ツギハギの術式を受けた七海の身体が弾け飛んだのはスローモーションでも何でもない、本当に一瞬のことだった。パアンッと風船が破裂したかのような音。人間ってあんな音を立てて弾けるんだ、なんてどこか冷静な私は愛した男の身体が飛び散るのを見ていた。命を失った七海の身体は受け身など取れるはずもなく、ただただ形を残した部分が血の海に沈んでいく。私は瞬きすら忘れてそれをじっと見ていた。悲しいとか寂しいとか悔しいとか切ないとか、そんな感情は一切湧いてこなかったのに、何故かぼろっと涙だけが溢れて頬を伝った。
同じ光景を目撃した虎杖君が叫んでツギハギの呪霊に突進していく。ツギハギも七海と私から興味を虎杖君に移して、そのまま二人は戦闘を始めた。ツギハギが改札の向こう側に飛んでいって、虎杖君はそれを追おうとした瞬間、こちらを振り返って泣きそうな顔をした。七海の身体のすぐそばに座り込んでいた私ともう動かない七海を唇を噛んで見ていた。行って・と口だけ動かせば、彼は弾かれたようにその場から駆けてツギハギを追っていった。
残されたのは私たちだけ。先ほどまでの戦いの音は一切聞こえなくて、不気味なほどここは静寂に包まれていた。
私はいつの間にか七海の遺体の前に座り込んでいた。とめどなく溢れる涙は何の感情のものなのかわからない。それくらい、頭の中は混乱するどころか静かだった。クアンタンってマレーシアのどの辺なんだっけ。海辺の家かぁ、広いといいな。いや私たちが建てるんだから広く造ればいいだけか。七海のこだわりと私のこだわりをたくさん詰め込もう。いつか子どもが生まれた時のために子ども部屋も作らなきゃ。でも海外移住となればビザ取るの大変なのかな。独身より夫婦の方が取るの簡単なのかな、全然わからないや。高専のコネがあればフル活用しよう。だってそれが許されるくらい、私たちはよくやったもの。
「七海」
広がり続ける七海の血は、私の剥き出しの足も濡らす。それはまだ温かくて、掬って彼の身体に戻せばまた七海は動き出すんじゃないかなんて思った。けれど、目の前の七海はもう原型を留めていなくて。血の海の中でキラリと光ったものに手を伸ばせば、それは焼き焦げた七海の結婚指輪だった。それをつけていた左手はどこにも見当たらない。かろうじて残っていた右手はまだナマクラと彼が呼んでいた大鉈が握られている。もういいよ、とそっと指を解いて鉈を離してやった。そしてその代わりに、自分の手を七海の右手に絡めた。まだあたたかい。でもいずれ冷たくなって固くなって、肉は朽ちて骨だけになる。自然の摂理に違いないけど、もうここに七海はいないとわからせるには十分だった。
「建人って、もっと呼べばよかったね」
結婚後も七海呼びを貫き通したのは私の恥じらいと意地っ張りな性格のせいだ。それを七海もわかっていたから、好きなようにどうぞとずっと七海呼びを許容してくれていた。けれど、彼が叶えてほしいと言ったのは名前で呼んでほしいということだった。たったそれだけのことを、私は最期の最期までしてあげられなかった。
私に名前を呼ばれたあなたは、あんな風に柔らかく笑うんだね。
最期に見た七海の笑みを思い出し、天を仰ぐ。はぁ…と肺の中の息を全て吐き出して七海の右手を強く握る。
「…いつ行こっか。クアンタン」
七海の大鉈、七海の指輪、七海の右手を胸にかき抱いて、改札の外へと向かった。途中遭遇した呪霊や改造人間がまた私を襲ってくるが、それらは無意識に七海の鉈で叩き切っていた。私が先ほどまで手にしていた刀はどこかに行ってしまっていて、きっとあの場に捨ててきてしまったのだろう。七海の鉈にはまだ七海の呪力が籠っている。だから呪霊たちを祓うことができている。呪力が尽きた私は今戦う術がない。七海が遺してくれたものが、七海がいなくなった後も私を守ってくれている。いずれ七海の呪力もここから消えてしまうだろうけど、私は絶対に七海の呪力を七海ごと忘れることはない。そっと頭の中の引き出しに、七海の呪力の気配を隠して、歩き続ける。
涙が頬に伝い続ける。人間、涙はいずれ枯れるものというけれど、そんな気配一向になかった。ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、視界は涙のせいでぼやけているけれど、襲いくる敵の場所は的確にわかって叩き切ることができた。何かに導かれるようにそれを続けていれば、いつの間にか呪霊も改造人間もいなくなっていた。
そして次に気づいたのは、頭上から「楓?!」と私の名を呼ぶ声が降ってきた瞬間だった。
緩慢な動作でそちらを見上げれば、そこは渋谷料金所に設置された救護ブースだった。手すりから半分以上身を乗り出してこちらを見ている硝子先輩と目が合った。
「硝子先輩…」
思わず呟いて、彼女の方を仰ぎ見る。顔を上げたせいで涙は首筋から鎖骨まで伝ってきた。ぼろぼろと溢れるそれは止まらない。硝子先輩の姿を見て、ますます涙は溢れ返る。
階段を駆け降りてきた硝子先輩は、私の両肩に手を置いて膝を折り視線を合わせてくれた。じっと私の顔と体を見たかと思うと、彼女は絶句した。正確には、私の右手に握られた七海の鉈と、大切に大切に胸に抱えている七海の右手。左の拳の中には、七海の指輪を握り込んでいる。
「…楓」
「七海です」
硝子先輩が珍しく言いあぐねていたので、端的にそれを告げた。これは、七海なんです。七海の呪力が染み込んだ鉈と、最後まで鉈を握っていたから、固くなって滅多にできないまめができてそれが潰れて痛々しい七海の右の掌と。私は左手を開いて、焦げて血で汚れたその指輪を見る。指輪の内側には私たちのイニシャルと、籍を入れた日が刻印されている。私のよりサイズが大きいそれ。公私混同はしないように心掛けていた私たちも、指輪だけは結婚したあの日から一度だって外さず身につけ続けていた。指輪外すのは死んで焼かれる時だね!とふざけて言った私に対して、七海は呆れたように、一緒に燃やしてください・と言ったのだった。あ、そうだった。一緒に持ってきてしまった。
「ゆ、指輪、七海、死んだら一緒に燃やしてって言ってたのに、持ってきちゃいました…どうしよう、今からまた七海に返しに行かないと」
七海の右腕を抱えたまま踵を返そうとすれば、硝子先輩は私の肩をさらに強く掴んで正面を向かせた。そしてぎゅっと強く強くその細い身体で私を抱きしめてくれる。硝子先輩の顔は見えない。七海の腕ごと抱きしめてくれた彼女は、少しだけ震えた声で言った。
「見てないから」
それが何を意味しているかわかった瞬間、これまでの比にならないくらい目から雫が溢れ出して。
私は、赤子のように声をあげて泣いた。
それはまるで慟哭のようなもので、敵に居場所がバレるからこんなに大声を出してはいけないとわかっているのに、もう止められなかった。
もういない。七海はいない。優しく笑んだ彼の姿と、消し飛んでしまった彼の身体と、延々と頭の中で繰り返しその情景が流れていく。
お願い。行かないで。置いていかないで。
泣きながら叫んだけれど、それはもう逝ってしまった七海には届かない。
私の願いを彼に伝えるには、もう、遅過ぎた。
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