その私に対して圧倒的に不利な縛りは、私の想定以上に呪力量を底上げすると同時に空っぽだったそれを回復させるまでの効果をもたらした。身体に満ち満ちていく呪力を感じながら、小さく息を吐く。これなら七海のところに飛んで、無事を確かめるだけじゃない。一緒に戦うことだってできる。万が一の時はふたり一緒に帰ってくることだって。
これまでにない可能性を感じたせいか、妙な高揚感が心臓を高鳴らせ、異常なまでにアドレナリンが分泌されているなと感じた。冷静な自分と今の状況に興奮する自分。あは、と思わず出た笑いに、そばにいた硝子先輩は呆れたように肩を竦ませた。
「楓、あんた自分の怪我のこと忘れないで。いくら呪力が増えたからってその怪我じゃ身体の方が先に壊れるよ」
私が今できることは全部した、と硝子先輩は眉を顰めて忠告してくる。医師としては絶対止めるべきなんだけどね、とも。
呪詛師に刺された傷は完全に癒えていない。それこそ回復した呪力で自分自身に反転術式を使えればよかったのだが、それをする前に縛りを結んでしまった。今後私は自分の命を脅かす怪我をしたとしても自分で治すことができない。他人に対する効果はもちろん残っているので、聞く人が聞けば自分を治すことを放棄するとは、なんて不利な縛りを結んだのだと思われてしまいそう。だけど、反転術式を使える呪術師は一握り。自分が怪我をしたところで都度それを治して戦えていた方が有利、恵まれていたのだ。それにまだ私には術式が残っている。戦闘向きではないが、この術式と、反転術式のアウトプットを駆使すれば、まだまだいける。
ベッドから降りて、脱がされていたジャケットを手にとる。ジャケットの中に着込んでいたシャツは施術の時に破られたのか、今もう身に纏っていなかった。サラシ代わりのように胸から腹にかけて巻かれている包帯にはじわりと血が滲んでいたが、これはもう仕方がない。穴が空いて血で染まったジャケットを羽織って、行きますね・と硝子先輩の目を見る。
彼女は大袈裟にため息をついてみせ、止めてもきかないのがあんたたちだよ、と呆れたように煙草の煙を吐き出した。彼女の言うあんたたちが誰を指しているのかはすぐにわかった。なんとなく面白くて、聞き分けのない後輩たちですみませんと心にもないことを言ってみせた。硝子先輩は本当だよと嘆息しつつ、携帯灰皿に煙草を押し当てた。
「今はテンション上がって動けると思ってるだろうけど、その状況だと呪力切れの前に身体の方がダメになるからね。逃げ時、見誤るなよ」
硝子先輩は言いながら新しい煙草に火をつけて咥えた。それに頷いて私は行ってきますとただ一言。瞬間、術式を発動させて七海の元に飛んだ。
・・・
飛んだ先は、渋谷駅の地下だった。戦闘中でないことがすぐにわかるくらいそこは静かで、思わず左右を見渡すが七海はいない。七海の呪力を私が間違えるはずはない。どこに、と思った瞬間、それはすぐ足元にあった。七海の大鉈がまず視界に入り、次いでうつ伏せで倒れ伏している七海がいた。
「七海!」
しゃがみ込んで彼の身体を起こす。鍛えられた身体を反転させるのは苦労するが、今はそれどころじゃなかった。傷だらけな上、上半身はひどいやけど。全身真っ黒になるほど焼き爛れている。待って、息、してない?ゾッとして彼の胸に耳を当てる。微かな鼓動を感じることはできたが、ひどく弱々しい。息が止まってどれくらい経っている?いつから?背筋に悪寒が走ると同時に、全身に震えがまわってきた。それを無視して手のひらに呪力を集めて七海の身体に反転術式をかける。
「七海、七海!」
彼の名前を呼び続けて、戻ってきてと念じる。私の呪力に反応したのか、これまでここにいなかった呪霊がわらわらと集まってくる気配がしていた。時間がない。治りきらない傷。吹き返してくれない息。小さくなる鼓動。ああ、逝かないで。
『マウストゥマウスで正のエネルギーぶち込めば、体内の傷も一気に治せると思います?』
突如として、私や硝子先輩と同じく反転術式をアウトプットできる若い呪術師の彼がそう言っていた声が脳に響いた。人工呼吸みたいな…と言いつつ、でも緊急を要する時じゃないと自分の呪力もかなり消費するだろうから、と云々唸りながら考えをまとめようとしていた乙骨君に、それ呪霊相手にやれよ、一発で祓えるぞ・と五条先輩が揶揄うように言って、乙骨君は呪霊とキスはしたくないなぁと苦笑いしていた。私もそれを聞きながら、いざとなったらそれで祓うか…と呟いたら、絶対やめろと嫌悪感を隠すことを忘れた七海に間髪入れずに否定された。そのやりとりに五条先輩は、七海嫉妬深い〜と乙骨君から七海へと揶揄の方向を変えたのだけど。
今これを思い出すということは、そういうことなのかもしれない。
「起きて、七海…!」
彼の頭を膝に乗せて、その顎をすくう。血を吐いた後のある、乾いた七海の唇をひとつ撫でて、私はいつもするように彼の唇に自分の唇を押し当てた。半開きになったそこに、ふぅ…と呪力を流し込むイメージをする。一度もやったことのない方法だ。本当にうまくいっているのかわからない。万が一あの仮説が間違っていて、この方法も私ができる範疇を超えていたら。
それでも今はこうするしか方法はなかった。起きて。ねえ起きて。帰ろう、一緒に帰ろう。
息継ぎのために少しだけ唇を離し、またキスをする。おはようと彼を起こす朝のようにその頬を撫でる。冷や汗が首の後ろに浮かんで、おろしたままの髪が首にまとわりついて気持ち悪い。呪力がどんどん減っていくのを感じる。ちゃんと、七海へと流れてる?
