
花を待とう
さて、どうしようか。
ノエルは溜息が出そうになるのを抑え込み、細心の注意を払いながら病院を後にする。別に悪いことをしたわけでもないし、いち患者として堂々としていればいいのだが、今はそういうわけにもいかない。
この病院には、アレルヤがいる。
大きな病院だからたくさんの診療科があり、大勢の医師や看護師に病院スタッフ、そして患者もいるので今ここでアレルヤと遭遇するのは可能性としてはかなり低いはずなのだが、万が一ということもある。実際以前検査の帰りにばったり彼と会ったこともあった(あの時は事前に検査の時間をアレルヤにも伝えていたし、お医者さんをやっているアレルヤに会えたから新鮮ですごく嬉しかったのだけれど)。
ただ、今日は、以前とは少し状況が違う。
はじめは左手の定期健診で問診票を元に担当医と話をしていたら、何故か内科に行くよう命じられ、大人しく内科にて診察を受けたらそのまま産婦人科にまわされた。このときから薄々その可能性に気づいてはいたが、まさか本当にそうだとは。というか自分自身のことなのに全く気づいていなかった。週数でいえばかなりの初期らしく、さらに元々生理は毎月安定していなかったし(体調が少し乱れただけで一ヶ月や二ヶ月こないのは当たり前だ)、少しだるいかな?気分が悪いから風邪気味かな?程度にしか思っていなかった。だからといって妊娠していると気づかなかったそのことに少し驚いたし(もっと自覚症状が出ると思っていた)、自分ですら他人に指摘されるまでわからなかったのだから、今のアレルヤは絶対この変化に気づいていない・と少し安心する。
勿論、アレルヤの子どもを妊娠したのは嬉しい。何よりも嬉しいしとても幸せだ。アレルヤも子どもは好きだし(小児科医を目指すくらいだもの)、ニール兄に感化されて娘が欲しい・て、声には出さないけどずっと彼がそう思っているのは知っている。だからすぐにでも報告して、ふたりで喜びたい、のだが。
「ちょっとだけタイミング、悪かったかなぁ?」
まだちっとも膨らんでいないお腹を撫でながら困ったようにノエルは笑う。今、アレルヤは人生においてとても大切な時期のど真ん中にいる。研修医から正式な医者になるために必要な試験が近いのだ。だから今はアレルヤに自分のことだけに集中していて欲しい。ただでさえ普段からノエルのことを一番に気に掛けてくれているアレルヤだ。少し体調が悪いと言えば、そんなに心配しなくていいのに・とこちらが申し訳なく思ってしまうほど心配してくれる。普段でさえそれなのに、妊娠しましたなんて告げてしまえば試験に集中どころの騒ぎじゃない。というか彼の場合仕事も手につかなくなるんじゃないだろうか。…十分ありえる。
手帳のカレンダー、二週間後の今日に『アレルヤ 試験』と記入されている。試験が終わるまでの二週間、どうにか隠し通さなければ。
「ごめんね、もうちょっと待っててね」
パパは今頑張ってるから、応援してあげようね。
まだ見ぬ我が子にそう話しかけ、いつも以上に足元に気をつけながらノエルは家路についた。
・・・
「…あのさ、ノエル」
「ん?」
アレルヤの試験まで後数日という頃の夕食時だった。いつものようにふたり向かい合って座っていると、アレルヤが少し真剣な顔をして聞いてきた。
「最近、体調悪い?」
その言葉に、ノエルは心臓が跳ね上がるのを感じた。確かに、よくはない。むしろここ数日彼の前では平然を装っているが、正直ちょっとどころではなくかなりきつかったりする。
まず、食事がとれない。何を食べても吐き気がするし、食べ物のにおいですら吐き気が誘発された。そして当たり前だが料理も出来ない。においが駄目になるとは聞いていたが、まさかこのタイミングでつわりがはじまって、さらに日に日に酷くなるとは思ってもみなかった。妊娠発覚のタイミングからつわりが起こるタイミング。なんて間が良いというか悪いというか。
なので今日の夕飯もアレルヤには悪いけれどレトルトのものにさせてもらっている。本当は仕事と勉強で疲れているアレルヤには栄養があっておいしいものを食べてもらいたいのだけれども(ごめんね)。
