、今年は何人が不慮の事故、病気で亡くなった、神様これからもお守りくださいと村長が祈り、たくさんのお供物と、化け物の横で静かに微笑む神主様に金の延べ棒が渡される。
ここの人たちは何を祀っているの?
その亡くなった人たちというのは健康そのものだったはず。本能的にこの化け物が関係しているとしか思えなかった。
「あれは神様じゃない!気持ち悪い化け物よ!」
突然そう叫んだ私に刺すような幾つもの視線が集まって、何を言っているの!と祖母が叱責すると同時に祖父が頬を思いっきり平手打ちした。今日二発目。頬はジンジンと痛んだが、そんなことよりも目を見開きこちらを見ている神主様と目が合った。ゆっくりとこちらに近づいてくる男から距離を取ろうと後ずさるが、それを祖父により止められる。祖母は土下座をして神主様と神様に謝っている。村人たちからは罵倒を浴びせられているが、時間が止まってしまったかのように耳鳴りが響いていた。あれは危険。逃げろ。化け物だ。そう声に出そうとしても、神主様、というより仏様の後ろから発せられる禍々しいあの化け物の空気に圧倒されて何も言えなかった。
「かわいそうに。彼女は悪いものに取り憑かれて錯乱していますね。元に戻すには隔離して私が祈りを捧げなければ」
神主様に哀れみの目を向けられると同時に祖父に殴られた頬を撫でるふりをして、爪でガリっと傷をつけられた。そして耳元に口を寄せられる。他の人たちに聞こえない小さな小さな声で彼は言った。
「お前には見えるんだね。都合が悪い」
神主様の手からまたモヤが出て、蛇のような化け物が私の身体に巻き付いた。ぎゅっと締め上げられて息ができない。苦しい。ひゅっと呻いた瞬間、周りの人たちは慄いたように後ずさった。急に苦しみ出した私に恐れを感じたのか。だって、この私に巻き付いているものは、きっと他の人には見えないもの。蛇はチロチロと細い舌で私の首筋を舐めて、その鋭い牙を首に当てた。いつでも殺せる、そう言われているように。
そこからは悪夢のはじまりだった。
神主様の自宅(村で一番大きな屋敷だった)の一室に隔離され、お祓いと称して暴力を振るわれ詰られる日々。たまに村の大人たちもやってきて、悪霊を払うと殴られ蹴られ。どこの誰が死んだのはお前のせいだと詰られ、そのたびまた殴られた。その中には祖父の姿もあった。この恩知らずが!と罵声を浴びせられ、顔と腹を何発も殴られた。
「村人たちから金を搾り取るために使わせてもらうよ。搾り取れるものがなくなったら殺してあげる」
お前の力は余計なんだ、と神主は毎晩私に暴力を振るって囁いていく。いつ殺されるかわからない恐怖と、全身の痛みに耐える日々。
いつの間にか屋敷の一室に造られた座敷牢に移されて、逃げることもできなかった。止まらない虐待される日々。いっそ殺してくれと思うくらいには限界が近かった。私が何をしたというのだ。あの化け物を神様と呼び金を毟り取られていることを知らずに、何も悪くないはずの私に暴力を振るう。みんな死んでしまえばいいのに。そんなことを思いながら、ああ、だから父はここから逃げたのだなと気づいた。この異常な村の体質に気づいて、別の世界で暮らしていたのだ。それなのに、なんで死んでしまったの?
