君と朝を迎えたい
春の風が頬を撫でる。肩で切り揃えた髪が靡いて、思わず首ごとそれを押さえた。手にした花束の花弁は無事だろうかと視線を下に向けたが、花屋で包んでもらった姿のまま耐えてくれている。小さく笑ってその色とりどりの花束を同期の、灰原の墓前に供えた。彼と過ごした期間は二年半にも満たないけれど、私の人生において忘れることができない時間だ。何もわからないまま入学した呪術高等専門学校。基本的に呪術師の家系の者が入学し学ぶことが多いが、スカウトされた一般家系出身者の入学も近年増えているらしい。その中でも私たち…たった三人の同期はみんな一般家系出身だった。同学年全員が一般家系出身はかなり珍しいそうだ。だから、入学当初は基本的な知識が備わってない。呪術とは何か。呪術師としての心構えや命を賭けた攻防、体術、術式の精度を上げる訓練。徹底的に扱かれた。それは一般世間からは隔絶した世界だった。そんなところで生きてこれたのは同じく苦労しながら強くなろうとする同期の存在が大きかったし、頼りになる先輩たちや後輩たちのおかげでもある。高専での学びの期間を終えた私は、高専を卒業して、高専所属の呪術師としてさらに呪いを祓う。「とうとう卒業だよ」と墓前の前にしゃがみ込んで、灰原に声をかけた。
二年生の時、灰原は任務で殉職した。いつも明るくムードメーカーだった彼がいなくなったことが信じられなかったし、その思いは今も変わらない。ひょっこり墓の後ろから出てきてもおかしくないくらい。けれど、灰原がいなくなったからといっても呪いは待ってくれない。呪いは断続的に発生するし、私たちは祓い続けるしかないのだ。呪術師であるかぎり。
「私たち最初は三人だったのに、この世界に残るのは私ひとりなんだ」
しゃがんで膝を抱えながら灰原に向かって声をかける。呪いは見えるのに幽霊は見えない。見えたらいいのに。そしたらあなたはどんな顔をして、どんな言葉をかけてくれる?
「ここにいたんですか」
背後からその知りすぎた呪力が近づいてきているのはとっくに気づいていた。あえて振り向かず、灰原と話し続けていたのはわざと。四年間、家族よりも一緒に過ごしたもうひとりの同期。
「七海も灰原に挨拶?」
そのまま振り返れば、黒の制服を身に纒い同じく花束を手にした七海がいた。私の問いかけに対し、ええ・と短く頷きながら私の供えた墓前の花の隣にそれをそっと置いて手を合わせた。その表情はいつもの通り、何を考えているか読みにくい。読みにくいだけで読めないわけではないが(私たちがどれだけの時間一緒にいたと思っているの?)。
今日を境に、彼は呪術師を辞めて一般社会に戻る。少し前、卒業と同時に呪術師を辞めると伝えられた時は、そっか・としか言えなかった。彼の人生だ。止める理由を私は持ち得ていない。ずっと同期として一緒にいたから寂しいとか、そんな感情は抱いていないといえば嘘になるが。誰よりも素の自分を見せて、ボロボロになった状態を晒してきた。同じ任務で死にかけて肩を貸しあって高専に戻ったことだってあるし、灰原がいたときは任務後三人とも疲れ果てており重なるように七海の部屋で雑魚寝したことだってある。寝坊した私を叩き起こしにきて寝起きのだらしない姿を彼の前で晒したことも数知れず(ものすごく呆れた顔をされた、あの顔は絶対忘れられない)。
七海は私にとって、なんでも話せて、何も隠す必要もなくて、ただ、ただずっと元気で生きていて欲しい人。この先も当たり前のように隣で戦い続けたかったけど、灰原が殉職してから彼は呪術師でいることがとても苦しそうだったから。その苦しみから解放されるなら、私はなんでもいい。私の感情や都合なんて些末なこと。
「制服姿の七海もこれで見納めだね」
「それはあなたもでしょう。卒業してからも制服姿で任務にあたるんですか?」
「あ、そっか。間違えたね。制服姿じゃなくて、呪術師としての七海は見納めだね」
卒業後は証券会社に勤めると聞いた。就職活動をしてさっさと内定を取っていた。さすがだなぁと思う。スーツを着て毎朝満員電車に乗って都会のビルの合間をぬって出勤する彼は容易く想像できたし、正直似合う。下手したらその真面目な性格が災いして社畜になってしまいそうだけど、呪術師だって似たようなものだ。違うのは、命の危険があるかどうかだけ。
