奇跡の音
ハロウィンのあの日、渋谷で起こった惨劇の収束がようやくみえてきたのはもう12月も半ばに入ってからだった。私自身、あの時は呪力切れを起こしている最中に重傷を負ったこと、そんな最悪な状況の中で自分自身に縛りを課して呪力の増量と七海への反転術式を新たな方法で実施したあとに術式で移動するなど、もうとにかく死ぬほど無茶をした。というか死んでもおかしくなかった。その反動で半月ほど寝たきりになってしまっていたのだが、それでもちゃんと生きていて目は醒ましたし、七海も(意外と私より元気に)随分回復し、すでにリハビリがてら任務に復帰している。それは七海だけではなく、他の術師や補助監督たちも同様で、無理してでも反転術式をかけて渋谷を駆け回った甲斐があったなと思った。当然七海には目が醒めて対面した際に無茶のしすぎだとブチギレられたけど。

私も目が醒めてから一週間後、11月も半分終わろうとしている頃に復帰をして、まだ怪我が癒え切っていない術師や補助監督、はたまた巻き込まれた一般人に反転術式を施す日々を忙しく過ごしていた。それもようやくひと段落するかななんて思っていたら、今度は自分が体調を崩した。崩したというか、とにかくもうひたすら胃が痛いのだ。はじめは怪我の後遺症かとも思ったが、そこはきっちり硝子先輩の反転術式を受けて完治のお墨付きももらっている。だからこれまでの疲れと、常に緊張して過ごしていたせいか。それともこれまでの緊張が解れてきたからか。緊張と緩和の大きさからきているものかもしれない。キリキリとした痛みが常時襲ってきていて、たまにそれがとてつもなく酷く痛んで立っていられなくなる時もあった。幸いその様子を誰かに見られることはなかったし、胃薬や鎮痛剤を飲めば一時的に痛みもおさまっていたのでそのうちこの症状も良くなるだろうと勝手に思っていた。思えばさっさと硝子先輩に診てもらえれば良かったのだが、彼女も彼女で全国を飛び回り治療に明け暮れていたため、私の単純な体調不良に手を煩わすのもどうかと思って相談すらしていなかった。まあどうにかなるかという、楽天的な性格がこの時運悪く全面に出てしまっていたのだった。

ちなみにこの頃、七海とはすれ違い生活が続いていた。ここ最近は特に人手不足でお互いがお互い出張の連続。自宅に帰ってもどちらかは泊まりの出張だったり、どちらかが力尽きてすでに寝ていたり(これは主に私だ)、朝もバタバタしているからなかなか落ち着いてゆっくり顔を合わすことも話すことも難しかった。それでも毎日連絡は取り合っていたし、お互い病み上がりなので体調の確認もし合っていたが、そこでわざわざ胃痛を伝えるのも心配をかけるだけと思い控えていた。
おそらくクリスマスあたりには任務も落ち着いてきてお互いゆっくり過ごせる時間が増えるはず。後ちょっと頑張れば任務量に比例して胃も落ち着いてくれるだろう。そんなことを思って、また私は強めの胃薬を、用量を無視して大量に水で流し込むのだった。

しかし、いつまでもそんな誤魔化しは続くはずもなく。それはある日突然露見した。
高専内の自動販売機近くのベンチで休憩がてら何か飲もうと足を運んだ時、これまでにない急激な胃の痛みに襲われてその場に蹲ってしまったのだ。こんな誰が見ているかわからない場所で、と移動を試みるがそれすら難しい。術式も使える余裕すらなかった。さっき鎮痛剤を飲んだから、いずれこの痛みの波も去るはず。やばい吐きそう、と口元を押さえてぎゅっと腹を抱え込むように座り込んでいると、「楓さん?!」と大きな声が飛んできた。

「あ、虎杖君…」

どうしてここに?と言おうとしてやめた。高専なんだから学生がいる方が自然で、虎杖君の隣には伏黒君と野薔薇ちゃんも一緒にいた。ちょっとどうしたの?!と野薔薇ちゃんが駆け寄ってきてくれて、背中をさすってくれる。虎杖君が、家入さん呼んでくると走り出そうとしたところを、伏黒君が今日家入さん出張だと止めていた。じゃあナナミンは?!との声も。はは、ナナミン。もうそう呼ばれるのを訂正するのは諦めたと本人は言っていたけど。私も今度呼んでみようかな。