そして自分はというと、何か口にするだけで吐き気に襲われてしまうため、今日も先に食事をすませたと彼には言って今はアレルヤの食事風景を眺めているだけという状況だった。
正直、においもだめなのでアレルヤの食事を眺めるのもきつかったりする。それでも彼のそばにはいたかったし、仕事から疲れて帰ってきたアレルヤをひとりきりにして食事をさせるなんてこと、絶対に嫌だった。
だからなんとか耐えて、アレルヤが勉強するため自室に篭ったらこっそりまた吐きにいって早く寝てしまおうと思っていたのだが。
「そうかな?全然平気だけど」
動揺からか咄嗟に口から出た言葉はあまりにもわかりやすい、あからさまな嘘だった。アレルヤの眉が顰められ、しまった・と思ってももう遅い。
「顔色も悪いし、夜だってあまり眠れてないだろう?夜中何度も起きてたの、知ってるし」
本当は体調、悪いでしょ?と切り込んでくるアレルヤに、ノエルは動揺を表情に出さないよう必死に笑顔を作り続ける。確かに夜中にも何度か吐き気に襲われてトイレに駆け込んだりもしていた。だが幸いにもアレルヤが勉強に集中できるようにとしばらく同じ部屋で寝ていなかったし、なるべく静かに、何気ない風を装っていたので絶対にバレていないと思い込んでいた。だが、彼には全てお見通しだったようで。それでも何とか誤魔化さないとと、大丈夫だよと曖昧に笑えば、彼にしては珍しく眉を大きく顰めて眉間に皺を寄せた。…もしかして、ちょっと怒ってる?
「ノエル」
フォークを置きながらアレルヤは居住まいを正す。それにつられるかのように、ノエルも彼と同じように姿勢を正した。
ここ最近、彼女の様子がおかしいことには薄々気づいていた。けれど彼女自身が自分にそれを悟られないように細心の注意を払って行動しているのもわかっていたし、きっと試験が近い自分に気を遣ってのことだろうと、その気遣いに感謝と同時に申し訳なさも生まれていた。あまりにもノエルの様子がおかしい期間が続くようならいざ知らず、すぐに落ち着くようであれば彼女の意思を尊重して気づかないふりをしておこうと敢えて暫く見て見ぬふりをしていたのだが。
しかし、さすがにここ数日の彼女の様子は見逃せないものがあったし、これ以上は放置できないと思った。だから今のように彼女を問い詰める形になったとしても、決して見逃してはいけない何かだと直感がいっていた。
ピンとした空気がその場に張り詰める。
アレルヤは、ゆっくりと噛み締めるようにノエルに語りかけた。
「ノエル。僕が試験に集中出来るようにって気を遣ってくれることはすごく感謝してるし、ありがたいよ。でも、僕はノエルを犠牲にしてまで試験を受けるつもりなんてない」
ひどく真剣な表情と口調でアレルヤは言う。ノエルはただ黙ってその言葉を聞いていたが、その表情は暗くなる一方だった。それを見て、慌ててアレルヤは口調を和らげた(彼女を責めるつもりは毛頭ないから)。
「だから、何かあったらちゃんと僕に言って?じゃないと僕、試験どころじゃないよ」
僕は大丈夫だから・と腕を伸ばして俯き気味だったノエルの頭を撫でる。次いで頬に手を添わせてみれば、やっぱり少し体温が高いかななんて思った。季節の変わり目だし、酷めの風邪かな・なんてぼんやり考えていたら、ノエルが恐る恐るアレルヤを見上げた。
「…じゃあちゃんと言ったら、アレルヤ試験に集中出来る?」
気になって勉強に手が付かないよりもちゃんとすっきり心の整理をつけた方が確実に勉強の効率は上がるだろう。…心の整理をつけられることならば。
そう思ってアレルヤは勿論と頷く。すると何か言う覚悟を決めたのか、ノエルはえっと、あの、と口篭りながらアレルヤから視線を少しずらした。
「あの、ね。アレルヤ。その…」
「うん」
「あのね、お腹にね、その…赤ちゃんが…」
「…え?」
思わず目を瞠りながら聞き返したアレルヤに、ノエルはガバッと効果音がつきそうなくらいの勢いで顔を上げる。そして高熱でもあるのかとアレルヤに思わせるくらいに一瞬で頬を高潮させて言い切った。