「灰原にね、七海が呪術師辞めちゃうけど、明日からも私頑張るよって言いにきたんだ」
勿論七海もサラリーマン頑張るもんね、頑張ってね!と笑いかけるのも忘れない。少し眉を顰めた彼は、この一年でぐっと大人びた。身長も伸びたし、着痩せするからわかりづらいけど全身の筋肉はガチガチだ。体術に付き合ってもらった時岩壁かと思うくらい全身固かったしびくともしなかった。容赦なく投げられて受け身が甘いと怒られたことが何度あったろうか。
彼は彼で呪術師を辞めると決めてからも思うところがあって鍛え続けていたんだろうけど、果たしてサラリーマンにその身体は必要なのかな、なんて思ってしまう。
何か思案するような表情を浮かべていた七海は、灰原の墓前から私の方に身体を向けた。どうしたの?と彼を見上げれば、七海は小さく息を吐き出して口を開いた。
「私は呪いとも他人とも無縁でいたいから、この世界から逃げます」
はっきりとした口調だった。彼が口にした“逃げる“という単語は違うと思ったけれど、今は口を挟む空気ではなかった。敢えて否定せず、うん・と頷いてその続きの言葉を待つ。
「呪術師はクソだ。他人のために命を投げ出す覚悟を自分が持つだけじゃない。それを時には仲間にも…楓にも強要しなければならない」
私は、そうだね・と再び頷いた。彼が言うことは正しい。呪術師である以上、非術師を守るために命を賭けて呪いを祓う。時には仲間を見捨ててでもそれを遂行しなければならないときだってある。まさにそれは私たちの間にいた、灰原の身に起きたことだ。彼が犠牲になったのは非術師が信仰して呪いとなった産土神のせい。七海はもうこれ以上仲間を失いたくないのだろう。あんなに虚無感と悔しさでごちゃ混ぜになった気持ちを背負ってまで苦しい思いをしたくないから、この世界を去ることを選んだのだ。ただ呪術師を辞めるだけではない。呪いだけでなく、他人とも無縁でいることを選んだ。自分の身を、その心を守るために。
「それが嫌だから、私は呪術師を辞めます。これからは他人とも無縁で生きる。けれど、矛盾していることは自覚していますが、あなたとの関係は絶ちたくない」
それに対して、私は三度目の肯定のために頷く。生き残った唯一の同期なのだ。七海が呪術師を辞めたとしても、これからも連絡を取り合って、お酒が飲めるようになったらふたりでお互いの仕事の愚痴だって言い合いたい。「私だって同じだよ」とまっすぐ彼の目を見て言えば、七海はいいえと首を振った。予想外の彼の反応に、私は思わず首を傾げる。
「多分、楓が考えている関係と私の考えている関係は違う」
「今後も元同期として交流していきましょうという話じゃなくて?」
素直に先ほど思ったことを告げれば、七海はまた首を横に振った。いいですか・と念を押すように言って、すっと切れ長のその目に何か覚悟を決めたような色を乗せた。
「私は、あなたがこれからも呪術師として命懸けで戦って、怪我をしたとか、…死んだとか、そういうことを他人から聞きたくないし、簡単に他人のため仲間のためにと命を投げ出すような真似はしてほしくない。私はあなたを死なせたくないんです」
真剣なその声音に、ああ、これが彼の本音なのだと気づく。灰原が死んだ日、ふたりで約束した。灰原のためにも絶対に生き残ろう、お互いのために強くなろう、お互いを守れるように、と。
守りたい相手がいなくなることで私の中の命の重石は確実に軽くなるし、性格上死に急ぎそうだ。それは灰原にも言われていた。楓は自分のこと犠牲にして死に急ぎそうだから絶対やめてね!と。あんな昔のことを七海も覚えていたんだな。忘れないか。だってあれは、灰原が亡くなる前日に笑いながら話したことなのだから。
「七海の言うことはわかったよ。これからも私は呪術師として戦うけど、死に急ぐようなことはしないし、鍛錬も怠らないし」
「そういうことを言っているんじゃないんですよ」
私の言葉を遮るように言って、七海は大袈裟にため息を吐いてみせる。「本当にあなたも灰原も鈍いところがある」とぼやきながらポケットを探った。彼の手元に自然と視線を落とせば、取り出されたのは小さな箱。彼の大きな手のひらにすっぽりおさまってしまうそれを見とめて、え?と思わず声が漏れる。それが何なのかわからないほど私は幼くないし、彼は鈍いと言うがそこまで鈍くはない。
