諸悪の根源
己の不甲斐なさに腹が立つなどということは、今までもそしてこれからも私の人生では有り得ない。
ただひたすらに、この現実を突きつけてくる諸悪を。
ただひたすらに。

「ナメやがって」

駆けつけた歩道橋の上。視界に飛び込んできたのは、血だらけで折り重なるように倒れる楓と伊地知だった。



五条悟が封印された。もたらされた最悪の一報と、まさに伏魔殿と化した渋谷駅。猪野、伏黒、虎杖の三人に"術師を入れない帳"の解除を頼み、この状況を打破するべく各種要請を通すために帳の外に出た。伊地知は13番出口付近の歩道橋で補助監督たちをまとめて情報を一元管理しているはずだ。要請を済ませると同時に現状の把握と情報交換、今後の対応を練れれば良いが。
頭の中でマルチタスクが箇条書きで描かれていって、それをどう最短で確実にこなしていくかを組み立てる。他の班はどうなっているのか。後方支援で飛び回っているであろう楓は。彼女ともどこかで合流して状況を共有し合えればいいのだけど。

歩道橋の階段を駆け上がる。最上段にたどり着いて一番に目に入ってきたのは真っ赤な色だった。ついで鉄の匂いがその場に立ち込めていることに気づき、は?と声が漏れる。視認した血液は明らかにひとり分ではない。大量の血は歩道橋の真ん中からこちら側にかけて広がってきている。多少傾斜がついているのか、とどうでもいいことが過って思考を放棄しようとするが、なんとかそれを理性で食い止めてそこへ走った。

はじめは伊地知と、誰が倒れているかわからなかった。伊地知の下敷きになるように倒れているのは小柄な人物。投げ出された左手の薬指には自分が贈った指輪が。それを見とめる前に、そこにいるのは楓だということは気づいていたのだけど。
呆然とふたりを見下ろして、情報を完結させようとするがそれはできなかった。伊地知のスーツは背中側がいくつも穴が空いていて、血が大量に溢れたのだろう、中の白いワイシャツまでぐっしょり血の色に染まっていた。しかし剥き出しの肌の傷は今塞がっているように見える。表面だけで中はどうなっているかわからないが。
そして。

「…ナメやがって」

思わず口から出た悪態と同時に膝をついて楓の真っ青な頬を撫でる。う…と小さく呻く声が聞こえて、なんとか生きていることに安堵した。状況から見て伊地知を反転術式で治している最中彼女も襲われたのだろう。脇腹と鳩尾にそれぞれ貫通した刀傷がみえる。残穢を探ればそれは呪霊の仕業ではない、人間…呪詛師だ。呪詛師相手となると楓の術式は相性が最悪だ。脇腹の傷はかろうじて塞ごうとした形跡が見られるが、鳩尾の傷は全く手付かず。癒やされていない。この傷を負わされた直後に気絶したか。
大鉈を背中から外して代わりに伊地知を背負い、肩から腕を回させてネクタイで手首を縛って落ちないように固定する。そして血の海から楓を抱き上げて、大鉈を手にした。人ふたりを担いでいるとは思えないくらい何も感じなかった。全身に溢れているのはアドレナリンか。腕の中で苦しそうに呻く楓に額をぶつけて、「すぐに家入さんのところに連れて行きます。もう少し我慢を」と囁いた。

ナメやがって。クソが。

ここに残された残穢は覚えた。絶対に始末をつける。
楓と伊地知に声を掛け続けて1キロほど離れた家入と夜蛾学長がいる救護ブースへと急ぐ。全力で駆けたかったが、ふたりの傷にも障るので激しく動けず、さらに焦りから舌打ちが漏れる。

「楓、耐えてくださいよ」

彼女を抱く腕に力を入れた時だった。ぴくりともしなかった彼女の指先が動く。そして次の瞬間、小さく口が動いたのを見逃さなかった。

「楓?!」
「…術式、発動」

消え入りそうな声と同時に身体に襲う浮遊感。ほんのコンマ数秒。何が起こったかわからずその場に膝をつけば、「七海?!」と頭上から声が落ちてきた。見上げたそこにいたのは、手すりから身を乗り出した家入の姿。思わず周辺を見渡せば、ここは渋谷料金所。救護ブースだ。まさか。腕の中で咳き込むと同時に血を大量に吐いた楓は、細く目を開けて「呪力もうからっぽ」とわざと軽く言って、しかし苦しそうに笑った。

「馬鹿か」

思わず吐き出すように出た悪態を、彼女はごめんって…と呟き目を閉じて受け止める。学長が降りてきて、背中の伊地知を引き取ってくれた。急いで階段を登り楓をベッドに寝かせて家入に診せる。先に伊地知を診た彼女は、「伊地知は大丈夫、ほとんど楓が治してるね」と言ってすぐに楓の元にやってきた。

「…無茶してるね。呪力も焼き切れてるよ」
「なんとかなりますか」

最後の力を振り絞り、なんてことを思いたくないしそんな表現など使いたくない。楓自身、自分をというより伊地知を早く家入に診せるためと、救護ブースにふたりを運ぶ自分を早くフリーにするために術式を発動させたのだろう。その呪力が残っているなら自分の怪我をなんとかしてほしかった。

「なんとかするから、お前は行け」

ゴム手袋を装着しながら家入は楓の服を破いていく。視認できるだけで大きな傷はふたつ。脇腹と鳩尾を貫通させた傷。舌打ちとともに、彼女の指をそっと握る。もう楓は完全に意識を失っていた。早くここから離れなければならない。戦闘に戻らなければ。それなのにどうしても動けなかった。今ここで彼女から離れたら、何故かもう二度と会えない気がして。
楓の指を握る七海を見とめた家入がぽつりと呟く。

「楓な、泣きながら何回もここ来てるんだよ。補助監督たちが襲われて、怪我治してここに運んできてた。死んでる奴も相当いるらしい」

治して運んでを繰り返したから呪力切れたんだろうな、と家入は他人事のように呟くが、その手は止まらない。反転術式と医療技術の抱き合わせで楓の傷をどうにかしていく。
楓の顔は血で汚れていたけど、ところどころ涙の跡があった。傷が苦しくて流した涙かと思っていたが、仲間が傷つけられたことに対する悔し涙だったのか。どこまでいってもお人好しで、甘っちょろい。さっさと術式を使うことをやめてここで常駐していればよかったのに。

「…楓を頼みます」

家入に頭を下げて、彼女の手を離す。彼女を傷つけた呪詛師の場所はなんとなくわかる。残穢が色濃く残っていた。
絶対に許さない。
大鉈を背負い直し、救護ブースを出た。振り返りたい気持ちは捨てて、今すべき仕事をするために。全力で駆けた。


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