これは、夢なのだろうか?否、夢ではない。
全身に浴びるように被った返り血が徐々に冷たさを帯び粘る。力の入れ方を忘れた左手を上げれば、感覚がないまま握られた銀のナイフがあった。光沢を放って曇りのひとつもなかったその刃は、今は血と脂で鈍く霞んでいた。染み付いた血と脂は、片手で数えられる数の人間のものではない。もう、記憶に残らないくらい殺した。この手で、このナイフ1本で殺した。そして、その数だけ人の血を浴びた。何のために?
そうだ、復讐だ。愛する人を奪った人間への、復讐。ただ、それだけだった。
ノエルは死んだと聞いた。捕らえられ、拷問され、最後は自ら毒を飲んだと聞いた。だから、ノエルを連れ去った人物を見つけてこの手で殺す。それが、彼女のためでもあるし、自分のためでもあった。復讐しないと、この心がおさまらなかった。
そして何人もの関係者を殺してまわり、最後に行き着いた当事者本人をこの手で葬り去った直後だった。これで復讐が終わった・と思った瞬間、背後で物音がする。
誰かに見られた。
そう思考が判断する前に、手にしていたナイフで振り返り様にその人物の喉元を切り裂く。崩れ落ちたのは女、だった。今までも目撃者は悉く消してきた。ここで捕まっては復讐の意味がなくなる。それを思ったら人を殺すことの躊躇はいつの間にか消えていた。
それも、これで最後。
そう思った瞬間、目の前に崩れ落ちた女の乱れた髪の隙間から窺えた、その顔。
アレルヤは、瞠目した。
「、ノエル?」
人を殺すときは顔を見ないようにしていた。復讐をすると決めたときから、人を殺すことに躊躇はなくなっていたが(MSで闘うのとはわけが違う。この手にしっかりとその感触が残るのだから)自分が殺した人間の姿を記憶に残したくなかった。だから、自分の邪魔に、復讐の邪魔になると思った人間はそのまま殺した。躊躇ってはだめだ。じゃないと、彼女のためにならない。そう、自分に言い聞かせていた。けれど、この女は。彼女は。
「なん、で」
カラン、と高い音を立ててナイフが手からすべり落ちる。
君は、死んだんじゃなかったの?
そう、膝をつきながら髪を避けてその顔を確かめる。見間違えるはずがない。痩せて、顔に痣や傷があるものの、彼女はノエルだ。自分が彼女を間違えるはずはない。ノエル・と彼女の名を呼ぶ。けれど、返事はない。今、自分がこの手で彼女の命を奪ったのだから。
「いやだ、いやだ…!」
喉の奥で何かがつっかえる。うまく声が出ない。震える唇は、ただこの現状を否定していた。死んだと知らされていたノエルは生きていた。そして、今。死んだ。殺した。自分が、この手で。愛する人を。ノエルを。
「あ、ああ、あ…!!」
彼女の血が自分の手を、服を、顔を濡らしていた。嫌だ、嫌だ。心が叫ぶ。どうして、なんで。
どうして、こうなった?
ノエルを掻き抱いて、瞬きひとつできないままずっとそうしていた。ノエルを抱きしめたまま蹲るアレルヤの背後で人の気配がする。その気配は知っているもの。しかし、今となってはどうだってよかった。振り向きもせず、ただそのときを待つ。
アレルヤが取り落としたナイフを、その人が拾う。ゆっくりと、アレルヤの喉元に刃を添え、躊躇なく横に引いた。赤い鮮血が噴水のように吹き出る。ノエルの顔が血で汚れた。その赤の上から、透明な水が零れ落ちた。血と共に命も流れ出す。目の前が霞む。ああ、ノエルの顔が霞んでいく。それだけは、それだけは。もっと彼女の顔を、と願った瞬間、アレルヤの思考が途切れた。
君は、何を思って人を殺している自分に近づいたのだろう。自分だと、気づいていたのだろうか。
…気づいていてほしくない。とても都合の良い願いだとはわかっているけれど。そして本当のところどうだったのか。今となってはもう分からないけれど。
END
(20080707 motif : Sweeney Todd)