行方不明になっていたノエルが還ってきた。還ってきた、けれど、もう彼女は動かない。声も聞けない。目も、開けてくれない。彼女が無事に還ってきてくれれば何でもするからとずっと祈っていた。神に祈って願って、ようやく彼女は還ってきた。けれど、…生きて還ってきては、くれなかった。
「会ってやってくれるか?」
そう、力なく笑って言ったロックオンはひどく疲弊していた。ずっと眠れていなかったのだろう、ターコイズブルーの瞳の下は深く陰っていて、いつものような覇気も柔らかな雰囲気も全く感じられない。無理もない。最後に彼女と会ったのはずっと兄的存在で彼女を守ってきたロックオン自身であるし、彼の現地任務のサポートをするために彼女は一緒に地上に降りていたのだから。それでも、ロックオンはちゃんと自分の足で立っている。言葉を発している。本当は立っているのがやっとといった状態だろうに。けれど、マイスターとしてそんな素振りを見せないように必死に耐えている。やっぱり、彼はすごい。ノエルの兄は、自分の憧れであり尊敬に値する人だ。
それなのに、自分はどうだろう。全てを知らされたときから頭は考えることを停止した。受け入れたくなくて、何も考えなくなった。涙も流れない。哀しいという感情も、寂しいと思う感情も、何も、ない。ただこの身体に残されたのは、虚無。まだ頭の中が靄がかかったようにぼんやりとしている中、ロックオンに案内されたそこは、廊下にいるだけで既に空気がひんやりとしていてとても冷たかった。
「あいつはお前を待ってる」
そう言い残してロックオンはその場を去った。ひどく落ち込んだ様子の彼を見送って、ゆっくりと目の前の扉を開いた。肌を撫でる冷たい空気が、何となく気持ち悪かった。
「…ノエル」
四方の部屋の真ん中に安置された白いベッドと白いシーツ。そして、そこに寝かされているのは、人形?いや違う、ノエルだ。自分が彼女を見間違えるはずなどない。遠目から見ても彼女の白い頬が分かる。けれど、自分が知っているその色よりもずっと白くて、本来であればあるはずの頬の赤みも何も見受けられなかった。棒のように固まって根を張ったように動かなかった足を、どうにかして前へと出す。ゆっくり、ゆっくり。本当に時間をかけてそこへ歩み寄る。
途中「ノエル」と彼女の名を読んだ時、いつから発していなかったのか、久しぶりに自分自身の声を聞いた。けれど、どんな時でも返してくれていた彼女の返事は、ない。手を伸ばして、その頬に触れる。穏やかに眠っているような彼女の頬。冷たさだけが指先に伝わった。
「…ノエル」
どうして君は、こんなところで寝ているの?
膝が崩れ落ちて、そのまま床に膝立ちになる。彼女との距離がずっと縮まった。彼女はどんな季節でも常に長袖を着ていた。その理由は昔テロに遭った時に負った傷痕を隠すため。これを見せれば傷つく人がいる・と彼女は言っていた。それが誰なのかは聞くまでも無かったけれど。だが今彼女は何も纏っていない。白いシーツに隠されるように覆われた左手を何となく手に取った。引き攣ったような、手首から肩にかけて大きく伸びるのは彼女の古傷。自分は何度も見たことがある。けれど、自分の記憶にはない、無数の痕がそこにはあった。
強い力で掴まれたような、変色した痣のような痕。針で刺されたような、痛々しい注射痕。
ぼんやりと、全てを知らされたときの記憶が蘇る。ロックオンと自分だけが呼ばれて話を聞いた。「あまり聞かない方が、」と報告を躊躇するドクターに、ロックオンは 「聞かせてくれ」 と強く言い切った。ノエルの身体の状態から、彼女がいつどのような目に遭ったのか。そして、どれほど苦しんだのか。どれほどの痛みを味わったのか。一から十まで、普通の人間なら、近しい、それも愛しい存在がそのような目に遭わされたという現実を赤裸々に告げられれば、聞くに堪えかねて逃げ出してしまうような内容。それを、ロックオンはずっと耳をそむけずに聞いていた。自分はその場にいただけで、話の内容は何も頭の中に残っていない、はずだった。けれど蘇るドクターの言葉。途切れ途切れに、再生されるあの時の会話。
薬(自白剤のようだと言っていた)を打たれ、何度も拷問めいたものを受け(身体のいたるところに痣や傷が出来ていた)、CBの情報を吐かせられそうになったのだろうと。けれど、今現在までCBの情報がどこかに漏れた様子はないし、その気配もない。きっと、彼女は最期まで口を割らなかったのだろう。どんなに痛くても、苦しくても、怖くても、ずっとずっとずっと、黙秘を貫いた。…自分達を、守るために。
「痛かった、よね、ノエル。ごめんね」
ぎこちない動きしかしてくれない自分の手を使って、ノエルの頬と髪を撫でる。彼女が生きていた頃にそうやっていたように。いつもならはにかんだ笑顔を見せてくれるのに、今日は笑ってくれない。動いても、くれない。名前を、呼んでもくれない。
「ごめん、ごめんねノエル。」
守ってあげられなくて、ごめん。怖い目に遭わせて、ごめん。頬を伝う涙が熱い。握り締めた彼女の左手にそれが落ちて弾ける。ごめん、ごめん。と繰り返す自分の声が、ひどく情けない。もう、何を言っているのかも聞き取れないくらい小さくて弱々しい。なんて自分は無力なのだろう。最期までこんな弱い自分を彼女に見せてしまう。それでは、駄目なのに。
「ノエル」
彼女の名前を呼ぶ。何度だって呼ぶ。最期の瞬間まで、呼ぶ。
顔を上げて、溢れる涙をそのままに。眠る彼女の姿を瞳に焼き付ける。ああ、なんて君は美しいんだろう。
「頑張ってくれて、ありがとう」
瞼に口付けを落とす。君は、強い子。だけど、本当はとても弱い子。そんな君が最期まで怖いのを我慢して頑張ってくれたんだから、謝り続けるのはおかしいよね。
「守ってあげられなくて、ごめん」
銀色の髪を撫でて、額と額をぶつけ合う。彼女の冷たさが額越しに伝わってきて、何となく小さく笑った。どうして自分はこんなにあたたかいのに、どうして彼女はこんなに冷たいのだろう。でも、彼女がここにいるからこの冷たさも感じることが出来る(だってこの温度も彼女の温度に違いないから)
「帰ってきてくれて、ありがとう」
精一杯笑った。今自分が持てる最大級の感謝を言の葉にのせて、彼女に贈る。
「こちらこそ、ありがとう」
そう言って、笑ってくれていた彼女の表情と声が脳裏に過ぎった。
今は、もう見えない、聞けない。
アレルヤの慟哭が、暗い部屋に響いた。
彼女を喪ったという現実は、僕の生きる意味を根こそぎ奪っていった。
END
(20080512)