「…七海も出張でいないよ。ごめんね心配かけて。ちょっと胃が痛くなっただけだから」

平気平気、と無理やり立ちあがろうとすれば、「何がちょっとよ。そんな顔色で何言ってんの」と野薔薇ちゃんが顔を覗き込んできた。口調は乱暴だがその表情はかなり心配そう。心配してくれてるよね、ありがとう。

「とりあえずここ寒いから中入ろうぜ。楓さんごめん、触るよ」

虎杖君がそう言って私の身体を担ぐように抱き上げて、なるべく身体が揺れないように室内へ目指していく。この子ほんと力持ちだわ…と能天気に思っていれば、先に伏黒君が誰か呼びに行ってくれていたようで、ちょうど先ほど終わった任務の送迎をしてくれた伊地知君を連れてきてくれた。ああ、伊地知君もそんな顔を真っ青にして。

結果、今日の任務は虎杖君たちへ引き継ぎ、私は強制的に病院送りになった。「病み上がりなのに任務詰め込みすぎました、申し訳ありません…」と謝る伊地知君に、「いやいや伊地知君も病み上がりだし、これは私の体調管理がなってないだけだよ」とフォローしつつ、彼に病院まで送ってもらった。車内には私の任務を代わってくれた三人も乗っていたので、くれぐれも七海には連絡しないよう念を押す。あの人は私に何かあったと人から聞くのを本当に嫌がるのだ。後、大したことなかったらただの心配させ損になる。くれぐれもよろしくと四人に再度お願いをし、帰りはタクシーで帰るから・と車を降りた。さて胃薬でももらおうかと総合病院の扉をくぐって受付をして、七海楓さんと名前を呼ばれて、ああこういう時じゃないと自分も七海だということを忘れてしまうなと少し苦笑した。


・・・


カチッと電気のスイッチが押された音がしたと思ったら、目の前が突如明るくなった。

「…電気もつけず、何やってるんですか」

その声に顔をあげれば、スーツ姿の七海が困惑した表情を浮かべてそこに立っていた。あれ?と周囲を見渡せばそこは自宅で、開きっぱなしのカーテンの向こう側はもう真っ暗だった。時計の針も最後の記憶から数時間経っていて、おかしいなと自分でも首を捻る。それよりも七海が帰ってきたことすら気づいてなかった。急いで、「ごめんね、おかえり」と告げれば、彼もカーテンを閉めながら、ただいまと応じてくれた。

「あー…もうこんな時間。ごめん、ご飯もお風呂も準備できてないや」
「こんな時間って、あなた、電気もつけずにいつからこの状態だったんですか」
「えー…いつだろう」

病院を出て帰宅して、着替えることもせずそのままダイニングチェアに座ったところまでは覚えている。そこから無限に終わらない思考状態に入ってしまったらしくて(これが無下限かとちょっと変なことまで考えてしまった)、気づいたら今だった。立ちあがろうとすれば、そのままで・と七海に制される。彼も向かい側のチェアに座って、じっとこちらを見てきた。

「伊地知君、虎杖君、伏黒君、釘崎さんから個別に連絡が来ました。四人からの連絡を要約すると、楓が体調を崩している、病院まで送って行った、と」
「まじか」

思わず驚愕が口から溢れた。口止めしたのに、全員が全員個別に七海に連絡しやがった。あの子達、示し合わせたわけではなく個人の判断でやったな…と苦笑が漏れる。もう笑うしかない。だから七海がいつもより早く帰ってきたのだろう。急いで帰ってきたんだろうな、心配かけちゃったなと思う反面、さてどうしようかなと頭の中でもうひとりの自分が混乱状態で騒いでいる。そうだ、今私の中では冷静な自分と、混乱している自分が共存していて、それでずっと考えがまとまらずこのままの状態だったのだ。

「何があった?」

至極真面目に、まっすぐこちらを見据えて有無を言わさず問うてくる七海に少し臆する。どこから話せばいいのか。冷静な自分は結論からいけというし、混乱する私はとにかく口を開けという。私自身が従ったというより従わされたのは後者の自分だった。

「あのね、一ヶ月以上ずっと胃が痛くてね。でもね、強めの胃薬とか鎮痛剤とか飲めばましになってたから任務も普通にできたし、まあそのうち良くなるかなぁって様子見てたんだけどね。そしたらあんまり食欲も無くなってきて、こんな時期なのに季節外れの素麺ばっかり食べてたら、身体も冷えて余計に胃も痛み出したりしてね。本末転倒だよね。でも硝子先輩も忙しいからそのうち良くなるかなぁって今日まで薬で誤魔化してたんだけど」

