
幻誘の夜を泳ぐ
アレルヤは家事や育児にとても協力的だ。世間では仕事一筋で家庭を顧みない男の人もいるというくらいだから、仕事も人一倍忙しいのにこうやって家のことも手伝ってくれるアレルヤには本当に感謝しても仕切れない。
ノエルが夕食の片付けと明日の朝食とお弁当の下ごしらえをしている間、アレルヤは一人娘を寝かしつけてくれている。自分達の寝室とは別にある子ども部屋で、今頃は絵本でも読みながらマリアの睡魔を誘っているのだろう。今日も仕事が終わるのが遅かったのに(勤務時間が不規則な分、アレルヤの身体の負担が心配)、本当に優しい人。そうノエルが思いながらキッチンに立っていると、リビングの扉が開く気配がする。対面キッチンになっているそこから視線を上げてアレルヤを迎える。マリア寝た?と尋ねれば、うん、とだけ答える彼。しかし、どこか様子がおかしい。何となく、沈んでる?何かあったのだろうか。ノエルは作業していた手を止め、エプロンを外しながらソファへと腰掛けた彼の元へと向かい、どうかした?と隣に座れば、アレルヤがひどく真剣な顔をして言った。
「僕、髪染めようか」
思わず口が開いた。虚を衝かれるとはまさにこのことか・とノエルは思わず思考が止まった頭の中でぼんやりとそう思った。が、すぐに現実に戻る。いきなりどうしたの?と理由を尋ねてみれば、アレルヤはこの世の終わりと言わんばかりの悲観的な表情でノエルの方へと顔を上げた。
「マリアが“なんでマリアの髪はパパとママと色が違うの?”て聞いてきたんだ。ナーサリーで友達に聞かれて、同じ色じゃないなんて変だ・て言われたらしくて…」
マリア、傷ついちゃったかな?それともそれが原因で仲間はずれにされちゃったら…!とどんどん飛躍していくアレルヤの思考を、ノエルは何とか抑えつけようと言葉を慎重に選びながらアレルヤを落ち着かせる。アレルヤはいつもはその穏やかな性格と医者という職業柄、本当に落ち着いていて何事も冷静に物事を見極める力を持っている。だが、マリアのことになるとそれは別。一人娘が可愛くて仕方ないのだとは思うが、親馬鹿と言われても仕方がないくらい彼女のことになるとその冷静さも全て取り払われてしまうのだ。ノエルは「ちょっと待って」と勢いのまま立ち上がろうとするアレルヤをその場に留めて、彼の顔を覗き込んだ。
「マリア、それで仲間はずれにされてるって言ってた?」
「それは言ってないけど…」
「じゃあ大丈夫よ。何かあったらナーサリーの方から連絡があると思うし。それよりちゃんと髪の色が違うこと、説明した?」
マリアの髪は柔らかい茶色をしている。丁度アイルランドにいるニールと同じような色。アレルヤの黒髪に対してノエルは銀髪。家族三人髪色が違うのは珍しいかもしれないが、ノエルの母が亜麻色の髪をしていたのでそれを受け継いだのだろうと、彼女が生まれたときにアレルヤともはなしをしたことがある。マリアはちゃんと説明すれば分かってくれる子だ。けれどアレルヤのこの様子からすると、説明はしたものの自分の中で消化しきれてないらしい。よく父親が娘をお嫁に出すときのことを想像して「絶対に嫁には行かせない!」と娘がまだ小さい頃から宣言するようなことがあるけれど、アレルヤの場合それをマリアが生まれた日から言い続けているのだからそのように飛躍した考えに行き着くのも無理はないのかもしれない(むしろ生まれる前から言ってたような)。
ニール兄と一緒にあまり強くないお酒を飲みながら、「マリアがお嫁にいっちゃったら僕は…!」と愚痴っているらしい。ニールはそんなアレルヤを宥めつつも、大事な姪っ子がお嫁に行くときのことを想像して、結果アレルヤと一緒に沈んでいることも少なくないらしい。本当、大事に思ってくれるのはありがたいけれど、そこはふたりとも考えすぎだ。本当にお嫁に行けなくなってしまったらどうするのだろう(やっぱり好きな人ができたときは、その人と一緒にいてほしいもの)。
そんなことを考えながら、ノエルはアレルヤの膝を軽くさする。大丈夫だよ・と努めて明るく笑った。
「マリアはちゃんと説明したら分かってくれる子だから。それにお友達にも自分で説明するよ、きっと」
「でも、僕が染めて解決するなら、」
「それは表面的なだけで根本的なものは解決しないでしょう?小細工なんかしても逆効果だよ」
それくらいアレルヤだって分かってるでしょう?と言ってみれば、そうだけど・とアレルヤがしゅんとうな垂れる。本当、マリアのことになるとどうしてこうも変わってしまうのだろうか。アレルヤが担当する小児科の子どもたちがこんな様子の彼を見たら何と言うだろうか(普段から想像なんてつかない姿だもの)。
ノエルは溜息を吐きたくなるのを飲み込んで、最後の仕上げにかかった。多分、これで大丈夫。
「それに私は、髪を染めてる人より自然のままでいる人の方がずっと好きだよ」
ね?ともう一度アレルヤの顔を覗き込みながら言ってみれば、うな垂れていたはずのアレルヤががばっと顔を上げる。本当?と聞いてくるアレルヤに、本当だよと笑みを作って見せた。
「アレルヤの黒髪、昔から大好きだもの。今色を変えちゃったら、ちょっと寂しいかな」
この気持ちは本当だ。アレルヤの黒髪は昔から本当に好き。それを聞いたアレルヤは、暫くの沈黙の後、表情を和らげて笑みと呼ばれるそれを表情に乗せる。いつもの彼の、優しい表情だ。
「じゃあ、止める。マリアもちゃんと説明したら分かってくれるよね」
「うん、大丈夫だよ。明日一緒にお母さん達の写真見せてあげたら絶対大丈夫」
大丈夫と繰り返し呪文のように唱えてみせれば、そうだよねとアレルヤも頷き続ける。自分に言い聞かせて安心させようとしているのが手に取るように分かって、なんとなく面白く感じた。
「安心したら何だかお腹空いてきたよ。片付けしてるところ悪いけど、何かつまめるもの、ある?」
いつものアレルヤに戻った。彼に笑顔で頷いて、何なら一緒にちょっとだけお酒飲もうか?と提案し、ノエルは朝食の下ごしらえが途中だったキッチンへと一度戻る。少し前にニール兄から貰った故郷のお酒とグラスをふたつ取り出して、アレルヤが待つ机へと運んだ。朝食用に作り置きしていたピクルスも一緒に用意し、飲みすぎないように少しだけ注いだグラスで乾杯する。いつもお疲れ様・とアレルヤが掛けてくれた労いの言葉に、アレルヤもね・と返しながら、先ほどまでの動揺っぷりはどこに消えたんだろうと思いつつグラスを煽る。あまりアレルヤが飲みすぎないように注意していなくては。じゃないと、また先ほどのマリア病の彼に戻ってしまう。家族を大事にしてくれるのはありがたいけれど、たびたびああなってくれては少し困る。今度ニール兄に相談してみよう。きっと、彼は笑い飛ばすのだろうけど。
END
「 なんてことがあったんです。ってニール兄!笑わないで!ちゃんと聞いてます!?」
「ハハッ、悪い悪い。まあ仕方ないだろ。父親なんてそんなもんさ」
(20080518)