もう一度酸素を取り込んで、唇を重ねた時だった。
ぴくりと七海の瞼が痙攣した。思わず唇を離せば、七海はくぐもった呻き声をあげてゆっくり目を開く。同時に息を吐き出して、いの一番に楓?と私の名を呼んだ。その声はいつもの、優しい七海の声に違いなかった。
「良かった…」
彼の頭を掻き抱くようにして、私は七海の心臓の音を確かめる。さっきまで止まりかけていたそれは今はもう動いていて、彼の身体は右半身を中心に傷も癒えてきていた。とはいえまだ傷とやけどは酷い状態なのに変わりはない。けれど、脳から近い口から反転術式を行ったおかげか、落ち窪んでいた左目は今ちゃんと元に戻っていて、その綺麗な深い海を思わせる色の瞳がこちらを見つめている。
「大丈夫?もうちょっと待って。あとちょっとだけ治させて」
今度は手のひらを彼の身体に翳し反転術式をかけ始めれば、もういいと手を掴まれ阻止された。それだけではない、身体を無理やり起こそうとするからそれを全力で制止して、断る彼を無視して反転術式を使い続ける。
「どうしてあなたがここに?」
「嫌な予感がしたから、七海のところに術式で飛んできたの。ちゃんと硝子先輩にも言ってきた。黙って抜け出したりしてないよ」
一通り説明をした気になっていたが、違う・と七海が言葉を遮った。ああ、察しが良い。この状態でも思考がしっかりしている。それは脳が正常であることを意味していて安堵する一方、彼が何かを言う前に全部気づかれてしまったなと悟った。
呪力切れで大怪我をしていたのになぜここにいて反転術式を使えているか問いただされて、間髪入れずに「裏技を使った」と告げた。それだけで彼はわかってしまったのだろう。切れ長の目を大きく瞠って、眉間に深く皺を寄せた。そして何かを考えた後、「本当に救いようのない馬鹿ですね…」と諦めたように呟かれた。
うん、私、救いようのない馬鹿なんだ。七海を喪いたくない一心で、絶対にするなと言われていた縛りを結んでここまでやってきた。そして、大量の呪力を消費して反転術式で七海をここまで治した。本当は七海が完治するくらい治してから一緒に戦って…と思っていたのだけれど。どうやらそれは無理そうで。
先ほどからジャケットの下の包帯がじわじわと濡れる感覚がしていた。また出血し始めたのだろう。安心したことで痛覚が戻って来たのか、思わず眉を顰めて腹を押さえれば、それを七海は見逃しはしなかった。思い切りジャケットをはだけられて、もうすっかり真っ赤に染まった包帯を見られる。チッと大きく舌打ちをされた。
「楓、あなたは早く離脱してください。私は伏黒君たちを助けにいかなければ」
「七海、だめ」
ジャケットを掴む彼の右の手首を握って、私は制止する。ああ、いよいよアドレナリンも切れた。冷や汗が脂汗に変わって額に滲む。このまま七海とまた別れたら、きっともう二度と私たちは会うことはできない。
「私たちは十分やった」
私は自分にも言い聞かせるように、噛み締めるように七海に向かってそう言い切った。
「七海、言ったよね。七海の存在が私にとっての死ねない理由になればいいって」
それは十年近く前、灰原の墓前の前でプロポーズされた時の言葉だ。高専卒業と同時に結婚した私たちは、お互いの命の重石となった。あの時、七海から一方的に結ばれた縛りは今は生きている。それを今ここで反故になんてさせない。
「ちゃんと生きて、私の死ねない理由のままでいてよ。一緒に生きて帰ろう」
傷の痛みなんてもうどうでも良かった。渾身の力で彼を抱きしめながら、お願いだから一緒に生きて、と懇願する。私の生きる理由になって。七海にとっても私が生きる理由であるように。片方だけじゃだめなのだ。お互いがお互いの命の重石になるために私たちは一緒になった。愛だってある。誰よりも守りたいのはこの人だ。だから今、この手を、身体を離してはいけない。絶対に一緒に生きて帰る。そのためには今はもう離脱しか選択肢はない。
一方的に抱きしめてどれくらい時間が経っただろう。永遠のように長く感じたが、それはおそらく一瞬だったと思う。七海が天を仰ぐ気配がして、私の背に大きな腕が回された。
「楓にそこまで言われるとは思ってなかった」
観念したように息を吐き出しながら七海は言って、一度ぎゅっと身体を抱き寄せられた。そして、これ以上は傷に障る、と自分から少し距離を取った。その代わりというように、私の頭を優しく撫でて、柔らかく笑みを浮かべた。
「後少し無理をさせてしまうことになる。申し訳ないが、一緒に、ここから飛んでもらっていいですか?」
それは私の術式で共に離脱することを彼が選んでくれたことを意味していた。傷に障ると言われたばかりなのに、私は構わず彼に抱きつき返し、帰ろう・と固く目を閉じて呟いた。それに応えるように彼も再び私の背に腕を回してくれる。すっぽり身体を抱え込まれて、少しの隙間もないくらい抱き合って。私は小さく「術式発動」と呟いた。飛ぶ先は、硝子先輩のところ。頭の中の引き出しから硝子先輩の呪力を取り出して、そこに向かって飛んだ。私たちは、足掻いてでも生きることを選んだ。
抱き合ったまま飛んだ先で、硝子先輩の呆れたような、安堵したような顔を見た瞬間、私は呪力を切らしてパタリと意識を失ったのだけど、しっかりその身体は七海に受け止められて。その時、ああ、一緒に生きている、帰ってこれた。そのことを心から実感し、感謝した。
END
(20230716)