呪いの言葉
「ええ、釘崎さんと新田さんの救護を頼みます。ふたりとも怪我をしています」

電話口の向こうで家入に簡潔に状況を共有すれば、位置情報を送ってくれればすぐに人を向かわせると言ってくれた。話が早くて助かる。帳外なのが幸いした。帳内だと電波が遮断されているためこんなに簡単に情報の共有や救護要請はできなかっただろう。ソファに座らせているふたりをチラリと見れば、ふたりとも神妙な面持ちのままだった。新田はひどい傷を負っていたので、痛みに耐えるように眉間に皺を寄せて顔を歪めている。

『七海。楓だけどな。治療は続けているが、一命は取り留めた』

本当はいの一番に聞きたかった情報を彼女の方がくれた。思わず天を仰ぎ安堵の息を吐く。あの傷でよく一命を取り留めてくれた。ほとんど意識がない中術式を発動し呪力を焼き切った時にはどうなるかと思ったが。甘っちょろいがそのしぶとさは健在のようで、心底安心した。意識は回復してないから話せないけどな、と家入が言う。生きているならそれで十分です・と簡単に、しかし本音を返して電話を切った。

ソファで待っていたふたりのもとに行き、膝をついて目線を合わせる。外と連絡が取れてこれから救護がくることと、現在の渋谷の状況の説明。伊地知は無事であることを伝えれば安心したように表情をやわらげたが、ふたりは五条が封印されたことを知らなかった。それを伝えた途端にまた表情が険しくなる。

「私たち伊地知さんのところに向かう途中、楓さんと会ったんです。楓さんは無事ですか?」
「伊地知くんと同じあのクソ呪詛師にやられていましたが、今は一命を取り留めて救護ブースにいますよ」

先ほど殴り飛ばした呪詛師のことを無意識にクソと枕詞をつけて呼べば、釘崎が口の中で小さく「クソ呪詛師…」と反復した。その表情は強張りから少しだけ半笑いになった気がするが、すぐにそれは心配の色に戻った。

「ふたりはここで救護を待って下さい。私は禪院さん達と地下5階に向かいます」

地下5階には五条が封印された獄門疆がある。なんとしても奪わなければ。立ち上がろうとした瞬間釘崎が、私もと顔を上げた。何を言おうとしているかは最後まで聞かずとも分かる。駄目ですと即座に否定すれば、彼女は唇を噛んで俯いた。これからは特級呪霊相当との戦いになる。一級で最低レベルだ。

「足手纏い、邪魔です。ここで待機を」

わざと突き放すように言い放てば、顔を下げていた釘崎がまっすぐとこちらに視線を向けてきた。その根拠のない勝ち気な表情は、何故か学生時代の楓を想起させる。楓も戦闘向きの術式ではないのに、無理やり格上の呪霊とやり合うと聞かず前線に出たがった。その度に今の釘崎にしたようにきつく止めては不貞腐れる彼女を灰原が宥めるというやりとりを何度も何度もやっていた。灰原がいなくなってからは自分が両方の役目を果たす必要に迫られたが、楓も楓である程度は弁えるようになっていたからなんとかなっていたけれど(ある程度、なので勿論こちらが想定していない無茶をした時だってあった。その度に肝が冷えたし、今回のことだって同じ、いや、これまで以上のやらかしだ)。

「七海さんって、楓さんの旦那なんですよね」

この場でその話題が出ることは全く予期していなかったので、思わず虚を突かれて彼女を見返した。確かに釘崎と直接会って話すのはこれがはじめてだ。自分と楓が夫婦であることは高専関係者であれば知っているものがほとんどだろうが、わざわざこうやって聞いてくるものはここ数年もう稀な存在になっていた。こちらの返事を待たずに釘崎は続ける。

「楓さんにはいつも任務でお世話になってるんで…。今度家にご飯食べにきて、旦那の作るご飯美味しいからって言われてて」

ねえ新田ちゃん、と釘崎は隣に座る新田にも同意を求めるように声を掛ければ、彼女も彼女でひとつ頷いた。初耳だ。楓から釘崎と任務で一緒になったとは聞いたことがあったが、そんな会話をしていたとは。しかも、自分が食事を振る舞うことになっている。楓、聞いてませんけど。しかしそういうところがなんとも彼女らしい。呪術界には女性の呪術師が決して多くないので、高専の後輩ができたことが単純に嬉しいのだろう。きっとこんな時じゃなければ、楓に釘崎にこんなことを言われたと問い詰めて「言ってなかったっけ?!」とびっくりした顔をされるのが安易に想像できたし、ふたりが自宅に訪ねてきて嬉しそうにはしゃぐ楓の姿が頭に浮かんだ。

