昔のはなしだ。まだ物心ついていくらかも経っていない頃だと思う。どちらが言ったのかさえ忘れてしまったが、いつも可愛がってくれていた兄的存在のふたりのうちのどちらかが、「空を飛べたら一番最初はどこに行く?」といきなり問うてきた。問われた方の兄は、「雲の向こう側」と答えた。何故?と質問した兄が返せば、向こう側まで行って世界を見たい・とまっすぐに答えた。雲の向こう側。空の向こう側。そこには何があるのだろう。幼い私はぼんやりと雲は食べられるのかな?なんて思い、は?と聞いてきた彼にそう答えれば、ふたりは同じ表情と同じ声でやさしく笑った。
食べられたらいいな
そう優しく笑って頭を撫でてくれたどちらかの兄は、今は空の向こう側に行ってしまった人なんだろうか。
「ねえライル兄。覚えてる?昔、空を飛べたら一番最初にどこに行くかってはなしをしたの」
唐突に切り出されたノエルの話題に、コーヒーを飲みかけていた制服姿のライルは微かに首を傾げた。もう二十年近く昔のはなしだ。覚えていない方が自然。そう思ったが、ライルは暫く考える素振りを見せて、ああ、あれか!と頷く。
「あれだろ?お前は雲を食べたいとか言ってたの」
「そうそれ!絶対雲はふわふわしてて甘いものだと思ってたもの」
「可愛かったなぁその頃のノエルは。今じゃあこんなになっちまって…」
「どういう意味?」
わざとらしく泣き真似をするライルの脇腹を小突き、彼から謝罪の言葉を引き出す。それにしてもそんなに昔のことを覚えているなんて。自分が思っていたより彼の記憶力はとても良いのかもしれない。悪い悪い・と笑いながら謝る彼は、ノエルの頭を軽く撫でる。もう二十歳も過ぎた良い大人なのに、と思わないでもないが、兄的存在の彼らにされるのは全く抵抗を感じない。
「あのときは突っ込まなかったが、俺がした質問は“空が飛べたら一番最初にどこに行く?”だったんだぜ?雲を食べる・は質問の趣旨にあってないよな、ノエルちゃん?」
意地悪にそう聞いてくるライルに、あの頃はまだ小さかったんです!と言い返した。そして今の発言で、あの質問をしたのはライルで「雲の向こう側に行く」と答えたのがニールだということが分かった。
「じゃあちゃんと答えますよ。アレルヤのところに行きます。迎えに行かなきゃ」
そう言えば、また“アレルヤ”かよ・とライルは溜息を吐く。未だ帰還しないアレルヤの無事を祈る日々。それは四年間全く変わっていない。そういえば、と思う。ライルはロックオン・ストラトスとしてCBに戻ってきた・という形式になっているためアレルヤとはまだ対面していないのだ。ライルはノエルがはなす“アレルヤ”という人物しか知らない。それだけでもう以前のロックオン・ストラトスはいないのだと思い知らされる。もう、目の前にいるこの人の片割れはいない。
「そんな顔するな」と、いつの間にか俯いていたノエルの頭を再び撫でてライルが言う。一瞬の間に私が何を想像しているかを悟ったらしい。そういう悟りは、この人も、ニールも人より優れていた。
「もっと明るい話しようぜ?お前にそんな顔されるとニールに怒られる」
「じゃあ質問です。ニール兄とライル兄は誰似だったんです?私、小さかったからライル兄たちのお父さんとお母さんの顔をちゃんと思い出せないんです」
「そうだな…ニールは母さん似で俺は父さん似。」
なんですかそれ!と思わず声を上げる。彼らの両親でさえ見間違えていたほどそっくりな双子なのに!と文句をつければ、本当に違うんだよ・とライルは苦笑する。
「寝起きのニールは父さんそっくりなのに、俺は母さんそっくりだってお互い思ってた。考え事してる顔は二人とも父さんそっくりだってことに落ち着いた」
幼い頃にお互いの顔を見て思ったことを話し合ったのだろう、懐古するように言うライルの言葉はやけに説得力がある。
今は?と無意識のうちに聞いてみれば、ライルは困ったように肩を竦めた。
「それはニールに聞いてみないと」
そう平然と答えたライルの表情は全く変化がない。まだ双子の片割れはこの世界にいるかのような口ぶりだ。強いと思った。自分が生きている限りあいつは死なないと、強い口調で言っていたのは確か彼がCBに来た頃だったか。
決めました、とノエルは静かに口を開く。
「空を飛べたら最初にどこに行くか。雲の向こう側に行ってニール兄に会ってきます」
「“アレルヤ”はいいのかよ?」
「さあ?アレルヤなら勝手に帰って来ると思いますし。いつまでも甘やかしちゃだめって今すっごく思いました」
腕を組みながらノエルが憤慨したように言えば、ライルは「ご愁傷様だな、“アレルヤ”は」と声を上げて笑う。アレルヤには黙っててね?と告げても、どうするかなあと真面目に取り合ってくれない。
「兄ちゃん、ノエルがアレルヤアレルヤって言ってばっかりだから、アレルヤくんにちょっと嫉妬してるしなあ」
そう横目でちらりとノエルを窺いながら言うライルに、ノエルは「アレルヤに言ったらライル兄のこと嫌いになるから」と視線をずらした。すると頭に感じる暖かい感触。優しく撫でられる手の体温は、ニールと同じ。
「お前に嫌われたら終わりだからな。言わないよ」
そう穏やかに告げたライルの声は、彼の片割れの、いつかの声と重なった。
END
(20081005)