座敷牢のある部屋にある窓の格子から差し込む眩しい朝日を見るたびに、私はまた朝が来てしまったと絶望する。こんな状態で生きていて何になるのだろう。何のために生まれてきたのだろう。
村に来て、息を殺して生きていた。なのに今こうやって痛い思いばかりしている。
はじめて口から出た言葉だった。
それまでは口にして叶わなかった時の絶望に耐えられる気がしなかったから。
でも、もう私の心は限界だったのだろう。
「誰か、助けて…」
涙と共に溢れたその言葉が音になって空気を震わせた瞬間、轟音が脳を劈いた。何かが破壊される音と、神主様の罵声。廊下を乱暴に歩く音に続いて扉が蹴破られた。
朝日を背負って現れたのは、全身真っ黒な人だった。
切れ長の目を目一杯見開いて、こちらを凝視している。村の人ではない。久しぶりに綺麗なものを見たな、なんてぼんやり思う。昨日殴られて片目が開かないから、視界はぼやけていたけれど。その人の姿はなぜかはっきり見えた。
「…これはなんですか?」
低くて冷たい声だった。私に向けられたものではない。追ってきた村人たちが、その女は呪われている!神様を化け物呼ばわりする!と口々に叫ぶが、その人は冷静に「違います」とはっきり言い切る。何か言いたげな視線をこちらに向けられる。お前たちは下がっていなさいと神主様が村人たちに命じて、村人たちは渋々退室した。その間、彼は手のひらから黒いモヤのようなものを出していて、私はそれを凝視した。その視線に気付いたのか、彼は驚いたような表情を浮かべ、「これが見えるのかい?」と尋ねてきた。ひとつ頷けば、そうか・と彼も頷く。
「君も見えるんだね」
だからか・と目を細め、少しの間目を閉じててくれるかい?と優しくお願いされた。すぐ頷いて固く目を閉じれば、神主様の喚く声と、彼の冷静な声が耳に届く。バックミュージックのように屋敷の外からはいろんなものが壊れる轟音もするけれど、それより目の前で繰り広げられている会話と応酬の方に集中した。五感が研ぎ澄まされる。視界だけ封じていても、他の感覚で意外と何が起こっているかわかるものなんだなって思った。
神主様の方から何かが飛び出し、それが彼に吸い込まれている。目に映らないのにそんな情景が脳に直接入ってくる。叫ぶ神主様と、「こんな低級呪霊でよくここまで引っ張りましたね」と呆れたようにいう彼。「お前にはこれで十分だよ」その声の後、骨と骨がぶつかる音と、重さがあるものが壁にぶつかる衝撃音がする。それはよく自分が殴られた衝撃音と飛ばされた時の音に似ていたから、ああ、殴られて飛ばされたんだな、と悟ることができた。
「もう目を開けてもいいよ」
先ほどまでと同じ声なのに、幾分が柔らかいその声音。ゆっくり目を開ければ、いつの間にか座敷牢の中に入ってきていて、目の前で膝をついた彼と目が合った。間近で見る彼はとても綺麗な顔をしていて、こういう人こそ神様と呼ばれるべきだと思った。真っ黒な上着を脱いで彼は私の肩にかけてくれる。サイズが大きいから、すっぽり身体が隠される。そういえばいつの間にか服は破れかぶれで、ボロキレを纏った、ほぼ裸同然だったなと。それに対する羞恥心はまだ出てこない。
「よく頑張ったね」
そっと頭を撫でようとしたらしい彼は、何か思ったのかすぐにその手を引っ込める。何か言わなきゃ。そう思ったとき、ドタドタと廊下から大きな足音が響いてきた。また誰か来たのかと身構えれば、大丈夫・と彼はつぶやく。私の仲間だ、と。
「傑!こっち片付けた!」
「悟、硝子呼んできて!」
「あ?」
「黒幕のジュソシはそこに転がってる。怪我した女の子がいるから、硝子呼んできて。女性の補助監督がいればその人も。私たちが運ぶわけにはいかないからね」
傑と呼ばれた彼の肩越しに見えた、これまた全身真っ黒で黒いサングラス姿の人は、黒幕と呼ばれた神主様(ジュソシってなんだろう?)を一瞥して、舌をベェと出してオェとわざとらしくえずいて見せた。悟、と嗜めるように彼が言えば、わかったって!とサングラスの人は踵を返す。そこからの記憶は本当に曖昧だけれど、硝子と呼ばれた美人な女の子が私のところに来てくれて、この世はクズばっかだなと毒づいていた。
「もう大丈夫だよ」
ずっとそばにいてくれた傑と呼ばれた彼が手当をされる私に向けてそう言った。
ああ、私の絶望は今終わったのだ。瞬間的にそう悟って、私はここに来て、はじめて涙を流せたのだった。
私はこの日を忘れない。傑が私を救ってくれたように。いつか私も彼を救う。隣に並んで戦う。その思いは呪術師となった今もずっと変わらない。
これが私のはじまりの物語。
END
(20230624)
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