アニューが死んだ。
彼女が何者だったのかとか、あの状況ではどうしようもなかったことはわかっているが、理性と感情は別物。事実を受け入れようとしても心が理解してくれない。彼女の命を奪う引き金を引いた刹那をどれだけ殴ったところで彼女は二度と帰らない。分かり合えた、分かり合えたからこそ、彼女がいない今を受け入れることができなかった。
インナーシャツのままベッドに寝転がり、無気力で何もする気にならない身体を放置する。いっそこのまますべて無に帰れればまた彼女と会えるのか?なんてらしくないことばかり脳裏によぎって、指の一本動かすのも億劫で。息をすることすらやめてやろうかと思った時だった。
ピコン、と自室に来客を告げる音が響く。ああ、ロックをし忘れていたのかと気づいたのは、彼女が扉を開けて部屋に入ってきたときだった。扉のすぐそば。自分に負けず劣らず泣き腫らした目をした妹分がそこにはいた。彼女がアニューの死に対して涙を流したわけではないことはわかっていた。ノエルが泣いて目を腫らしているのはここ最近ではよく見る姿。そのことにあの超兵は気づいているのか、気づいていても知らないふりをしているのかはわからないけれど。
「…なんだよ」
「ライル兄。ちょっとは食べなきゃだめですよ」
重たい身体を起こしながら彼女を睨めば、ノエルはそれに臆することなく言葉を続けた。CBの衛生管理者であるノエルは、いつからかクルーたちの健康管理も行う立場になっていた。栄養バランスが考えられた食事が載せられたトレーを差し出されたが、それを受け取ることはせず、代わりに冷たい視線を彼女に投げた。
「自分が食ってから言えよ」
言いながら、いつかより一回り細くなった彼女の手首を掴みあげれば、簡単に食事のトレーはひっくり返ってパッキングされていた食事が宙を舞う。テロに遭って後遺症が残る左手ではなく右手を掴んだのは一瞬理性が働いたから。ちょっと、と声を上げて抗議しようとしたノエルに、黙れと低くすごんでみせた。
「俺は俺の女が死んで、お前はお前の男が別の女に執心か。ろくなもんじゃねえな」
はっと自嘲と嘲笑をのせて自分と彼女をなじれば、ノエルはバツが悪そうに顔を背け目を伏せた。何かを言おうと口を開けたり閉じたりして、ようやく振り絞った単語は今一番他人から聞きたくない名前だった。
「アニューのことは…」
「御愁傷様ってか?はっ、同じ言葉返すぜ」
それが何のことを指しているのか、彼女はすぐに察したのだろう。一瞬ショックを受けたような表情をしたが、すぐにそれを隠して顔を背けた。掴んだ手首は細い。女特有の肌の柔らかさを感じるとともに、人肌が恋しかった自分にとってその体温は理性を手放そうと思えばすぐに手放せるものだった。
ただ、ここでノエルに手を出せば確実に兄さんに殺されるのはわかっていたし(もういない人間がどうやって俺を殺すのかは置いといて、だ)、普段ならノエルのことなど眼中にないしそんな気はかけらも起こらなかった(生まれた時から知っている、一応妹分と呼べる存在だ)。起こらなかったのに、起こらなかったはずなのに。陰った彼女の横顔がいつもよりずっと大人びていて、時折感じていたアニューの儚さと重なって。
気づいたらその小さな身体を引き寄せていた。
「、ライル兄?!」
「もう兄呼びされる年じゃねえよ」
傷を負った者同士、傷の舐め合いをして何が悪い。無理やり彼女の顎を掬って驚いたように開いていたノエルの口に自分のものを重ねようとした時だった。
何かが破裂するような音と、一拍遅れて伝わった頬への衝撃。ああ、前にも一度こんなことがあったなとぼんやり思う。その時はわざと殴られたのだけれど。
脳にじんじんと響く熱さと痛み。横目でその痛みを与えてきたノエルを見下ろせば、彼女はぼろぼろと大きな瞳から涙を流していた。左手を振りかぶったままの姿勢で、なんだよもうしっかり動くじゃねえかと脳裏で自分の声がした。
ああ、兄さんに殺される。手を出すとかそういうこと以前に、何ノエルを泣かしてるんだと間違いなく怒られる。そう、それは幼い頃と同じ。
「…こんなことしたら、アニューが悲しむ」
「お前は悲しまねえってか」
死んだ女の名前を出されて、彼女の頭を両手で挟んで締め付ける。こめかみをぎゅっと押さえられた痛みでノエルは顔を歪めた。動きを封じたノエルの唇を今度こそ奪って、抵抗するように固く閉ざされた口を無理やりこじあけて舌を侵入させる。引っ込められた彼女の舌を探り当てて、あえて音を出して口内を荒らした。嫌だ嫌だと顔を振って抵抗する彼女を簡単に解放してやらない。息をするために唇を少し離したときだった。
舌先に走った痛みから、反射的に彼女の中から舌を引き抜く。思わず口元を拭いながら彼女から距離を取れば、口内に鉄の味が広がってきた。ちりちりとした痛みから、こいつ、舌噛みやがったと思わず舌打ちをしてまた痛みが走った(俺は馬鹿なのか)。
「ニール兄は、絶対こんなことしない!」
半ば叫ぶように声を上げたノエルに、ライルは乾いた声で笑った。俺はライルだからな、と言えば、ノエルはまた顔を歪める。
「アレルヤがお前のところに戻らないって確信したら俺のとこに来い。一番をなくした者同士、仲良くしようぜ」
あえておどけたようにノエルに言えば、彼女はまた涙を溜めて、勢いよく首を横に振った。
飛び出すように部屋を出ていく彼女の背を眺めていると、無機質な音を立てて扉が閉まる。歯と歯で舌の先を甘噛みし、滲み出てきた血を床が汚れるのを構わず吐き捨てた。
「何やってんだろうなぁ、俺は」
自暴自棄にも程があるのはわかっている。わかっているが、誰かと傷の舐め合いをせずにはいられないのだ。痛みを共有しないと、壊れてしまう。手のひらに残る、彼女の肌の感覚。泣きながら去った妹分の顔はあえて思い出すのをやめた。
「…お前はまだいいじゃねえか。生きてんだから」
ぽつりと呟いた声を聞いたのは、自分だけだった。それが、本心だった。
END
(20221007)