死闘を繰り広げているのに、そう何度も何度も思わずにはいられなかった。戦闘に集中しているはずなのに、どうしても脳裏に焼きついて離れないのが楓の存在で。彼女が生きているなら何でもいい。そう思いながら、大鉈を振るい続けた。
禪院班と合流し五条封印の情報共有。その後陀艮という呪霊との戦闘。一級術師がふたりも揃っているのに祓えないレベルの強敵に領域を展開された。結果、その場にいた全員が領域内に引きずり込まれ、必中攻撃を集中して浴びることとなる。ここに楓がいたら耐えられるはずのないレベルの攻撃だった(耐えた真希が例外だ)。自分もこの必中攻撃で左目を負傷し、ひたすら溢れる式神からの攻撃に耐えるしかなかった。そんな絶体絶命の状況を変えたのは、領域展開の押し合いで呪霊の必中を消してくれた伏黒の加勢と、彼の領域に侵入してきた正体不明の人物。自分たちが手も足も出なかった呪霊を呪具ひとつで難なく祓ったその男は、領域が消えた瞬間伏黒を外へと連れ出して消えた。味方なのかもわからない。ただその恐ろしいまでの強さは異常。直毘人に『甚爾』と呼ばれていたが、禪院家の関係者なのだろうか(そんな人物がいるなど、聞いたこともない)。咄嗟にその場にいた全員が、連れ去られた伏黒を追おうとした。その瞬間だった。
「逝ったか…陀艮」
突如その声とともに現れた禍々しい呪力。目に飛び込んできた異形の姿からそれは呪霊だと一目でわかる。しかしそれ以上に、陀艮という呪霊よりも格段に強い。ぞくりと背筋に悪寒が走った瞬間、凍てついた視線が自分に向けられた。それを自覚したとほぼ同時に呪霊が自分の腹に触れていた。全く、動くことができなかった。
「一人目」
その声と共に手から噴射された熱風。否、熱風ではない。炎だ。尋常じゃない出力量の炎が上半身を包む。炎の熱さを感じる暇もなく膝をついた。ああ、本当にここに楓がいなくて良かった。また楓のことを思って、今はそんな場合じゃないと頭を振る。しかし本当にそんな行動ができたかすら怪しかった。自分を包む炎の威力は強大で、すぐそばにいた真希たちもその呪霊の炎に包まれていた。
皮膚が溶ける感触がする。
炎の大きさと熱さは比例しないのか。
連れ去られた伏黒を、助けに行かなければ。
楓は無事なのか。
熱風を吸い込んでしまった、肺が焼けた。
そんな取り留めのない思考が一瞬で頭の中を駆け抜けていく。目がぐるりと回る。場違いにも程があるが、自宅のキッチンで料理をしながらニコリと笑ってみせた楓の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、意識が飛んだ、気がした。
・・・
『七海、七海…』
遠くで心地の良い声が聞こえる。ああ、これも先ほど見た気がした走馬灯の一種なのか。その声を自分が間違えるはずはない。楓がすぐそばにいる。そんなはずないのに。そんなことを思いながら楓の声を聞き続ける。その間、ぽわっと冷えた身体が少しずつ温まり、炎で焼かれた肌の痛みが少しずつやわらいでいっていた。この感覚を自分は知っている。患部に直接ずどんと呪力をぶつけられて一気に治癒する家入とは違う、柔らかくゆっくり修復を促すような楓の反転術式。どうしてその感覚まで今ここで再現されるのか。
「起きて、七海…!」
脳内ではなく、耳元で楓の声がはっきりと聞こえた気がした。その瞬間、目が開く。明るさに目が眩んで目を細めてしまったが、ぼんやりとした視界の真ん中に鎮座するのは、必死に自分の名を呼んでくれていた声の主。七海!!と泣きそうな顔をしていた楓がそこにはいた。
「楓…?」