つらつらとここ最近の自分の状況を説明すればするほど、七海の眉間の皺は深くなっていく。こめかみに青筋が立っているのは気のせいだと思いたい。あれだけ毎日連絡を取り合って体調は大丈夫かと聞かれていたのに、その都度平気と返していたのに、実際はこんな状態だった。それを今聞かされる七海は心中穏やかではないだろう。そして据わる目。楓、と声を遮られたかと思うと、彼は身を乗り出すようにこちらに近づいて、先ほどよりもずっと低い声で言い放つ。

「質問に答えろ。何があった?」

何があったか?それは今私の身に起こっている事実を言えばいいのかな。冷静な私も混乱する私もそれに対しては素直に答えが一致した。口からなんのためらいもなく、ポロリと言葉がこぼれ落ちた。

「子ども」
「は?」
「子ども、できてた」

七海の据わっていた目がこれでもかと大きくなった。そう、そうなのだ。病院で胃が痛いといえば、月経が最後に来たのはいつかと聞かれ、そういえばここ最近来ていないなと思い出す。9月頃が最後か?まぁ色々ありすぎて生理くらい止まるわと思っていたので、三ヶ月くらい前ですと答えれば、産婦人科に回されてあれよあれよと検査検査検査。いやいやそんな大袈裟なと笑う自分と、ハロウィンの前であればその可能性も否定できないと思う自分がいた。結果、自分の腹の中から自分のものではないドクンドクンという心音が聞こえてきた時、私はまさかと呆けると同時に、込み上げてくる感情が涙となって頬に伝うのを感じたのだった。

一瞬の静寂の後、七海が何かを言おうとする前に、私はずっと思っていたことが口から溢れるのを感じた、もうそれは止められなかった。

「ねえ七海、どうしよう、私あんなに強い胃薬とか鎮痛剤飲み続けてたのに。なんなら痛すぎる時用法も無視してたくさん飲んでたし…子どもに影響あったらどうしよう。それよりなんで私気づかなかったんだろう。なんで今まで放っておいたんだろう、今日だって薬たくさん飲んじゃってたし…!」

あ、だめだ、泣く。妊娠を告げられてからずっと頭と心を支配していた不安という感情を外に爆発させた瞬間、ずっと堪えていた恐怖という感情の涙が溢れそうになる。自分のせいでこの命がどうにかなってしまったら。なんで私、と顔を手のひらで覆ってしまった瞬間だった。

「楓、落ち着いて」

頭上から降ってきた穏やかな声に、ふと正気に戻る。ひくっと泣きかけの時に出てしまうしゃっくりの音が部屋に響いた。顔を覆った手の甲に七海の手のひらが触れる。その体温に触れるのもとても久しぶりで。

「まず、あなたの異変に気づかなかったのは一緒に暮らしている私の責任でもあります。そこは自分だけのせいだと責めないように。…病院ではなんと?」

耳元で意識してゆっくり囁かれるその声と言葉に、少しずつ心が緩んでいく。病院では…そうだ、あの時にも薬をたくさん飲んでいたことを医者に伝えたのだ。

「…初期は気づかずお酒とか薬も飲んでいる人いるから、今はそんなに気にしないでって…。十二週未満で流れちゃったらそれは染色体異常だから、今の段階で流れたとしてもそれは薬を飲んでたり激しく動いていたりしたせいじゃないからって…」

七海に伝えながら、その情報は自分自身にも再度言い聞かせるようなものだった。確かにそう言われた。色々と聞かされるうちに顔面蒼白になった私に、医者はまだ妊娠初期だからあまり思い詰めないように、と告げたのだ。でも、私は能天気なのに変なところで神経質だから、今よりも後のことだって気になる。

「なら今は気にしても仕方ないし、楓が気に病む必要はない」
「でもさ、この後影響でたら?薬たくさん飲んだよ?葉酸だって飲んでないし、ああもう、どうしよう、私のせいでこの子に何かあったら…」

とうとう我慢できずに顔を上げて七海を見た瞬間、ぼろっと目から涙が溢れた。ぼろぼろぼろととめどなくそれは溢れて、テーブルまで濡らしていく。思わず七海の顔を見ていられなくて、腹を抱いて身体を丸める。ごめんなさい、気付けなくて。なんでこんなに私は大事な時の判断を誤るのだろう。ごめんなさい、ともう一度口にした時、楓・と呼ばれて七海の両手が私の両頬を包んで顔を上げさせた。まっすぐその美しい目と視線を合わせられる。