そっと開かれた小箱の中には、キラリと光る石がいくつもリングの縁に並んでいて、その輝きからそれが本物のダイヤモンドだということはすぐにわかった。エタニティリングだ、綺麗だなぁなんてどこか呑気な自分が頭の中で嘆息している。しかし七海の目の前の私はそれを目の当たりにしてフリーズすることしかできなかった。
「私は楓の命の重石でありたい。あなたが死に急ぐことのないよう、これからも隣にいたい。だから、私と結婚してください」
一瞬彼が何を言ったかわからなかったけれど、真剣な視線がずっと自分に向けられていて、私の命の重石でありたいと、私が死なないように隣にいたいと言ってくれたと理解した瞬間、ぼろっと涙が瞳に一気に溢れるのを感じた。瞬きを堪えてそれが流れるのを防ぎながらも、え?七海何言ってるの?といつもの軽い感じの返しはできなかった。どんなに濃い時間を過ごしてきたとはいえ、私たちは付き合ってもいないし、今の今までただの同期だった。同期と言っても命を預けあって、お互い生きるための重石になろうと約束した相手だから確かに一般的な同期という定義にはおさまらない関係なのかもしれないけれど。「…本気?」と思わず聞けば、「本気出なければ指輪まで用意しないでしょうよ」と呆れたように七海は言う。そりゃそうか。
「七海って基本は慎重なのに、たまにこうやって突拍子もないことするよね…」
「別に今更恋人期間を設ける必要もないでしょう。お互い新しい環境に身を置くんですよ。恋愛している暇などない、手っ取り早く籍を入れた方が合理的です」
「…正論だわ」
七海となら別にキスだってできるし、抱き合うことだって多分違和感なくできてしまうな、と頭の端で思えば、今変なこと考えたでしょう・と睨め付けられた。そう、そんなことまでお互い何考えているかお見通しなほど一緒にいて濃い関係を築いてきたのだ。確かに、今更だ。
「私は楓を死なせたくないんですよ」
七海がもう一度その言葉を紡ぎ出す。うん、さっき聞いたよ・と相槌を打てば、彼は何度だって言いますと宣言する。
「夫婦という関係を築くことで、私の存在がこれからもあなたにとって小石程度でもいいから死ねない理由になれば、私はそれでいいんです」
真剣な目で見つめられて、いつの間にか止まりかけていた涙がまた溢れてきて、今度は瞬きを堪えきれず頬にぼろぼろと溢れただけ涙が伝って落ちていった。正直、ひとりは怖かった。七海も去って、灰原はもういない。どうやって頑張ればいいのかななんてらしくないことだって考えたりしていた。だから、七海のこの突拍子もない、けれど私を理解し、思ってくれての提案はありがたい以外の何ものでもなかった。そうだね、私たちはお互い生きる意味だ。これまでも、これからも。
「七海さ、やっぱりイカれてるよ。呪術師に超向いてると思うし、それを受ける私もやっぱりイカれてる」
これからもよろしくね・と左手を彼に差し出せば、「呪術師を辞める人間に呪術師が向いてるというのはどうかと」とぶつくさ言いながらも優しく私の手を取ってくれて、薬指に指輪をそっとつけてくれた。サイズもぴったり。なんで知ってるんだろう、と思うが、私もきっと七海の指のサイズを尋ねられたらこれくらいじゃないかな?と正解を導き出せる自信がある。それだけ私たちは自然と特別な関係になっていたんだろう。
「灰原。どうしよう、成人前なのに人妻になっちゃったよ」
照れ隠しもあって灰原の墓前に向き直って笑い泣きをしながら灰原に声をかけた。灰原の墓前の前でプロポーズなんて、七海め、狙ったに違いない。狙ったでしょ?と七海を見上げて問えば、「灰原に何度も相談しにきましたからね」と恥ずかしげもなく答えられた。…一枚も二枚も上手だ、大人オブ大人。
「ありがとうね。なるべく死なないように頑張るから」
「なるべくじゃなく厳守でお願いします」
ほっとしたような、けれどそんな彼の生真面目な言葉に、私は声をあげて笑う。これから私は呪術師として毎日戦う。けれど、絶対毎日生きて帰る。彼がいるところに。
生きる理由を作ってくれた七海のためにも、私は生涯をかけてこの約束を守ると灰原の前で誓ったのだ。贈られたばかりの指輪をそっと撫でながら。
END
(20230629)
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