楓本人なのか?いや、自分が楓を間違える筈など無い。自分の右手は彼女の右手に握られていて、楓の左手は自分の腹のあたりにかざされていた。ぽわっとした柔らかい光が自分を包んでいる。そして自分が今彼女の膝に頭を置いていることがその柔らかな感触から理解することができた。いやそういう理解は今必要無い。なぜ、重傷かつ呪力切れで倒れたはずの楓がここにいるのか。
「大丈夫?もうちょっと待って。あとちょっとだけ治させて」
「、もういい。動けます」
泣きそうな彼女の手をとって、反転術式の発動をやめさせる。白くて柔い彼女の手を握った自分の左手はひどい状況だった。やけどで皮膚は焼け爛れ血が滲んでいる。爪は全部焼けて剥がれていたけれど、奇跡的に薬指の指輪は少し焦げてはいるものの無事だった。ああ良かった。彼女との関係を示す証はまだここにちゃんと残っている。
楓の膝から頭を上げて身体を起こす。全身の痛みで思わず呻けば、「だからあとちょっと!」と楓は傷が少ない右腕を掴んできた。そんな彼女の言うことを無視して周囲を見渡す。先ほど呪霊に攻撃を受けた場所ではない。同じ場所で攻撃を受けた真希たちもいなかった。
伏黒を助けに行かなければという一心で、意識を失ったあと勝手に身体が動いたのだろう。しかしそれも途中で力尽きて倒れた。よくその間呪霊に襲われなかったものだ。そしてそこにどういうわけか楓が現れて、今の今まで治療してくれていたというところだろう。
「どうしてあなたがここに?」
「嫌な予感がしたから、七海のところに術式で飛んできたの。ちゃんと硝子先輩にも言ってきた。黙って抜け出したりしてないよ」
違う、そういうことを聞きたいのではない。
思わず舌打ちが出そうになったがそれを飲み込んで、違います・と否定する。
「楓、あなた呪力切れてたでしょう。大怪我もしていた。そのあなたが何故、ここまで飛んできて、反転術式を使えてる?」
「裏技使った」
簡単明瞭に聞こえて、それは自分にしか伝わらない言い方だった。いつかの休日、ベッドで話したことを思い出す。呪力を上げるために反転術式を自分自身に使えない縛りを結ぶのはどうか・と彼女は言った。その縛りの内容は到底看過できるものではなかったので、絶対にやめろと釘を刺したのに。呪力が切れていたはずの彼女が術式を使って飛んできて、反転術式を使えている。その事実から、彼女の言う裏技が何を示していて、彼女が何をしてここまできたのか、手に取るようにわかってしまった。愕然と彼女を見つめれば、楓は「謝らないからね」と毅然に言い放つ。そうだ、こういうことを彼女はするのだ。絶対にやめろと言ったことも、必要に迫られたら自分の身を顧みずに実行する。死に急ぐタイプ。自分の命を軽く考えて、他人を救おうとするのだ。だから、お互いの命の重石になるために結婚した。愛を交わし合った。それは口にはしないが、自分なりの縛りのつもりだったのに。
「あなたは…本当に救いようのない馬鹿ですね…」
諦めたように呟けば、ごめんね・と彼女は言った。今謝らないと宣言したばかりだと言うのに。左目は完全に眼球がダメになってしまったようだ。こちら側の瞳に楓が映ることはもうない。けれど、触れることはできる。まだ無事な右手で彼女の白い頬を撫でれば、彼女は目を逸らすこともせずにこちらをじっと見つめてきた。
「謝るくらいならこんなことしないでください」
「うん、でもね、絶対死なないようにするから。それは守るから許してね」
足掻いてでも死ぬなと約束させたのは縛りの話をした直後だった。それを守ってくれるなら、もうなんでもいい。そう思ってしまうくらいには今の状況は絶望的だった。けれど、彼女に会えた。もう二度と会えないかもしれないと覚悟したのに。
許すも何も。自分は彼女のおかげで今生きていると言うのに。
「足掻いてでも生き延びること。これだけは守らないと絶対に許さない」