「あなたが子どものことで思い詰めてしまっていることは十分わかりました。でも、それよりも私はあなたが身籠ったということがとても嬉しいのですが、楓は?」

じっと見つめられて、真剣に問われたそれ。何それ。そんなの言わなくてもわかってよ。

「嬉しいしかないけど!嬉しいからこそ心配なんだよ。あとさ…」

無理やり合わせられていた視線を外して、テーブルの端を見る。

私たちが結婚して八年以上経つが、これまで子どもの話をほとんどしたことがなかった。そういう時は七海が避妊していたし、呪術師は危険な仕事だから、万が一のことも考えて七海は子どもいらないのかななんてずっと思っていて。面と向かってこうなる前にちゃんと話し合っていなかったことが悪いのだけど。
でも、七海が少しでも嫌な顔をしたりしたら私は耐えられる気が全くしなかった。
それをぽつりぽつりと呟けば、七海は口を挟まずじっと聞いてくれていた。時折何か言いたげな空気を感じたが、ぐっと堪えていてくれていたような。

「楓。こっちを見てください」

七海に言われて、恐る恐るもう一度七海の顔を見る。そこにあったのは、とても穏やかな表情。外では決して見せないような、優しい、柔い表情。

「今私が困ったような、嫌そうな顔をしていますか?」
「…してない」
「楓との子どもが欲しくなかったわけじゃない。そもそも私たち結婚が早かったでしょう。頃合いとタイミングを見て計画的に…と思ってましたが、ちゃんと話しておくべきだった」

そもそも計画もできてないですし、私の落ち度です、とため息を吐く彼に思わず首を横にふれば、七海は身を乗り出して私の額にキスをした。今がそのタイミングだったんでしょうね、と彼は言って、さらに表情を和らげて。

「こんなに嬉しいことはない」

その言葉と表情と七海から感じる嬉しそうな気配と、全部が全部、お腹の中にいる子の存在を肯定してくれているとわかって。私はそれこそ赤子のようにわんわん声をあげて泣いたのだ。無茶してごめんね気づかなくてごめんねと。そして、一緒に喜んでくれてありがとうと。ぎゅっと抱きしめられながら、背中をゆっくりさすられる。つわりに胃痛もあるのか…と七海がぶつぶつ言っているのが耳元で聞こえてきて、本当だよと相槌を打ちたかったがそんなことも泣き声が許してくれなかった。もうちょっとわかりやすいつわりならよかったのに!と責任転嫁し始めた私の思考。その瞬間、不安はあれどもう大丈夫だと確信めいたものが生まれた。


・・・


ソファに移動して七海に抱えられるように座って、今後のことの話をする。そもそも呪術界に産休育休制度はあるのか、というかもう辞めてもいいんですよ?と七海から提案を受けるが、それはまだもうちょっと先かなと首を縦に振らなかった。明日以降の任務どうしようかな。伊地知君にだけは先に伝えて、後は安定期に入ったら公表して…と七海とぶつぶつ意見交換。その時はたと何かに気付いたのか、七海がちょっと待て・と手でこちらを制してきた。

「どうしたの?」
「あなたさっき今何週って言いました?」
「11週とちょっとだそうです」
「…と言うことは、渋谷での時にはすでに?」
「…いたねぇ」

思わず天を仰ぐ七海に、私もよくよく考えればそうだななんて思う。ハロウィンのあの時にはすでに妊娠していたのだ。その状態で呪詛師に二箇所も腹を刺されている。薬云々の前にそっちの方がやばい。思わず夫婦揃ってため息をついてしまった。少しでも刺された箇所がずれていたら、今ここにこの命は存在していない。

「よく生きててくれた」

七海がまだ膨らみもない腹を撫でてくれて、本当だねぇと私も同意する。誰かが守ってくれたのかもしれないなと思うけど、それは口に出さなかった。もしそれを七海に伝えたとしたら、その誰かは同じ人を連想するだろうから。

これからどうなるか全く未知だけど、あの修羅場を一緒に生き延びれたのだ、私たち家族は。それならもうなんでも大丈夫な気がしてきた。頑張るね、と七海を見上げて言えば、私が頑張ります・と生真面目に返してくれた。あははと思わず声を上げて笑った。


END
(20230720)


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