「赤ちゃんが、できたの」
自分自身で発した言葉のはずなのに、その声はノエルの耳にも大きく届いた気がした。今まで生きてきた中で一番鼓動が高鳴っているんじゃないかと思うくらい、心臓がドキドキと鳴っている。その大きさは向かいにいるアレルヤにも聞こえているんじゃと思うほど。これは本当に私の心臓の音だよね?お腹の中で赤ちゃんもびっくりしてるんじゃないだろうか・というほど、大きな音がしている。
勢いに任せて告白してそのまま俯いてしまったので、彼の表情は窺えない。アレルヤが何も言ってくれないのが不安になって、ノエルはゆっくりと視線だけをそちらへ動かした。視界に飛び込んできたのは、金色と灰色の瞳を丸くさせたまま固まっているアレルヤの姿で。
「アレルヤ…?」
もしかして、迷惑だった?とこれまで一切湧いてこなかった不安という名の感情が一気に身体中に駆け巡る。先ほどとは別の意味で緊張し、身体が強張る。意味もなく泣けてきた。どうしよう、ひとり私が喜んでいただけ?そう思った瞬間、堰を切ったように涙がぼろぼろと溢れ出した。視界が一気に歪み、アレルヤの姿がぼやける。その途端、アレルヤが慌てたように立ち上がった。
「ノエル!?なんで泣くの!?」
「、だって、アレルヤ、嫌だ、って…!」
「待って!僕そんなこと言ってもないし思ってもいないよ!」
椅子が大きく鳴るのも構わずに、ノエルの元へと駆け寄るように近づいたアレルヤは、その場に膝をついて椅子に座っているノエルの顔を覗き込む。完全に俯いて、しゃっくりをあげながらぼたぼたと涙を流すノエルの頬を両手で包み込んで、その溢れ続ける涙を何度も何度も拭いてから目を細めて笑いかけた。
「僕に気を遣って今日まで黙っててくれたんだよね」
ごめんねと謝るアレルヤに、ノエルはただ首を横に振り続ける。
本当はすぐにでも報告したら良かったのに、ずっと黙っていたのは自分の自己満足からくる驕りでしかない。アレルヤの邪魔にならないように試験が終わるまでは隠し通すつもりだったのに、逆に彼に心配をかけてしまった。こんなこと、したかったわけじゃないのに。
子どものように泣き続けるノエルの頭をアレルヤは撫で続けた。そしてそのままを包み込むように優しく身体を抱きしめる。
「不安にさせて、ごめんね」
ノエルの背中をあやすように軽く叩きながら、アレルヤはノエルの耳元で囁く。体調大丈夫?と聞きながら、アレルヤはゆっくりと噛み締めるように続けた。
嫌なんかじゃないよ、すごく嬉しい。
その言葉を聞いた瞬間、ノエルの身体がぴくりと反応する。本当に?と恐る恐るアレルヤを見て問いかける。親指の腹で彼女の涙を拭ってやりながら、アレルヤは穏やかな笑みを浮かべたまま頷いた。
「嘘じゃないよ。本当に嬉しいし、僕は幸せだよ」
ノエルは嫌だったの?
今度はアレルヤが不安そうに聞いてくる。瞬間、ノエルはこれでもかというほど勢いよく首を横に振った。
「そんなことない!すごく嬉しいし、幸せだよ!」
本当にそうだ。すごく嬉しいし、幸せ。その言葉に嘘は無い。これ以上になく恵まれていて、本当に幸せだ。今、自分はこの世界で一番幸せなんじゃないだろうかって、本気でそう思う。
アレルヤは、なら良かった・とまた破顔する。
絶対、ふたりとも守るから。
ノエルの肩に顔を埋めたまま、アレルヤはそう呟く。ありがとう・と優しく告げられ、いつの間にか嬉し泣きに変わっていたノエルの涙がまたぼたぼたとこぼれ始めた。
緊張と安堵感と解放感と、これからおとずれるであろうさまざまな変化と楽しみと不安と喜びと、とにかくあらゆる感情が身体の中でぐちゃぐちゃになってしまって、ノエルはまるで子どもの頃に戻ってしまったかのように声を上げて泣き出した。
しゃっくりを上げながらわんわん泣き続けるノエルを安心させるように、アレルヤはこれでもかと彼女を抱き締めて、何度も何度もその背を撫で続けた。
END
(20080408)