「いつでもどうぞ。この件が片付いたら彼女と日程を調整しておいてください」

地下に向かうため踵を返しながらそう告げれば、背後から、はい!とふたりの声が重なって聞こえた。楓。早く起きてください。ふたりを招く日のことを相談しないと。心の中で楓に声をかけて、地下へ急いだ。


・・・


新調したばかりのベッドのシーツに身体を沈めながら荒い息を整える。うつ伏せの状態は胸が潰れるから痛い。けれど身体を起こすことも仰向けに体勢を変えることもだるくて、しばらくそのままの状態で時計の針が動く音を聞いていた。時を刻む音、それはまるで鼓動の音にシンクロするようで。隣に視線を向けるが、そこに七海はいない。先にシャワーを浴びに行ったか。いや、あの男はそんなことしない。しっかり最後まで面倒を見てくれる律儀なところがある。それは新婚当初から結婚して数年経つ今も変わらない。

「…呪力、上がらないかなぁ」

もやがかる思考の中、なんとなく思い浮かんだことを声に出してみた。

「あなた…ムードって言葉知ってますか?」

声が聞こえたからだるい身体を少しだけ動かせば、寝室の入り口で呆れた顔をしている七海が立っていた。パジャマのズボンだけ履いて、上半身は裸のまま。ペットボトルの水を手に、こちらに歩み寄ってくる。ああ、水を取りに行ってくれていたのね、と合点がいく。鍛え上げられた筋肉は硬いようでしなやかで柔らかい。それが良い筋肉の証拠らしい。なんで知っているかって?さっきまでその身体に組み敷かれて、こちらもしっかりと抱きついていたからね。
七海はベッドに座り、ペットボトルの蓋を開けて渡そうとしてくれる。ムード、ムードねぇ…と呟く私の声は掠れていた。ほんの少しだけいたずら心が湧いて、「飲ませて」とおねだりしてみれば、彼は呆れたような顔をした後、自分の口に水を含んでそのままキスをしてきた。口移しってやつですか。これがムードか、とムードには程遠いことを考えながら、舌でゆっくり口をこじ開けられ口内に入ってきた常温の水をゆっくり嚥下した。
高専卒業と同時に交際0日で結婚してもう五年以上経つが、それなりに私たちは仲の良い夫婦だと思う。公私混同はしないけれど、仕事終わりや休日はふたりで過ごすことがほとんどだし、こうやって抱き合うことだって少なくない。お互いの命の重石になるために結婚を決めたけど、ちゃんとその間に愛はある。七海の大きな手で優しく髪を撫でられるたびにそれを実感する。

「ムード作ってくれてるところごめんね。さっきの話なんだけど」

七海の腕を引っ張って彼をベッドの中に誘う。呪力がどうとか言ってましたね、と七海は諦めたのかペットボトルをサイドテーブルに置いて、素直にベッドの中に入り込んできた。肘をついてうつ伏せの姿勢を保った彼の顔はすぐ横にある。その端正な顔を眺めながら、あのね・とずっと考えていたことを口にした。

「七海は時間で縛りを結んで呪力上げてるでしょう?私もそういうのできないかなぁって」
「私の場合、時間内は呪力を制限しているだけで根本的に呪力量を底上げしているわけじゃない。それに楓の術式にそこまで呪力は必要ないでしょう。元々呪力量も少ないんだから、縛りを結ぶにはリスクの方が大きい」
「うーん…」
「無理やり縛りを結んで何かあってからでは遅い。今のままでいいのでは?」

煮え切らない返事をすれば、七海が正論を説いてくる。確かにその通りなのだ。そもそも戦闘向きではない術式。それに反転術式が使えることで、家入先輩のように医師免許を取って高専の医師になり治療に専念する道を選んでも良かった。しかし、その道を選ばなかったのはひとえに戦う術があるなら戦いたい。ただそれだけの理由から。
いつもの私なら、そうだね・で話を終わらせてだるさと睡魔に身を任せてそのまま眠っていただろう。なのに今日は徐々に襲ってきた睡魔が逆に作用してしまって、気づいたらずっと考えてきたことが思わず口から漏れてしまった。

「例えばさ、反転術式を自分に使わないって縛りを課したら、まあまあ呪力跳ね上がると思うんだよね」

いくらほぼ無意識に呟いたとはいえ、何気なく、いつもと同じ調子のはずだった。しかし。

「おい」

ものすごく低くて殺意をも思わせるその声。その声とともに一瞬にして隣にいる七海の雰囲気が変わる。それを間近で浴びた私の睡魔は瞬時に掻き消されてしまった。恐る恐る七海の方を見れば、彼は表情を消して、しかしこめかみと額に青筋を立ててこちらをじっと見ていた。あ、キレてる。長い付き合いだ。彼の逆鱗がどこにあるかは重々承知しているはずだったが、まさかこれもそうだとは。
あまりの迫力に身体が固まり返事すら出来かねていれば、七海は先程と同じトーンで言葉を続けた。

