
君が唄えば愛がひと鳴き
朝の病院は昼間に比べてずっと静かだ。廊下を歩く自分の足音が妙に辺りに響く。他の患者さんを起こさないように静かに歩きながら、目的の病室に辿り着きアレルヤは笑みが溢れるのを隠しきれなかった。そしてなるべく音を立てないように病室の扉を開けてみれば、中から小さな歌声が聴こえてきた。それはアレルヤにはなじみのない言語の歌で。けれどとても穏やかなそれにアレルヤは小さく微笑んで、白い四方の部屋に足を踏み入れた。
「おはようノエル」
白衣を纏ったアレルヤを見とめ、ノエルは歌うのを止めて彼を見上げた。表情全体を緩めて笑みと呼ばれるそれを浮かべる。
「アレルヤ、おはよう。今からお仕事?」
アレルヤはひとつ頷いて、ベッドに座って娘を抱いたままこちらを見上げるノエルの頭を撫でて挨拶のキスを頬に贈る。次いでノエルの腕の中で眠っているマリアの顔を見てアレルヤはまた微笑んだ。うん、今日もちゃんとノエルに似てる(ノエルは僕にも似てる・て言うけれど、断然マリアはノエル似だ。ロックオンも毎日言ってる、うん、そう、毎日)
マリアという名前はアイルランドにいるロックオンがつけてくれた。マリアが生まれる前にもふたりでいろいろと名前は考えていたのだけれども、これという良い名前が思いつかず、やっぱりここはノエルの名付け親であり、ふたりが尊敬するロックオンに頼もうということになったのだ。彼に任せておけば大丈夫、その思いはソレスタルビーイングにいたときから変わらない。
ロックオンに名付けのお願いをしたとき、彼は「直接顔見てから決めていいか?」と、マリアが生まれたという知らせを聞くやいなや即アイルランドから駆けつけてくれた。それから数日後、"マリア"という名前をくれたのだ。聞いたはなし、彼は姪っ子の名前を考えるのに必死になりすぎて仕事が手につかないだけではなく食事や寝ることさえ忘れるような集中ぶりだったとか。…ごめん、君たちには本当に迷惑かけたね。でも良い名前をくれて、本当に感謝してるんだよ。ありがとう。
「体調はどう?」
「大丈夫。今日はとっても気分が良いの」
本来ならもう退院していてもおかしくないのだが、ノエルの身体のことや妊娠中中断を余儀なくされていた腕の治療も兼ねてふたりは少し長く入院していた(ノエルは悪阻もひどかったしね…)。けれど彼女達の担当医から直接聞いたところ、経過がこのまま良ければ近日中には退院出来るそうだ。アレルヤもこの病院に勤めているのでその気になればいつでも会いに来られるが、やはり家に帰ったときに出迎えてくれる人がいないとそれはそれで寂しい。早く家族三人で暮らしたいというのが今の何よりの願いだ。
ノエルの枕元には折り紙で出来た少し歪な形をした鶴や花がある。これはアレルヤが担当している小児科の子どもたちが折ったものだ。不思議と子どもに懐かれる傾向のあるアレルヤが病院でノエルと一緒にいるところを入院している子どもたちに見つかり、その流れでよく子どもたちもノエルの病室に訪れるようになっていた。
ノエルも子どもは好きだし、小さなお客さんの来訪をいつも楽しみにしているようだった。「今日もマリアちゃん可愛かったよ」と仕事中のアレルヤの元に報告しに来てくれる子どもたちの活き活きとした表情を思い出してアレルヤは小さく笑う。治療中には絶対に見られない表情だ(だからすごく嬉しい)。
「さっき、何歌ってたの?」
そういえば、とアレルヤが切り出して先ほどの歌声のことをたずねる。マリアを抱き直そうとしていたノエルからマリアを受け取り、起こさないようにそっと抱っこする。生まれたときから思っていたけど、本当に良く寝る子だ。寝る子は育つ・というから良いことなのかもしれないが、このマイペース過ぎるところは将来の彼女にどのような影響を与えるのかが今から少し楽しみだったりもする(人に流されないことは良いことだと思うしね)。
「故郷の子守唄だよ。アイルランドの子守唄。よくニール兄が歌ってくれてたの」
ノエルははにかみながらそう言って、幼い自分に兄的存在であった彼がよく歌ってくれていたそれを思い出す。ニール兄の声は、すごく落ち着く。ずっとずっと聞いてきたからというのも理由のひとつだろうが、彼の持つあたたかくて柔らかな声音はどんなものよりも効く精神安定剤のような働きを持っている気がする。
そっか、と頷いたアレルヤはノエルの座るベッドに自分も腰掛けた。
「ねえ。もう一回歌って?」
「でもマリア、もう寝ちゃったよ?」
「今はマリアのためじゃなくて僕のために歌って」
いい年した大人が何を言ってるんだか・と自分自身でもそう思う。けれどなんとなく甘えてみたくなるときもあるのだ。それがまさしく、今。一瞬面食らったような顔をしたノエルだったが、仕方ないなぁと苦笑する。
「じゃあ、少しだけだからね」
マリアが嫉妬しちゃうとダメだから、マリアには秘密だよ?と、指を口元に持っていき、秘密・とノエルはもう一度繰り返す。分かってるよとアレルヤは頷き、マリアに嫌われたら終わりだからねと肩を竦めた。「ニール兄の方が上手だけど」と独りごちてノエルが歌い出す。優しくて穏やかなノエルの歌声。この歌声がマリアだけに贈られることに嫉妬してしまうくらい。けれど今は自分だけのために歌ってくれているという事実に満足しながら、アレルヤは一時の安らぎを感じながら目を閉じた。
END
(20080510)