まっすぐ彼女を見つめながら言えば、楓は大きく頷いた。七海が生きてて良かった・そう消え入りそうな声を絞り出して、彼女は啜り泣いた。血濡れてボロボロになった自分の胸に彼女を抱く。傷だらけの胸に抱かれるなんて気持ち悪いだろうが、今は彼女を抱きしめたくて仕方なかったのだ。泣かないでほしい。生き延びてほしい。一緒に帰りたい。そんなことを、ただただ思ってしまった。
・・・
「ねえ七海。この戦いが終わったら何しよっか」
渋谷駅から出るために、ふたり並んで駅構内を歩く。情報共有を終えた今、話すことは本当に他愛のない内容ばかりだった。瞬間移動で七海の元に辿り着いたとき、彼はもう息をしていなかった。渾身の力で反転術式を発動してなんとか心臓を動かして、動けるようになるまで回復させた。けれど、それは本当に一時的なものだと思う。そして想定外の事態に私の縛りを結んでまで底上げした呪力はまた尽きかけていた。でも、“自分に反転術式を使わない”という縛りのおかげで、言い方はどうかと思うけど、仲間をもう一度この世界に連れ戻すことができたのだ。だから後悔はない。
けれど、渾身の力を使っても、七海の左半身は私の反転術式じゃ治せないくらい焼け爛れていた。他にも大きな傷がいくつも残っていて、正直立って歩けているこの状況が奇跡に近い。かくいう私も硝子先輩に治してもらったとはいえ呪詛師から受けた傷はまだ完治しておらず、呪力をまた一気に消費したせいでずきずきと身体の中から嫌な痛みが広がっていた。
本当は今すぐ七海と一緒に救護ブースまで飛びたかったが、短時間で七海に反転術式を行使したことでふたりで飛ぶ呪力はもう残っていなかった。というか、もうひとりで飛ぶことも無理だろう。術式も反転術式ももう使えない状態だった。呪力はもう空っぽ。ふらふらとする頭と足取りを叱咤し、喋ることで意識を保っている。不甲斐ない。それが悔しくて謝る私に、彼は「伏黒くんを助けに行かなければ」とまだ戦うことを選んだ。本当は、もうやめてほしい。一緒に帰ろうと手を引いて家に帰りたかった。一緒に映画をみて、同じベッドで眠って、明日の朝、向かい合って朝食をとって。来るはずだった当たり前の日常を今すぐ取り戻したい。しかし、それはもう難しいかもしれないと覚悟してしまうほどには、渋谷は惨劇だった。
だからあえて、この戦いが終わったあとのことを考えて、お互い会話する。現実逃避と言われればそれまでだけど、今はもう、それに縋るしか無いのだ。
「それとも何かしてほしいことある?七海めっちゃ頑張ってるから、私、お願い叶えるよ」
ご褒美ね!とわざと明るく言ってみれば、それはあなたも同じでしょう・と七海も呆れたように笑った。けれど彼は、そうだなと思案するように顎に手を置いて何か考えている。ふたりとも、足は止まらない。足を止めないまま、七海はこちらに顔を向けて、まっすぐ視線を合わせて言った。
「そろそろ名前で呼んでくれませんか?」
予想外の彼の“お願い”に、私は思わず足を止めて目を丸くした。
「…今更?」
「今更です。あなたももう十年近く“七海”でしょう」
思いがけなかった彼のお願いに、私は思わずまじか…と呟く。まじです・七海がすぐに復唱した。高専時代から七海は七海だ。十年以上彼の呼び方は変わっていない。それは結婚してからも同じ。七海は呼び方なんて好きにどうぞというタイプだったし、私も私で結婚前から七海呼びだったので、今更呼び方を変えるのは照れくさかったのだ。確かに結婚後は私も七海楓になっているけれど、仕事は旧姓で通しているから、彼に対する七海呼びにそこまで違和感はなかった。それを今更。本当に今更。七海の名前を呼ぶと思ったら、すごく照れくさくて恥ずかしい。想像するだけで恥ずかしさの方が勝ってしまう。本当に今更なんだけれど。