「絶対にやめろ」

それは有無を言わさないものだった。無表情から一変し、呆れを通り越して怒りで彩られている。目は据わり、眉間には皺が。ピリッとした空気はムードなんて言っていた男が発していいものではなかった。
時間にすればほんの一瞬だっただろうが、あまりの空気に七海自身が少し冷静になったのか、大きく、そして長くため息を吐いてベッドから出てその場にあぐらをかいた。あ、私もこれはさすがに寝たままじゃダメなやつだ。そう思って胸元にシーツを手繰り寄せて自分も彼に向き合って座る。

「呪術師としてではなく、あなたの夫として言います。何を犠牲にしても最後は自分が生き残るように足掻いてください。反転術式も生き残るための手段のひとつだ」

真剣な目とトーンで諭すように言葉を浴びせられ、私は思わず身体を小さくする。こんな何気ない呟きひとつでここまで彼を豹変させるとは思わなかった。少し考えてただけだよ・と言い訳じみたことを呟けば、あなたの少し考えていたは危険なんですよ、とまた溜め息を吐かれた。否定できない。うーん、と首をすくめてから、また頭に浮かんだことが何も考えずに口からこぼれていく。

「なんだか、“最後は自分が生き残るように“って、呪いの言葉みたい」
「いいですよ呪いで。それで楓が死なないのなら」

そっと抱きしめられて、ああ、彼にとって私という存在は思っている以上に大きいんだななんて呑気なことを実感した。誰かに話せば惚気かと笑われそうだし、七海は七海でこの手の話題を嫌がるだろうから、この話はこれでもうおしまい。ごめんね、と彼の背に腕を回して、死なないから大丈夫だよと何故か自分が彼を慰めるようにその大きな背を撫で続けたのだった。

・・・

なんだか、とても懐かしくて、けれどとても鮮明な夢を見ていた。息を吐き出してゆっくり目を開けば、鉄骨が剥き出た天井が目に飛び込んできた。高専でも自宅でもない。身体がひどく痛くて思わず呻くと「起きたか」と少し離れたところから硝子先輩が歩いてきた。あ、ここ救護ブースだ。頭が少しずつ働き出せば、硝子先輩の手に煙草があるのにも気づいた。「禁煙は…?」と思わず問えば「少し学生時代を思い出してね」と先輩は床にそれを落としてヒールの先で踏みつけた。

「私…」

頭を抑えて起きあがろうとすれば、まだ無理だろ・と彼女に止められる。覚えているのは、伊地知くんを治癒している間に敵に襲われ共倒れしたこと。いつの間にか七海に抱えられていて、指をそっと握られていたこと。最後は目を開けることもできなかったけど、その温もりは確かに私に伝わっていた。

「七海は帳の内だ。禪院班と合流すると言ってたからおそらく地下で戦ってる」

渋谷駅の地下は改造人間と特級呪霊もどきがゴロゴロしていると聞いた。二級の私が駆けつけたところで足手纏いの何者でもない。ただでさえそんな状況なのに、呪力切れを起こしてぼろぼろの私が行ったところで邪魔になるだけなのはわかりきっている。ここで大人しく全てが終わるのを待っているのが最善だと、頭ではわかっていた。わかっていたけれど。
頭に過ぎった考えは正気ではないと自分でも理解できた。理解できたからこそ頬が不自然に引き攣る。なんだかとても嫌な予感がするのだ。渋谷にきた時からずっと嫌なアラートが頭の中で鳴り響いていて、それは今も鳴り止むどころかどんどん大きくなっている。私にできることはない。ないけれど。それでも。
意を決して生唾を飲み込む。身体を起こして、手のひらを見つめた。左の薬指、七海とお揃いの結婚指輪は無事だ。指輪を握り込むようにして、ベッドのすぐそばまで来てくれていた硝子先輩を見上げる。

「…すぐに戻ってくるので、一度七海のところに行ってもいいですか?無事を確かめて、怪我してたら治してすぐ戻ってくるので」

目を丸くした硝子先輩は、お前呪力切れてるだろ・と返してくる。その通り、呪力は空っぽ。でも、ひとつだけそれを回復させて、七海のところまで飛んで、傷を治して、帰ってくる方法がある。怒るかな、怒るよね。怒るのはわかってるよ。わかってるけど。

ごめんね、七海。

「自分自身に、縛りを課します」

自分の発した声を契機に、時間が止まった気がした。


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