
祈れる明日のために
『ノエルの具合はどうだ?』
通信端末の向こう側から聞こえるかつての仲間の声。屋上の手すりにもたれて夏の太陽を浴びながら、ロックオンの問いかけにどう返そうかとアレルヤはノエルの今朝の様子を思い出す。しかし浮かぶのは、青い顔をしてぐったりしている彼女の姿だけ。そんなノエルの様子を伝えるためにいろんな単語が頭を巡ったが、結論としてはただ一言、つらそう・とだけ伝えた。
「そろそろ落ち着いてもいい頃合いなんだけどね」
ただこればっかりは体質もあるからなぁとぼんやり独り言をこぼすように言って、空を眺めた。
待望の第一子をノエルが身籠もってから三ヶ月と少し。季節は初夏から真夏に変わった。安定期に入るまであと数週間なのだが、妊娠当初からノエルを襲っていたつわりはおさまるどころかどんどんひどくなっている。
妊娠発覚当初、彼女はアレルヤが試験前ということもあり、妊娠した事実をアレルヤに気づかれないように自分の身のうちにだけとどめていたのだが(結局試験数日前にノエルの体調の悪さに気づいて何事かと問い詰めた結果、妊娠を告白されて事が明らかになったのだけれど)、ノエル自身アレルヤの試験の後気が抜けたのか、はたまたそういう時期になったのか、つわりはますます遠慮することなく彼女を襲いはじめた。
ノエルの症状としては、まともに食べられるものがどんどんなくなっていって、無理矢理食事をしてもすぐに戻すという典型的な吐きづわりなのだが、三日くらい前からとうとう彼女の身体は水分すら受け付けなくなってしまった。季節は夏。ただでさえ嘔吐により脱水になりやすいというのに、暑い季節にも入ってしまった。体力が落ちているのに水分すら摂るのが難しいとなると、さすがにまずい。
彼女もそれを自覚してなんとか水分だけでも摂ろうといろんな手段を試みているが(スポーツ飲料や氷を舐めたり…)、どれも効果的ではなかった。
アレルヤは少しぬるくなったパックのジュースのストローを咥える。自分は難なくこうやって飲み物を飲めているけど、今頃家でノエルは苦しんでいるのかもしれない。何もできない自分にも嫌気がさして、通話中ということを忘れて大きすぎる溜息を吐いてしまった。
『うちのもノエルのこと気にしてるんだが、何せうちも経験ないから俺含め見守るしかできないってやきもきしててな』
「それは僕も同じだよ」
こういうとき、男ってまじで役に立たねえよなあと、端末越しにロックオンも大きく溜息を吐いた。男二人して真っ昼間に何をしているのやら(アイルランドは夜中だけど)。
「妊婦でも飲める薬ないか同僚にも聞いてみたんだけど、安定期入る前だから微妙な顔されたよ」
『そもそもノエルが薬飲みたがらねえんじゃ?』
「さすがロックオン。ご明察だよ」
また溜息が出そうになるのを今度は何とか飲み込んで、昨夜レストルームで蹲るノエルの背をさすりながら交わした会話を思い出す。
今の医療だとノエルでも飲める吐き気止めあると思うよ、と少しでも彼女の気持ちを楽にしたい一心で提案してみたら、彼女は青白い顔をしたまま、嫌だとはっきり言い切ったのだった。
彼女の言い分としては、ただでさえ左手の治療でこれまで強い薬を常用していたことと、テロの影響で本当に無事に子どもを産める身体なのかわからないということ(これは定期検診も受けてるし影響はないと言われているけど、ノエル自身がとにかく不安なのだろう)、絶対に胎児に影響がないと言い切れないなら出来る限りのリスクは排除したいということだった。
「一生続くわけじゃないし、おさまるまで私が耐えればいいだけだから」
笑う余裕すらなくしたノエルはそう言うが、正直このままじゃ彼女の身体の方がもたない。
その日は何とか睡眠もとれていたが、このまま症状が悪化するばかりでは夜も眠れなくなるのではないだろうか。
「最悪入院、て手もあるんだけどね」
『あー…それはそれでまたノエルの』
「そう、トラウマなんだよ」
こちらが言う前に全て察してくれるロックオンの存在は本当にありがたい。ノエルの性格を熟知してるからこそだ。自分ひとりだと考えを整理することも難しかったと思う。
テロに遭った後の手術と入院はノエルにとってつらい記憶。トレミーにいた頃メディカルルームで治療の手伝いをしていたし、今も通院でひとり病院に行くことはなんともないようだが、病院に泊まる…入院となれば話は別らしい。夜の病院は恐怖でしかないとのこと。
ただでさえ今はホルモンバランスの影響なのか体調不良による不安感からなのか、かなり情緒の安定さを欠いているのに、ノエルを悪い意味で刺激するようなことはギリギリまで避けたいというのが本音だ。だが最終手段も視野に入れなければならないくらい事は緊迫している。
「とりあえず今日はノエルの担当医に許可とって点滴処方してもらおうかな、て。ひとりで病院に来させるのも危ないし、僕が家で点滴してあげれたら脱水はひとまず防げるから」
職権濫用といわれそうだけど、ここはもう何を言われてもいい。医者という立場をこれでもかと利用してやる。在宅医療ってことで、と付け加えるようにいえば、ロックオンは、お前が医者で助かるよ・と言ってくれた。
「ほんとは僕が仕事休めたらいいんだけど」
『お前が医者で助かるっつったばっかだけど、医者は普通の仕事と違ってそうそう休めないもんなあ』
「人の命預かってるからね」
医者として他人の命に順番をつけるなんてこと、言語両断だけど、夫として、父としての立場で考えるなら断然ノエルとお腹の子の命が最優先だ。そもそもノエルの命が自分の命よりも大事なのはソレスタルビーイングにいたときから変わっていない。
『まあこれ以上状況悪くなるようなら遠慮なく呼んでくれ。役に立つかわからねえが、早めの育休とるから』
「頼りにしてるよ」
育休、という言葉を躊躇いもなく使うロックオンに苦笑して(最初に使うのがノエルのためでいいのか?というのは置いといて)、そうならなければいいんだけどと完全にぬるくなったジュースを飲み干した。
今日はなんとかして早く帰ろう。ロックオンと短く終わりの挨拶を交わして通信を切り、端末を白衣のポケットに放り込む。そして襟を正して屋上を後にした。
あとでノエルにもメッセージを入れておこう。きっと端末をチェックするのもつらいだろうから、返事はいらないよと添えて。
END
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人魚と柩)