「…ちょっと考える」
「前向きにお願いしますよ。そういえば、釘崎さんと新田さんに会いました。うちに来るとか」
「あ、そうそう。前に任務が一緒になってね。絶対お家おしゃれでしょ、行ってみたい!て野薔薇ちゃんが」
「おしゃれ…別に普通では」
「七海のセンスが遺憾無く発揮されてます。私は好きよ、私たちの家」
そんな他愛の無い話をずっとしていた気がした。この時間は今の私たちが一番求めているものだったのだ。そして願くば、このまま敵も襲って来ずに、全部終わりましたよ!て誰かが呼びにきてくれたらいい。でもそれはきっと叶わないと、この先何が起こるか、本能が察していたのかもしれない。
七海の右隣を歩きながら、また脳内のアラートが鳴り響くのを感じる。空っぽの呪力をさらに縛りを課すことで、最期に一度だけと術式を使って以後失うことになってでも七海と無理やり飛ぶか?そんなことが頭に過ぎるが、彼が望んでいないことを今更無理やりしたく無いという気持ちもせめぎ合っていた。きっと私はこの判断を後悔する。そこまでわかっているのに。どうしても、今は彼の隣に並んで歩きながら、なんでもない話をしたかった。ふたりの将来の話をし続けていたかった。
「でもさ、好きでやってるとはいえ、やっぱり呪術師やるのって疲れるよね」
「あなた自分に反転術式使えなくしたんだから、呪術師辞めるか医師になってくれません?もう絶対前線には出させない」
「いやいや唐突。それに今から医師免許とるのは相当きつい」
「勉強見てあげますよ、高専の時みたいに」
座学、あなたまるでダメでしたからね・と呆れたように言う七海に、懐かしさを感じてははっと笑って改札を目指す。勉強が苦手な私はテスト前にいつも七海と灰原に教えてもらっていた。さっき教えたでしょう!と呆れる七海と、俺もよくわかんなくなってきたと明るく堂々と言い放つ灰原。わかんないよねぇと示し合わせたように私と灰原は顔を見合わせ首を傾げれば、七海がとても大きなため息を吐く。そこまでが毎回定番のやりとりだった。ああ、懐かしい。とても楽しかった。
階段をゆっくり二人で降りながら、呪術師引退したらどこで何しようか、という話題になった時だった。
階段を降りきった瞬間、待ち構えていたかのように溢れかえる大量の改造人間たち。ピリッとお互いの間の空気が引き攣って、本当偶然にも同じタイミングで天を仰いで息を吐き出した。
「マレーシア…そうだな…マレーシア…クアンタンがいい」
七海は天を仰いだままそう呟く。私は、クアンタン?とその地名を聞き返しながら、硝子先輩に持たされていた呪具の刀を鞘から抜いた。呪力がもともと籠っている呪具だから、呪力が空っぽの私でも戦える。そうなることを見越して硝子先輩はこれを持たせてくれたのやもしれない。鞘は邪魔だからその場に捨てる。いつもと違う戦い方をしなければならないが、長物を使う体術訓練は散々受けてきたし、なんなら今も暇さえあれば七海と一緒に鍛錬している。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせると同時に、七海の話に同意しながら私もね、と思っていることを口にした。
「読めてない本たくさんあるの。見れてない映画だってある。クアンタンで一緒に好きなことしよう」
「海辺に家を建てますか。今までの時間を二人で取り戻しましょう」
私たちは、もう充分やったさ。
七海がそう言ってこちらを見る。うん、私たち、充分頑張ったよ。そう答えて、私たちはほぼ同時に改造人間の群れに突っ込んだ。
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