空調を調節する部屋の主がいなくなったそこは、廊下とはまた違う静けさと冷たさで満たされていた。ロックの番号は以前教えてもらっていた。別にいいですと断る自分に、彼は「何かあったときのために」と笑って教えてくれた。それが彼の誕生日じゃなくて私の誕生日だと知って、あの人は何を考えているのだろうと心底疑問に思ったことが昨日のよう。
けれど、今となってはそれに対して文句を言うことも、どうしてその四桁なのかを問い詰めることも出来ない。
彼の私物をまとめようと持っていた箱を床へと下ろす。誰もがノエルを気遣って、ロックオンの部屋を片付けようと言い出す人も、実際に行動する人もいなかった。その優しさと、いつか彼は帰ってくると皆が思っているそれを、私は、自分で、壊す。
「私がしっかりしなきゃ、みんな前に進めないから」
自分に言い聞かせるようにノエルは呟き、綺麗に整頓されたデスクへと歩み寄る。読書が趣味だった彼は、書物を多く所有していた。彼がよく読んでいた一冊を手に、その表紙を撫でる。何度もあの人が触れたであろう、その場所。けれど、彼の温かくて優しい体温は感じられない。
枯れたはずの涙が、再び溢れそうになる。それを手の甲で拭い取って、本を箱へと綺麗に詰める。一冊、二冊、三冊…。机に綺麗に並べられた彼の本が少なくなっていく。そして最後の一冊に手を伸ばしたとき、これが最後なんだと思った瞬間、左手が強張って本がノエルの手からするりと抜け落ちた。重力が働いていないため、本は床に落ちることなくその空間を漂った。ぱらりとページが開き、何かがそこから抜け落ちる。
「何?」
本を右手で掴んで、そこから零れたそれを左手で掴む。たった一枚のそれがノエルの目に入った瞬間、枯れた筈だった涙が再び溢れて空間に弾けた。
ニールと良く似た面影を持つ、気さくな彼の父。ニールと同じ髪の色をした、大好きな彼の母。ニールの大事な大事な、私がお姉ちゃんと呼んで慕っていた彼の妹。
優しかった私の父と母。
そして、生まれたばかりの私を抱く、幼いニール自身。
「何で貴方がこれを持ってるんですか…!」
写真に写る家族たちはみんは笑っていた。優しい笑顔で、こちらを見ていた。みんな、幸せそうだった。大好きな人達は、もういない。私以外、もういない。誰も、いない。
「お父さん、お母さん、おじさん、おばさん、エイミーお姉ちゃん…!」
なんでニールを連れて行っちゃったんですか。なんで、私だけ置いていったんですか。なんで、私も連れて行ってくれなかったんですか。
ニールはテロに遭って孤児院で暮らしていたノエルを数年ぶりに迎えに来た際、ノエルが自分に対して敬語を使うようになっていたことにいつも疑問を覚えていた。前みたいに普通でいいんだぞ?と優しく頭を撫でてくれた。それでも、ノエルは頷かなかった。それは意地。彼は年上で、お兄さんで、私のために得られるはずだった総てを捨ててくれた。だから、彼には敬意をもって接しなくてはならない。そのまず第一歩が、敬語だった。まだ八才そこそこの自分が懸命に考え辿り着いた答えだったのだろう。たとえそれが本当に小さなことで、ただの意地だったとしても。それは十年経った今でも変わらない。大好きで、尊敬していて、ずっと私を守ってくれていた。いつもはお兄さんで、時々お父さんだったりお母さんだったりした。大好きで大好きで。ずっと一緒にいてくれると思っていた。なのに。
「貴方が敬語を止めろっていうなら止めるよ。何だって言うこと聞く。文句だって言わないし、嫌な顔だってしない。だから戻ってきてよ、帰ってきてよニール兄…!」
お願い、お願い。神様、お願い。
あの人が帰ってきてくれるなら何だってする。命だって、あげる。もう二度と彼に会えなくてもいい。ただ、彼がこの世界に存在してくれればいい。だから、だから。
お願い、みんな。
私が代わりにそっちにいくから。
だから、お願い。ニールを、還して。
END
(20080318)
夢を見た。困ったような、寂しそうな顔で、ニール兄がすぐそこにいた。
「帰ってきてくれたんですか?」と聞けば、「お前、自分が代わりになるなんて馬鹿なこと言うなよ」と怒られた。でもその表情や口調、雰囲気は穏やかで優しい。しょうがねえな、と小さい頃、泣く私を抱き上げてくれていたときのような、そんな声。幼子をあやすような、そんな声。「絶対、追ってくるなよ」優しく抱きしめられて耳元でそう囁かれた瞬間、光が弾けた。
瞬間目が覚める。そこにニールはいない。
「絶対、追ってくるなよ」
彼の声が、頭の中で、私の中で、ぐるぐる、ぐるぐる回ってる。